真名
呪術師の男に蹴り飛ばされて以降、奏はぴくりとも動かない。ウェインスフォードの双子は何が起きたと軽く恐慌して様子を窺っているが、近重は背筋が凍るような心境で事情を察していた。
奏を呪ったであろう呪術師は、先ほど呪符に息を吹きかけながら逆らうなと命じた。ただその動作だけで人の行動を縛れるほど、呪術も万能ではない。必要なのは、最古の呪。つまりは名前──通り名などではない、存在をそうたらしめる唯一である真名。
祓魔士が廃れ始めた昨今の秀真では、名前を呪として警戒する慣習が薄れてしまった。かつてはつけた名は親と本人以外には決して知らされず、幼名と成人した時に新たな名を与える形で警戒していた。例えば呼ぶ側にその気はなくとも、口にするだけで存在を縛るからだ。
けれど今は、生まれた時に与えた名をそのまま呼ぶ。呪として意識されず繰り返し呼ばれることで効力は薄れる、呪術師や祓魔士がいない世ではそれで問題はないけれど。
今相対しているのは、生粋の呪術師だ。多分に最後の呪い士よりも純然と呪いの力だけを追求した、本場である陽亮大陸の。真名を呼ばれるだけでも縛られるのに、力ある言葉で呪符を使われれば如何な奏とて支配されて当然だ。
「奏様……!」
違う。近重が呼びかけられる名前はそれだけだが、彼女を示す名前はあの呪術師が呼んだものだろう。不幸なことに実の父親であれば封印されるべき名を知っていて不思議はない、ひょっとして奏本人に呼ばれた意識が薄くとも存在そのものを示す形には抗いようがない。
「近重、奏嬢は」
「っ、意識が戻られません。真名を取られては、もう」
呪術に対抗し得るのは、祓魔だけ。この場で可能性があるのはだから近重だけだが、悲しいかな彼女は祓魔士として認められていない。祓魔寮に勤める祖母に憧れて、どうにか見様見真似ができるようになっただけ。取られた真名を取り戻す術も分からない、唯一と仰ぐ主を助けることさえできないなんて。
「近重、奏嬢を連れて退避!」
ぐずぐずするなと理人の尖った声に刺され、ようやくはっとする。
双子もそれでようやく自分のなすべきを思い出したように動き出し、武器を奏に渡して手元にないクザキが奏を抱き上げる。ウズハはすかさず銃を構えて呪術師を牽制できる位置につき、近重に先に行けと見ないまま命じてくる。奏のことを思えばすぐにも従いたいが、後ろ髪を引かれる思いで振り返る。
ウズハよりも呪術師に近い場所で届かない攻撃を続ける理人は、手を止める様子がない。呪符を防御に回す間は呪術師も動けない、つまり奏を確実に逃がすには結界を越えるまで斬りかかり続けなければならないだろう。
「静寂殿、」
禁足地であるこの場所は、奏か近重が先に行かないと結界の場所も分からず越えられない。つまり先に行くとは理人をここに置いていく──見捨てていくに他ならない。奏はきっとそれを望まないと躊躇するのに、
「行け!」
ぐずる子供を叱るような背を打つ声に、ぐっと奥歯を噛み締めて近重は振り切るように向き直った。
奏に貰った正式な呪符は、もう使ってしまった。以前に貰った呪符は数枚あるにはあるが、あの呪術師を相手にするにはそれこそ児戯にも等しい威力にしかならないだろう。ならば今の近重にできることは、主の命を危険に晒して理人を助けることではない。誰を見捨てても唯一たるを守ること、だ。
「こちらへ」
短く促して結界へと足を向けると、奏を抱いたクザキが隣に並んでウズハが背後を守る。奏を守ることしか頭にない双子だが、今ばかりはどれだけも頼りになる。結界を抜け、祓魔寮に駆け込めば今の奏の状態さえ何とかしてくれるはずだ。
奏が戻ればそれでいい、どうして理人を見捨てたのかと咎められ、従者として仕えることが叶わなくなるとしても。奏の命には代えられない。
「は、術も使えぬ小僧を置いて逃げるか。さすが半端者の従者は術もろくに扱えぬ小物よな」
嘲笑う声が背中どころか心臓に突き刺さるが、知ったことか。自分のちっぽけな矜持などどうでもいい。理人が望んで受ける傷を、どうして近重は避けると思うのか。
吐き捨てるのも悔しくてぐっと唇を噛み締めて足を速めると、ははと低い笑い声が届いた。
「ここで奏嬢を優先できない程度の忠心なら、とっくの昔に俺が切り捨ててる」
面倒な侍女なんだよと心底嫌そうな評価は、悔しいほど嬉しい。
きっと、あの男には分かるまい。奏にさえ理解されたいとは思わない、ただの従者の意地だ。どれだけ不興を買おうと、それが原因で命を落とそうと、主がため。
「「カヤ以上に大事なものなんて、他にあるわけないだろ」」
何を馬鹿な会話をしているのかと口を揃えて吐き捨てる双子に、近重の口許も知らず緩む。
ああ、そうだ。この場にいるのは奏が何より愛し、奏を愛している存在だけだ。従者であれ、並び立つ者であれ、家族であれ。他の何一つ理解できず共鳴できずとも、守るという一点だけなら他の誰より信頼し、協力できる。
「必ず、お守り致します」
大事にクザキが抱いた奏に振り返らないままも誓うと、戯れ言をと低い声がざらりと耳を打った。思わず振り向きそうになったが、ひゅっと風を切った剣が何かに弾き返されたような音がそれを咎める。
違う。今は結界を越えることこそ、近重の使命。呪術師がまた真名を使って奏を思うままに操れないよう、理人が覚悟を持って剣を振るうから。逸早く出て奏を解放、
「静止しろ」
唐突に呪術師の低い声が届いたと思うと、前に進むべく逸っていた心とは裏腹に足が止まった。上げた足が下りない、前に進もうとして止められたのだから普通に考えればよろめくだろうに、それさえなく微動だにしない。どうして息ができているのか不思議なほど、他の動きのすべてが禁じられたのだと絶望に近く理解する。
(何故!? 静寂殿が切りつけている間、呪符を使う隙は絶対になかったのに。呪符が勝手に発動でもしない限り、)
有り得ないと考えを進めた近重は、まさかと青褪めた。
いつだったか、奏が呪符を眺めながら呟いていた。呪符に声を吹き込めれば勝手に発動する便利道具になるよねぇ、と。できるのですかと目を瞬かせて尋ねると、私には無理だけど原理としてはできるはずと答えられたのだったか。
(悔しいけれど、あれは本物の呪術師。奏様が思いつかれたように自動で発動する呪符を便利と思えば、その研究に費やす時間はあった──奏様から奪い取った時間が、売るほど)
歯噛みする気分でそう考えるが、実際にはその行動も取れない。できるのは呼吸と、ほんの僅かに視線を動かすだけ。少し後ろに位置しているクザキが抱えている奏を窺うことさえできない、案じる声さえ舌に乗らない。
「まったく、煩わしい小物どもが。まさか本気で呪術師から逃れられると思ったのではなかろうな?」
そうであれば傲慢なことだと鼻で笑った呪術師が、溜め息めいた息を大きく吐いてばさりと大きく袖を翻した音がした。このまま奏の側まで寄られればどうしようかと鼓動を速めていていると、呪術師は嘲るように語尾を上げた。
「何だ、その目は。よもや自分の剣が私を足止めしていると信じていたのか? 術の何たるかも理解できぬ物知らずは幸せよなぁ」
言って何かを打ちつけたような音がするのは、きっと嘲笑を向けた理人を殴り倒した音だろう。自分の状態から考えても声も出せないに違いなく、身を挺して奏を庇う存在が呆気なく剥がされたことに許されている息さえ詰まる。
(奏様……!)
どうか一人だけでも逃げてほしい。呪符から逃れる術を奏ならきっと知っているはずだ、誰を見捨てても逃げてほしいと切実に祈るのに。
「ファン。さあ、私の許に来い」
聞き慣れない名前らしきを傲岸に紡いだ呪術師の声で、誰かが動いた気配がする。先に立って結界へと向かっていたせいで振り向くことさえできない近重には予想をつけるしかできないが、呼ばれてそちらに足を向けているのはきっと奏だ。いつもであればどうあってもクザキが手離さなかっただろうが、今は足を止めさせることさえできないに違いない。
悲痛な声のない呼びかけが例え空気を打っても、きっと奏には届かない。
(やめて、お願い、奏様は。奏様だけはどうか助けて、誰か、誰でもいい、神様……っ)
信じてもいない神にさえ縋ったところで、願いは叶わない。一歩一歩、けれど確実に、必死で近重たちが稼いだ距離を誰かが戻っていく足音が聞こえる。
「呪いの存在を知ったなら、もう繰り返すことに意味はない。まあ、経年による劣化も著しくなってきたところだ。ここで心臓を捧げたほうがよほど役に立とう」
生まれからしてさほどの価値のない娘ではあったが、とゆっくりと近づいている奏に対して鼻で笑う呪術師に殺意だけが募る。しかし呪術師はまるでそれを喜ぶように、僅かに空気を震わせた。
「怨め。呪え。その状態で死ねば、より強い力となる」
より彼女のためになるとどこか恍惚と呟いた呪術師は、きっともうすぐ側まで近づいてしまったのだろう奏に意識を切り替えたようにくつくつと喉の奥で笑った。
「道連れの供物を四つも連れ来たことだけは、褒めてやろう。ようやく私の役に立てることを喜んで死ね」
さあ心臓を寄越せ、と愉悦に満ちた命令のすぐ後に、ぐしゅりと耳障りな音が響いた。
まるで肉の塊に、無造作に刃物を突き立てたような。実際に心臓を抉り出すかのような?
「奏様!!」
繰り返していた悲鳴じみた声で実際に名前を呼べたと認識した近重は、必死の形相で振り返った。それが例え主の最期を見届けることになろうとも、自分の罪を見せつけられることになろうとも。敵わずとも必ず呪術師に一矢報いて、そして、
「奏嬢……?」
近重のみならず、他の全員も身体の拘束が解けたらしい。多分に転がっていただろう理人がすかさず身体を起こして上げた声が不審を帯びて見据えるものを、近重も瞬きを忘れて凝視する。
抱き合うほどの近距離で向かい合った二人の内、片方の背中から赤い何かが覗いている。僅かに指先が動いたのを見て、その赤いものは血に塗れた手なのだと認識する。するけれど、通常有り得ない事態は不気味な物語の内でも見聞きしたことはなく、まるで現実味がない。
ただ背中から覗く指先からぼたぼたと落ちている赤が血液として、あの勢いで流れれば命が尽きるのもそろそろなのではなかろうかと考えを進めてようやくはっとする。
「奏様!」
慌てて駆け寄ろうとした近重を軽く手で制してきたのは、ウズハ。普段は仮面じみた笑顔を浮かべていることが多いのに、今は珍しく不快を表にしている。
「今更行ってどうするのさ。そこで見てれば?」
「お前が行ったところで何の役にも立たないよ」
事実を少しも和らげることなく直接的に投げつけてくる双子にむっとするが、悲しいかな覆しようのない事実だ。役立たずを自覚したなら側には寄れない、ただ遠く奏の姿を祈るように見据えるしかできない。
「、どう、」
何が起きたのかと自分の胸を見下ろし、問いかける途中でごふっと血が吐かれる。泡交じりの赤い血は、肺が傷ついたせいだろう。
一番近くにいた理人も近寄るのを躊躇っているようだが、周りの様子に頓着することもなく真っ赤な手が相手の胸から無造作に引き抜かれた。汚らわしげに手を振って血を払い落とす姿を見て、はっとしたように理人が手巾を取り出している。近重も持ち合わせているのにと歯を噛み締めるが、出遅れた以上は黙っているしかない。
理人の出した白いそれを当然のように受け取って血を拭った奏は、胸に大きな穴をあけて後ろによろめいている呪術師を見て可愛らしげに小首を傾げた。
「外法が得意で御免遊ばせ?」
呪符で止めを刺すほうがお好みでしたかしらと、汚れていないもう片方の手を口許に当てて楚々と笑う奏に呪術師の吐く血が増える。口汚く罵る代わりに血を吐くのは構わないが、奏にかかれば何とするのか。
本来ならもっと遠ざけなさいませと理人を嗾けたいが、信じ難いものを見る目をしている呪術師に楽しげに笑いかけている主の邪魔をするのも野暮だろう。
(ああ、そうだ。奏様があのような輩に負けてしまわれるはずがなかった……っ)
ただ信じるだけでよかったのに、未熟な我が身が憤ろしい。
信じる者は救われる。絶対的な主の前では、ただそれだけがすべて。




