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猫の尻尾と女の名前  作者: あつろ
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古木の祈り

洞院緑水とういんりょくすい殿とお見受け致します」


 お初お目にかかりますと斜め四十五度の角度で奏が頭を下げる先は、一見したところ今にも枯れそうな古老の大木でしかない。本来であれば応えのあるはずがなく、傍から見れば頭のおかしい女と思われることだろう。


(ついて来られないとはいえ、本当にあの三人がいなくてよかった)


 人が礼を尽くす後ろでわーわーぎゃーぎゃー騒がれた日には、血は穢れとして忌避するとしてもついうっかり手足が出かねない。それでこちらの誠意を疑われることになったら、ここを出た途端に血を見ただろう。

 あれでも一応は弟と拾った猫だ、無闇に暴力を振るうのが趣味でない以上、できるだけ避けたい。


 真摯にと表現するには些か物騒なことを考えつつ態勢を維持していると、かさり、と目の前で何かが動く気配がする。咄嗟に視線をやりそうになるのを何とか堪えて大木の根本を見つめていると、視界の端に映る根の一本が億劫そうに動いた。


「初、にはござらぬなぁ……」


 もこもごと幾らか聞き取り難い声が微かに耳を打ち、左様ですかと惚けるつもりもなく首を傾げる。


「幼き頃にお会いしたことがあるやもしれませんが、生憎と幼過ぎて記憶にはありません。無礼とは存じながら、私にとっては初と言うより他ございません」

「……左様、左様。あの頃の姫様ひいさまは、まだ母御の足元に隠れておいでの年頃でござったか」


 お顔をお上げくだされと促されてようやく態勢を戻すと、古木とほとんど同化した枯れ木のような老人がそこにいる。彼女を認めてわざわざ模ってくれたことに謝意を示し、一礼する。


「改めて、先の祓魔頭ふつまのかみにご挨拶申し上げます。最後の呪い士が一子、今の名を雪代奏と申します。お察しのこととは思いますがどうやら呪われた我が身にございますれば、当時の名はどうぞ封印を」

「既に朽ちた古木のじじいにござる、どうぞ畏まってくださるな。御名をお控えするならば、懐かしき姫様とお呼びして構わぬか」

「御前のご随意に」


 話す内に、言葉が流暢になっている。まだもう少し、話すくらいはできそうだ。

 枯れ木と変わらぬ様相ではあるが、目と思しき場所を見据える。ただ木の洞が虚空であるように、洞院であった頃の目口であったろう場所もただ穴が開いているだけだ。


「姫様に、斯様な無様を晒す無礼は許されよ」

「無様などと。けれどそれは、祓魔の方には相応しくないしゅと存じます。知った経緯に見当はつきますが、実行されるに至った心の内をお教え願えますか」


 無礼と叱責されるのも覚悟したあまりに歯に衣を着せない質問に、洞院だった古木は掠れるように笑った。ざわざわと枝が揺れ、葉が揺れる。もう大分、木と同化が進んでいるらしい。


「賢き姫様がお察しの通り、師に習った呪の一つ。何故これをしたと問われれば、ただ天領がため、というより他にござらんなぁ」


 どこか面白がったような答えに、やはりそうかと心中に小さく息を吐く。


 洞院が行ったのは、人を結界の一部に組み込む呪だろう。或いは水、或いは火といった自然に身を投げ入れて一つとなり、結界の一部とする。洞院が選んだのは古木と一体となり、山に根を張る方法のようだ。

 強力ではあっても忌避されかちなのは、前述の水火であれば一瞬の内に肉体が失われるのに比べて木と一体化するには時間がかかるからだ。長く人であった頃の意識が残り、結界の強度が増すのに比例して苦痛も弥増す。


 わざわざ苦しみを長引かせるような選択は理解できず、不躾とは存じながらと洞院を見据えて口を開く。


「御前がその身を差し出されたとて、天領の結界が強く保たれるは精々が五十年にございましょう。御前の次なる祓魔頭がなさらなければ、百年も経てば結界そのものが消えるだけ。承知の上で、何故なされたのか」


 分からないまま質問を重ねると、さっきより強く枝が揺れてさざめく。怒っているのではなく、どうも笑っているらしい。


「姫様も、やはり呪い士であられる。帝が御為の祓魔とは、違うのでござろうなあ」

「帝は国が君主として仰ぐには足ると思います。為人ではなく、機構そのものが。祓魔の方には御不快でしょうが、あり方を否定する気はございません」

「なんの、なんの。正直なところ、我らもその機構にお仕えする者。帝の御意志が、どのようであられようとも」


 命を懸けるはそれ故にと、穏やかに古木が語る。


 言わんとしているところは分かるけれど、理解には及ばない。否、したくないというのが本当のところだ。今口を開けば批難めいた言葉を紡ぎそうで何とか口を噤んでいると、小さく枝が揺れた。


「呪い士と違い、祓魔は帝にお仕えするために生かされてきたもの。この手段を選んだはただ爺の意地にござるが、それをしてもよいと思う程度には天領に愛着がござる。将軍の、異国とつくにの、無粋を払うには五十年ほど稼げれば上々。その頃にはきっとこの老木も朽ちて、憂うこともあるまいて。後の備えがなかったれば、残ったものが焦ればいいだけにござらんか」

「……ご尤も。無粋を申し上げました」


 理解できずとも先達の深慮には敬意を払うべきだったと頭を下げると、おやめくだされとひゅうと風が通る。ゆるりと落ちてきたまだ青い葉が、奏の髪を撫でて地面に落ちる。


「呪い士と祓魔士は違うもの、朽ちる前に再認識できたは喜ばしい。……して姫様は、爺の最期を眺めにおいでなさったか?」

「いいえ。叶うならば、御前にお尋ねしたき儀がございます」

「おお、おお。今しばらく、この爺の記憶もござろうよ。姫様の問いとあらば、何なりと」


 嘘偽りなくと何の保証もない言葉は、けれど他の誰より信頼に値する。感謝しますと目礼し、母のことを知りたいのですと口火を切る。


「未熟を晒してお恥ずかしい限りですが、先日指摘されるまで自分にかけられている呪いに気づきませんでした。振り返ればどうやら呪い士の子であった頃に、かけられたはず。知らず既に二度ほど時を奪われたせいか、どうにも母の記憶が朧なのです」


 懐かしく、愛しく思うのは嘘ではない。家族としての情を最初に教えてくれたのは、確かに呪い士の母だ。けれどどれだけ思い出そうと努めても、名前はおろか顔さえぼんやりとしか浮かばない。ひょっとして擦れ違っても気づかない、ただの不孝者だ。


 過ぎた時間が長すぎて、記憶が流れたのならまだいい。自分を不忠の上に冷淡と判じれば済むだけだ、けれど誰かが故意に奪ったのなら不愉快極まりない。なくても今まで過ごしてきたろうと言われればそうだと頷く、けれど恨みをそうと知ったなら晴らさなくては暗殺者として女が廃る。


 詳しく語る気はなくとも知らず顔に出たのか、古木は面白そうにうろを窄めた。


「左様、左様。姫様は、きかん気が強く、負けん気も強うござった。母御も手を焼いておられたか」

「……そんな覚えてないことを口にされても、嘘かどうかの判別もつきません」

「ほ、ほ。嘘はつかんと申したに」


 お変わりないことでと枝を揺らされ、むうと拗ねる。ただ機嫌を損ねて踵を返すには聞きたいことがあるのは自分のほうだ、揶揄われるくらいは目を瞑るべきかと諦める。

 気を取り直して顔を上げると、泰然としたはずの古木が次の問いを待ち侘びているらしい。


「母の直弟子のお一人が、陣明の名を貰ったと聞きました。ですが母は秀真まほろ出身のはず、その音は母の名に思えません。では誰の名を何のために授けたか、ご存知ですか」

「ああ……、ああ。それも忘れてしまわれたか。げに憎きはジンメイ」


 初めて、古木が怒りを滲ませた。突風に揺れる枝のようにざかざかと葉を打ち鳴らし、地鳴りのような音を立てて太い根が蠢く。思わず二歩ほど後ろに下がって転ばないように備え、大木の怒りが少しでも収まるのを待つ。


 しばらくしてようやく少し落ち着いたらしい古木が、失礼致したと謝罪して見据えてきたのが分かる。


「姫様もお察しの通り、師が御名には非ず。ジンメイは大陸の呪術師が名にござる」

「呪術師」


 呪い士にとっての源流ではあるが、秀真ではもはや聞かない存在だ。母をそう呼ばれて否定せずにはいられなかった程度には嫌な響きは、古木から聞いても変わらない。


 まだ母の直弟子であった頃の意識が残る存在は、警戒を呼びかけるようにざわざわと葉を鳴らす。


「師が名を与えた思惑は、師のみが知るもの。だが我ら弟子の中ではそれは忌み名、姫様に警戒を与えるべく賜ったものにござる」

「では私に届いた今は、改名をお勧めしたほうがよろしいですか」

「なんの、なんの。この老骨はその役どころを与えられはせなんだが、姉弟子を羨ましく恨めしく思うたもの。姫様のお役に立つべく、師から賜ったお役目なれば」


 誇らしげに語られ、そういうものなのかと首を捻りたくはなったができる反論はない。残念ながら彼女には師もなく、託された想いを届けたい大事な存在も持ち合わせないからだ。


 古木は何だか孫でも見るように洞を細めていたが、すぐに気を引き締めたようでざわりと枝を鳴らした。


「姫様、祓魔のことは気にかけられずともジンメイは然に非ず。口惜しくも確かな呪術師なれば、近寄られぬが賢明にござる」

「ですが近寄らずとも呪いは進行し、二度目は最初に比べて間隔が短くなっていました。このままでは三度目は、もう目前かと存じます。知らず奪われるが無様を二度も晒したは、呪い士の子として不明の極み。知った以上は時を戻せずとも、ぶん殴るくらいはして当然と思われませんか」


 幸いにしてできるだけの力は蓄えてきましたと笑顔になると、僅かに沈黙した老人は不意に笑い出した。


「ほ、ほ。ほ、ほ。姫様は、姫様のままであられる。ああ、懐かしき師と瓜二つ。彼の方も、決めたことを貫く時は姫様のように笑まれたものにござる……」


 懐かしい、と遠くを見つめる洞院の目はそこに母の姿を映しているのだろうか。振り返って確かめたい衝動に駆られたが、思い出に浸る老人の邪魔をするも無粋だろう。彼女が縁となるならば、今回の礼代わりに黙っているくらい造作もない。


 さわさわと、誰かを慰めるような風が柔らかに吹く。誰のために、誰が吹かせているのかと知らず目を伏せて詮無い考えに浸っているとそっと頭を撫でられた気がして目を開けた。


「姫様が叶えたいと仰せなら、上手くいくようただ祈るが筋。なれど努々油断召されぬよう。大陸の呪術師は、悔しいが我ら祓魔が束になっても叶わぬ力にござる。その上、あの男の本性は下種の極み。この爺がまだ動けましたならば、盾にもなりましょうものを……っ」


 天領への義理立てをもう少し後に回しておればと軋むような音を立てる古木に、割れかねないからおやめくださいと慌てて止める。


「お気持ちだけで。御前が生涯を通して尽力されたのは帝がため、ならば最期もそれに尽くされるが道理では」

「……ああ。ああ……。爺には爺の、役目がござったな」

「私には私の役目があるように」


 幕引きは自分の手でと軽く胸に手を当てて一礼してみせると、さやさやと葉が揺れる。


「せめても師の御名は、お教えしたいがよかろうか」

「それは、是非に」

「常盤。家の名はあらず、ただ常盤、と」


 紡がれた名前は驚くほど自然に、すとんと胸に落ちた。ああ、母の名前だと思うと目の奥が熱くなる。

 ぐっと唇を噛んでその姿を隠すように片手で口許を覆うと、洞院が何だか褒めるように目を細めた。


「姫様には、母御の想いという何よりの加護が今もござる。お忘れなきよう」

「御前にとっては安穏を乱す邪魔者にございましたでしょうが、お伺いしてよかった。救われた心持ちです、ありがとう存じます」

「なんの、なんの。師のお役に立つことは叶いませなんだが、姫様のお役に立てたならばこの爺も長く生きた甲斐があったというもの」


 言って葉を揺らした古木は、お会いできて喜んでおるは爺も同じと小さく呟いた。


「我が身は帝がため、このまま結界とあり続けるとしても。今よりしばらく、我が祈りは姫様がため。……それだけはお許し頂けようか」


 さりさりと、拒絶されるのも覚悟したように不安げに枝が揺れる。孫の機嫌を窺う祖父のような仕種に自然と笑い、さっきより深く丁重に頭を下げる。


「祓魔頭のご厚情には、感謝しかありません。見事母を救えますよう、どうか我ら母子の幸運をお祈りくださいますと幸いです」


 語られなかった母の末路は、この時間を経た後に彼の姿を見れば自ずと知れる。

 自分の苦痛を長引かせることになったとしても、話せる状態ではなくなっていたとしても、いつか奏が訪れて理解することを期待して取られた手段だと──そうしてくれるほどに母が慕われていたのだと知れたのが、何よりの収穫だ。


 多分にもう二度と会うことが叶わないだろう母の直弟子に最大の感謝を捧げると、嘆くように、喜ぶように古木が泣いた。


「ああ、……ああ。祈りましょう、我が意識の尽きるまで。祓魔としての道を示してくださった我が師と、祓魔の最期を看取ってくださった姫様がため」


 行かれませ、と風が緩く背を押す。どうぞお気をつけてと、薄らぐ意識の中でも案じてかけられる声に強く頷く。


 行くべきならば、示された。後はどれほどの困難であろうと、貫くだけだ。

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