王の警告
「頼もーう」
多分に秀真の人間以外には通じないだろう声をかけながら、王の居室に続く扉を奏が無造作に開け放った。結構な勢いで押し開けられた扉はけれど壁にぶつかって跳ね返ったりせず、訪問者を招き入れるように大きく開いたまま止まっている。どうなっているのかとちらりと視線を走らせたが、奏が気にした様子もなくずんずんと進むので遅れないようについていく。
奏が真っ直ぐに見据えているのは、正面の玉座とも呼ぶべき椅子に深く腰かけている男。老年と評される年齢なのだろうが、その逞しい体躯とぎらつくような眼差しが老人と呼ぶのを躊躇わせる。理人と比べても、体格ではあちらが上かもしれない。
座っていても窺える身長と腕周りからして、叩き潰すのを目的とした大刀を得意としていそうだ。ただ手の届く範囲に武器は見当たらず、肘を突いた態勢で面白がったように奏を眺めている様子を見れば敵意はないらしい。
「久しいな、カヤ。息災か」
「お人違いをされているのではありませんか。私は雪代奏と申します」
「は。お前の今の名がどうでも俺には関係あるまい。そもそも呼ばれ方に拘るなら、名乗る名を自ら減らせ」
幾つ偽名を持っていると揶揄するように目を細めた相手の言で、奏は嫌そうに顔を顰めたがすぐに諦めたように息を吐いた。
「お久し振りです、キング」
「俺もルウェンの名があると宣うか?」
どうせお前も好きに呼ぼうと片眉を上げた王──ルウェンに、奏は小さく肩を竦めた。苦くはあっても口許に笑みを刷き、軽く右手で自分の胸に手を当て、膝を曲げるようにして頭を下げる。この国の女性が最上の敬意を示す時の礼に、ルウェンは満足そうに目を細めてわざわざ用意させたのだろう長椅子に三人とも座るよう促してくる。
固辞しかねなかった近重は、奏に一瞥されると大人しく右端を選んで座った。理人にしても初動が遅れるので座りたくはなかったが、咎めるようにぽんと背中を叩かれては従うしかない。左端に浅く座ると、それを見届けて奏がようやく真ん中に座った。将軍に対した時とは違い、面倒そうな顔と声を隠そうともしていない。
「それで、わざわざ近衛師団を派遣して嫌がらせに近く招いたのはどんな理由があってのことか。お聞かせ願えますか」
「ふむ? 友を招くのにいちいち理由がいるのか。他に知らんのでな、やり方が分からん」
迷惑だったかとさらりと尋ね返すルウェンに、奏はものすっごく、と強く深く頷いて肯定するが、口許が笑ったままではまともに受け取られはしないだろう。
「大々的に知られてない存在を、そもそも友とは呼ばないんじゃないかって疑問は残りますが。それより暗殺者しか友達がいないって悲しすぎますよ、キング」
「そうは言うが、お前ほど無礼で無欲な者は他におらんでな。この国が欲しいなら俺が死んでからにすればいいものを、こそこそ画策されては信用に値せん」
「無欲って、金銭だけなら国家予算ほど分捕った覚えがございますが」
何を言ってるんだと奏が首を傾げ、その金額の途轍もなさに近重がぎょっとしている。理人としてもこの口振りだと冗談ではないだろうなと察して苦笑したくはなるが、口出しを許されているわけでもないならそんなこともあったんだなと認識する程度だ。
ルウェンは何故かそこで初めて不快を浮かべ、たったそれだけで引き下がりおってと短くぼやく。
「俺の命はそんなに安価か」
「キングの命が海の水と同じ量の金塊でも賄えないとしても、受け取る側の迷惑も考えてくださいよ。もう死ぬしかないなって災害から救い出したとか、劇的なエピソードの恩人じゃないんですよ。ただ殺すのをやめる程度で、そんなものを受け取れるわけがないでしょう」
「戯言を。お前が殺す気になれば、俺が気づく前に終わらせることも可能だったろう」
「……まあ、これでも天下のウェインスフォードなので」
今からでもざっくりやれますよと笑顔で首をかき切る動作をする奏に、ルウェンは怒ったり怯えたりするでもなく呵々と大笑する。
「あれ以来、お前がいつ取りに来てもいいように毎年金の用意はさせておる。今の見逃しの礼に持って帰るか」
「そんな天文学的数字、大人しく国庫に納めときなさい!!」
個人で自由にする金額じゃないと全身で突っ込む奏に、ルウェンは肘掛けを叩いて喜んでいるらしい。
「相変わらず、お前は無礼で無欲よな」
「キングは変わらず頭おかしいですよっ」
がっと噛みつく奏にも、ルウェンは目を細めるだけ。何やら親しい友人のような遣り取りに、心がざわつくのは自分の修行が足りないからだろうか。
「……奏様は、王とお親しいのですね」
思わずといった様子でぽつりと溢した近重は、慌てて口に手を当てると真っ赤になって差し出口をと俯いている。近重の目にもそう見えるほど気安い関係の二人は、顔を見合わせて何度か瞬きをすると不思議そうに顔をこちらに向けて口を開く。
「元暗殺者と元対象者ですが」
「一人しかおらん友人だ、親しいに決まっている」
何を言っているのかと声の調子はそっくりなのに、意見は真反対だ。もう一度顔を見合わせた二人は、複雑そうに顔を顰め合っている。
「殺しに来た相手と親しいって言われたら、否定しましょうよ」
「何だ、元対象者とは友人になれんと言いたいか」
「言いたいんじゃなくて事実では? 普通は対象者が拒否するんですけど」
「では俺がいいならいいんだろう」
「──駄目だ。この話の通じなさ、弟どもを彷彿とさせる……」
どうして私の周りはこんなのばっかりだとこめかみを押さえている奏に、類は友を呼ぶの類は禁句なのだろう。言いたげな理人を察して鋭い眼差しが向けられるので、仲良しだねと無理やり纏めて誤魔化す。
「仲良しって、七十のお爺ちゃんとうら若い乙女を指して使う表現ですか」
「は。七十なのはお互い様だろうが」
笑うように突っ込んだルウェンに、奏はすとんと表情をなくしてそちらを見る。
怒っているのとは違う。困惑、不審、驚愕、警戒、それらを綯い交ぜにした挙句、どれを前面に出せばいいのか分からないような、そんな無表情。瞬きをするほどの僅かの間だけ戸惑ったらしい奏は、けれど瞬時にははと笑うことを選択した。
「ヴィシュム基準で言えば成人もしてない女の子を相手に、何を言い出されるんだか。キングともあろう方でも、寄る年波には勝てませんか」
「そこまで反応しておいて、誤魔化せた気でおるのか」
呆れた顔で指摘したルウェンに、奏は警戒度を引き上げた。薄らとした笑みを貼りつけたまま、さて、と目を細めている。
「雪代奏は、当年取って十六にございますが」
「名を変えるごとに年を数え直すのか? ……ああ、呪いが発動して数え直しておるのか」
成る程と勝手に納得して頷いているルウェンに、理人と近重もさすがに呪いとは何かと奏を窺う。けれど当の本人が一番驚いた様子で、呆けたみたいに発言者を凝視している。到底演技には見えない奏の様子に王は幾らか気まずげに片眉を上げ、知らなんだかと僅かに後悔を滲ませた。
「お前ほど呪いに精通しておる者も他におらん、知って放置していると思ったが……」
「呪いとはどういうことにございます!?」
御無事ですかと慌てて身体を窺う近重に、奏は軽く手を上げて小さく頷くだけでそれを制した。視線はルウェンから外さないまま珍しく険しい顔をしている主に、近重もそろりと身体を戻したが不安げに眉を寄せている。理人としても奏の身体は心配だが、今は見慣れない様子のほうが気にかかる。
「誰に」
短く鋭い問いかけに、ルウェンは躊躇するでもなく泰然と答える。
「俺に見えるは魂の色形のみ、どこの誰と答えるは本来難しいが。お前によく似通っている、血縁者ではあろうよ」
「っ、雪代藤間……!?」
あの外道といきり立つ近重に、違うと理人は眉を寄せる。
確かに一瞬、理人の脳裏にもその顔が過った。奏の血縁者だけで考えれば候補はそれしかないだろうが、そうすると呪いが発動するたびに数え直す、の言葉にそぐわない。では、ウェインスフォードの父親か? ──否。それも、多分違う。
(今の双子の年から考えても、カヤさんが奏嬢になったのは三十になる前だったはず。なら今の年と足しても、まだ三十年弱足りない)
考えながらそっと窺えば、奏はルウェンを見据えたまま目を眇めた。
「魂ということは、神聖術ですか。確かに国教でしょうけど、さしたる信心も見せてこなかったくせに。大神官クラスの修行なんて、積む暇がありましたか」
「は。天賦の才に恵まれておってな」
「あーやだやだ、これだから天才は」
祈るだけで使えるなんて反則ですからねと恨めしげに吐き捨てる奏に、ルウェンも苦く笑って肘を突き替える。
「それを言うなら最後の呪い士の子として生まれた、お前も反則であろう」
「教師がいいのは生まれつきでも、そこから叩き込まれた物を覚えるのは私の努力です」
「羨ましい。なまじ祈るだけでできる者は、それを操る術を知らん」
「言っておきますけど、神聖術を使いたくて努力してる人間には凄まじい嫌味ですからね、それ」
言わないほうがいいですよと目を据わらせたまま適当な助言をする奏に、なら控えようと大真面目に頷いているルウェンもどこまで本気なのかよく分からない。とりあえずどちらもほとんど説明がないまま分かり合っているようで、一段と難しい顔をした奏が大きく息を吐いた。
「キングの親書がずっと届いてたってことは、国を問わず私の居場所が分かるわけですか」
「お前は特別よ。そんな盛大な呪いを受けた魂など、他にないのでな」
「でも奏になってからは、一度もなかったじゃないですか」
「それはお前が秀真におったからだ。あそこは今も祓魔の結界が邪魔をして、辿り難い。見るにも帝の許可が必要で面倒だからな、大方そこにいるだろうと見当はついたから放っていた」
外に出たから警告ついでに招いただけよと目を細めて続けたルウェンに、奏も嫌ほど顔を顰めた。
「自覚がないと死期を早めるくらい知ってたのに、迂闊……」
舌打ち交じりに額を押さえた奏の台詞で、近重が真っ白になるほど顔色をなくしている。そんなと声にもならない声で呟き、必死に奏の腕に縋りついている。
「そんな、まさか、呪いが発動するのですか!? っ、いいえ、まだ間に合います、どうぞ近重を形代に!!」
「するわけないでしょう」
いいから落ち着きなさいと近重を宥めつつ難しい顔をしている奏に理人も知らず眉根を寄せると、ルウェンが面白そうに語尾を上げる。
「お前の命は幾らだ、カヤ」
手を貸すかと肘を突いた態勢のまま問うルウェンに、奏は何度か目を瞬かせた後にどこかにんまりと笑った。
「乗った。恩を返させてあげましょうか、キング」
「いいだろう。ならば、お前の価値を示せ」
「あの日から毎年、この国に積み立てていたすべての金額。全額叩き返してやりますよ」
お高いでしょう? と挑戦的に語尾を上げた奏に、ルウェンは堪え切れないように声を上げて笑い出した。
「言ってくれる、お前の命は俺より重いか」
「唯一の友達としての付加価値と思えば安いものです」
しれっと言ってのける奏にルウェンは成る程と頷き、友の誼で騙されてやろうと目を細めた。
「今度は呪いを解いて戻って来い。そうして酒でも酌み交わすのが条件だ」
「……まあ、無事にぶっ飛ばせればそれを肴に飲むのは悪くないですね」
気安い友人めいたルウェンの言葉に、奏はどこか懐かしそうな色を浮かべた目を隠すようにそっと伏せた。
呪いが奏に齎す被害がどれほどのものか、正確には分かりようがない。多分に本人さえ気づいていなかった悪意の糸が、どれだけ絡まっているのかも。それでも知ったからには断つ気でいる奏に手を貸せるなら、何も惜しむ気はない。手を貸したくて逸っているのは、友を自称する王だけではないのだから。
奏のために死ぬ覚悟なんて、ない。ただ彼女の側にいるために、擲つ覚悟があるだけだ。




