家出娘の葛藤
「言い訳は聞きません、でも心情吐露は認めます。で、言いたいことはある?」
食堂に足を踏み入れるなりそう宣言しながら自分の席に向かった奏が自分で椅子を引いてそこに座ると、各自自分の席に着こうとしていた手を止めてその場で直立不動の態勢を取った兄妹たちは窺うように視線を交わしている。奏はそんな弟妹たちを気に止めた様子もなく控えている執事に目配せし、確かルイエットと呼ばれていたカヤの専属を希望していた男性がすっと理人に近づいてくると奏の側の椅子を引いて座るように示してくる。
ちらりと奏を窺えば当然のように頷かれるので、少し恐縮しながらもそこに腰掛ける。何しろカヤの弟妹たちは誰も彼も理人より年上だ、奏と近重の次に年若い自分だけが座るというのも複雑なものがある。因みにその近重は当然の顔をして、奏と理人のために用意された茶を供している。どうやら奏の専属執事という立場を、この半月ですっかり確立しているらしい。
理人が思わず羨ましく観察している間に無言のまま打ち合わせを終えたらしい奏の弟妹たちは、代表して末妹が小さく手を上げた。反省した体を表しているのか座ろうとはしていない彼らを一瞥した奏が、どうぞと促すと少し躊躇ってレシタが口を開く。
「お姉様は、秀真からの客人か来られるとまたお出になられるでしょう? ならばその日は一日でも遅く、と望み実行してしまいました」
反省しておりますとしゅんと項垂れるレシタに、奏は特に感銘を受けた様子もなく視線だけで他の弟妹を見回した。
「それは兄妹の総意?」
どうでもよさそうに確認され、一瞬互いを見交わした弟妹たちは誰もが小さく首肯した。ふぅんと呟いて椅子の背凭れに軽く寄り掛かった奏は、未だ座ることもできずに立ち尽くしている弟妹たちを見回す。
傍から見ていると、まったく不思議な光景だ。理人は辛うじて奏がカヤだった頃の姿を覚えている、生きていれば上の双子より年上なのも頭では理解している。だが今やたった十六歳の少女が、少なくとも十歳以上は年上の男女をその仕種だけで威圧している姿など確実に秀真では見かけない。
(秀真はまだ男尊女卑の上に、年功序列が横行してるからな……)
改善しなくてはと無意識に考えていた理人は、はっと我に返って小さく眉根を寄せた。戻って殺されることこそないだろうが、将軍に剣を突きつけて出てきた身で何を変えられると思うのか。改革するなら自分の意識だと猛省する。
視線を感じて知らず伏せていた目を開けると、冷やかすようにこちらを見ている奏と目が合った。秀真から離れられるんですかとでも尋ねてきそうな空気に、本気で聞きたいのかなと意地の悪い気分で考える。
理人にとって、国より大事になった存在があるからこその選択だ。それを後悔したことはないし、秘密にする気もない。ただ本気で口にしようとすれば、その気配を察しただけで視線を逸らしていくのは奏のほうだ──今のように。
「えーと、とりあえず根本の間違いから正します」
今弟妹の説教で忙しいので! と空気だけで理人を牽制して、奏は未だ緊張しているらしい弟妹に向き直る。じゃあ後なら話を聞く余地があるんですよね? と目を据わらせるが、気づかない顔をされるのも想定内だ。とりあえず今は何を言っても無駄だと分かっているので、大人しく成り行きを見守る。
「どういう経緯になったか知りたいから何れ理人さんと合流する気ではあったけど、別に訪ねてくるのを待ってたわけではないし気が向いた時に出て行くからね」
「っ、それではまだしばらく滞在して頂けると、」
「んーん。もう十分すぎるくらいここにいるから、明日にはもう出ます」
「やっぱりそいつが来たからじゃん!!」
「違う違う。なくてもそろそろ出て行く気でした、ってお話をしています」
「そろそろって考えてたんなら、明日でなくても!」
必死の体で下の双子と上の妹が縋っているが、奏は分かってないなあとばかりに軽く首を傾げて頬に手を当てた。
「私のお客様だって知ってて嫌がらせに勤しんだ君たちに、とやかく言う権利はない。と申し上げておりますが?」
ご理解頂けまして? とにこりと笑って見せる奏に、三人は衝撃を受けたように軽くよろめいている。
今の年齢差から考えて、カヤが生きていた頃の三人は十歳になるかならないかくらいだったのだろう。ならば庇護対象として認識していても不思議なく、懐に入れて甘やかしていたのも想像に難くない。家業の特殊性を鑑みれば長時間を共に過ごしたとも思えず、ご機嫌を損ねれば相応の報いがあるという当然の事態さえ予測できないほど姉としての顔しか知らないようだ。
反して上の双子は、すっかり諦め顔をしている。下の弟妹たちと違い、この二人は長くカヤと過ごしたのだろう。自分たちがやらかした結果、こうなるのは目に見えていたはずだ。今までの弟妹への対応から目溢しがあるかなと期待はしていたようだが、それだって一割あるかなしか程度の予測だったと見えて、やっぱりと言いたげな空気が漂っている。
知らなかった、気づいていなかった弟妹たちからすれば、上の双子の口車に乗せられた! と主張したいところだろうが、残念ながら言い訳は聞かないと先に宣言されている。自分たちがやらかした事実と、奏が出て行く事実を受け止めるしかない、という状況だ。
「さて、母さんには君たちから話すようにね。ついでに言うと、仕事先でうっかりばったり遭遇も認めません。どこに行くか調べないで、ついてこないで。そこまでやったらもう二度と帰ってこないからね」
「、お姉様!!」
ごめんなさいと真っ先にプライドを投げ捨てて謝罪した末妹に、片割れともう一人の妹が続く。けれど上の双子が口を噤んでいるところからも分かるように、それはもはや手遅れだ。
「謝罪は受け入れるけど、それとこれは話が別。よって遵守するようにね」
では夕飯時まで御機嫌ようと笑顔で軽く手を上げたのを見て席を立った理人が椅子を引くと、どうもとばかりに僅かに眉を上げた奏は立ち上がって弟妹たちを一瞥もせず部屋を出て行く。ついてくるなと言われなかった理人と近重だけがそれに続いたが、突き刺さる恨めしげな視線なら背中に痛い。
「奏嬢が決めたことならいいけど、もう少しゆっくりしなくてよかった?」
今すぐ家を出るのではなく、わざわざ明日にしたのは不在にしている両親と祖母に対する気遣いだろう。それなら戻ってくるのにもうしばらく余裕を持ってもよかったのではと言下に尋ねると、奏はそうですねと振り返らないまま軽く頬に手を当てた。
「理人さんは今日着いたばかりですし、ここでゆっくりされたらいいですよ。私は明日には出ますから、部屋も空きますし」
「……俺を気遣ってくれての発言だと思って、今回は聞き流しておくけど。君について回るために国を出た俺の覚悟を知った上で踏み躙るなら、奏嬢もちゃんと覚悟はしたほうがいいと思う。の、警告は有効かな」
薄らと笑って語尾を上げると、びくりと肩を跳ねさせた奏はどこか批難がましく肩越しにようやく目を向けてきた。
「ついて回るためって表現、やめてもらってもいいですかっ」
「人生を共にするため?」
こっちのほうが響くかなとわざとらしい笑顔で言い換えると、奏が居心地悪そうに身体を揺らすのを見咎めるより早く恐れながらと近重が一歩踏み出して隣に並んできた。控えめな侍女にしては珍しい行動に僅かに眉を上げると、こほんと小さく咳払いをした近重はどこか自慢そうに胸を張った。
「現在のところ、奏様にそれを許されているのはこの近重だけにございます」
お控えくださいとぴしゃりと打ち据えられ、思わず口を開けたができる反論がないことに気づいて静かに閉じて苦虫を噛み潰した。
考えてみれば、今までの関係性は秀真にいたからこそ成り立っていたものだ。全員あの国を出たならもはや立場など関係なく、理由を探さなければ一緒にいられない理人の立場が一番弱い。
「今ちょっと、自分の不利を噛み締めた……」
「後見人を務めてもらった恩は忘れてませんから、よほどのことがないと追い返しはしませんけどね」
色々と巻き込んだ自覚もあるのでとぼそりと付け加えられるそれは、案外奏の本音のように聞こえる。
(主観はさておき、今の俺は傍から見ればあまり外聞のいい事態とは言えないか……)
秀真にあれば最高に次ぐ権力と、それに見合うだけの財力があった。他人が羨むであろうその立場をあっさりと投げ捨て、元婚約者を追いかけるべく国を出た、と表現したなら、女で身を持ち崩した男の典型のようだ。
だが正直なところ将軍のお守りには辟易していたし、投げ捨てた今は心から清々している。前当主の責任として家に残した物も多いが、個人資産は当然自分で管理している。仮に外交特権がなかったとしても、自分の身と手が届く範囲くらいは守れる程度の伎倆もある。つまり投げ捨てたのは本当に不要とする物ばかりで、実際には手に入れた物のほうが多い。これが自由か。としみじみ噛み締める程度には、今まで生きてきた中で一番充実していると断言できる。
間違っても奏が追い目を感じるような事態ではないのだが、そう思ってくれるなら付け込むべきかとちらりと邪心が過るけれど。
「概ね俺が好きでやったんだから、気にしなくていいのに」
今の立場も案外楽しんでるよと軽く本音を伝えると、何故かひどく嫌そうにちらりと視線を向けてきた奏はすぐに顔を戻して大きな溜め息をついた。
「これだから天然は……」
「ここで調子に乗られれば、即座に切り捨てられましたものを」
「怖っ。え、何か試されてた?」
よく分からないが調子に乗らなくてよかったと心から自分を褒め称えていると、屋敷の正面玄関がある背後から奏! と悲鳴みたいな呼びかけが届いて一歩右に避けて振り返る。少し前を歩いていた奏も足は止めないまま振り返り、僅かに眉を上げた。
「早。確か仕事に出てたんじゃなかったっけ?」
「トウエイ様は、三日前の早朝にお出になられました。ご家族の平均所要時間を思えば、概ね予定通りかと」
「どうしよう、近重が優秀過ぎて怖い」
「お褒めに預かり光栄です」
えへんと胸を張った近重に苦笑した奏は、急いで近寄ってきた父親にお帰りと軽く手を上げた。ただいまと急いで答えた父親は、けれど悲壮な顔色で娘を見下ろしている。
「明日には出て行くって聞いたけど本当か!?」
「たった今の宣言だったのに、耳が早いね」
「そんなに急いで決めなくてもいいだろう。ルキサもまだ戻らないし、前当主もまだ、」
「それは皆の都合。私の都合は明日出る。以上」
これが戻って数日だったなら奏も配慮しただろうが、いっそ淡々と切り捨てて止めていた足を再び自室に向けている。奏、と言うことを聞かない幼子を諫めるように呼びかけて追いかけるトウエイに、肩越しに嫌そうな眼差しが振り返る。ちゃんと説明しなさいと顔つきだけで命じるトウエイに小さく息を吐いた奏は、仕方なさそうにまた足を止めて身体ごと振り返った。
「あのね、父さん。カヤ・ウェインスフォードの記憶はございますが、私は雪代奏です。心配と迷惑をかけただろうし、カヤとしてお世話になった分はと思って戻ってきたけど、ちゃんと理解してる? 厳密にいえば、私はもう娘ではないわけですよ」
血の繋がりもない行きずりの小娘ですよと眉を寄せて説明する奏の言葉は、乱暴だが事実だ。トウエイは嫌そうな色を浮かべて顔を顰め、それを言うならと何とか反論する。
「カヤも血の繋がりはなかったが、家族として認識してくれてたんじゃないのか」
「してたよ、だってウェインスフォードは生まれてすぐにポイ捨てされたカヤを拾って育ててくれたんだから。衣食住を保証してくれて、学びの場を与えてくれて、愛情を注いでくれて。これで家族じゃないなんて言うほど、馬鹿じゃない」
「それなら、」
今もそうだと主張したかったのだろうトウエイに、奏は緩く頭を振って現実を見てと眉根を寄せる。
「別に責めてるわけじゃないから、そこは誤解しないで。でも雪代奏として生まれて十六年、ウェインスフォードは今の人生と関わってこなかったじゃない」
それで家族というには無理があるよねと肩を竦めた奏に、トウエイは何か言いかけて口を開いたが、すぐに悔しげに閉じた。二十四年の実績の後、十六年の空白。それが簡単には埋め難い長さだと知っているなら、言える何もないのだろう。
「嫌いにはならないよ、だってあれだけ長く家族として過ごしてきたんだから。恩も忘れてないし、懐かしいって感情は止められないって実感した。皆が家族だって言ってくれるなら、甘えいたくらいには愛してる。でも、皆を無碍にした時間が長すぎる」
十六年だよと、大人びた様子で自嘲的に笑った奏に、トウエイがはっと目を向ける。
知らなかった彼らと、知ったままないことにしていた奏と。彼らがようやく気づいたことに悔やんで嘆く時間、奏はより一層罪悪感を帯びているのだろう。もう一度を許して伸ばされた手を、素直に無邪気に重ねられないほどに重く。
「もう、無条件に甘えていい存在じゃなくなった。家族というには……、無理だよ」
だから出て行くのも止めないでと、おどけた様子で続ける奏をじっと眺めたトウエイは、ゆっくりと息を吸い込むと大きく吐き出しながら手を伸ばし、奏の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「相変わらず面倒臭い娘だな。要はあれだろう、十六年も家出して放蕩の限りを尽くしていたから気まずいって話だろう」
「っ、は? え、待って、その表現すごい嫌なんだけど!」
どうしてそんな話になったのと狼狽える奏に、トウエイはその程度の話だとじっと目を見据えて断言した。
「子供の反抗期なんて世の常だろう、多少離れたところで家族であることに変わりはない。それとも何か、お前は迎えに行くのが遅くなった父さんたちを許せないか」
「そん、……な、ことは」
知らず視線が揺れる奏に、トウエイはふと口許を緩めた。血の繋がりなどなくとも確かに父親と教える柔らかに、理人も知らずほっとする。ああ、秀真では望めなかった家族はけれどここにちゃんといて、これからも奏を支えてくれるのだと実感する。奏が、望むと望まざるとに関わらず。
分かり難くはあっても照れて一瞬言葉を失った奏に、トウエイはそれならと安堵したように言葉を続ける。
「せめてルキサが戻るまでくらいはここに、」
「明日には出てくってば!」
トウエイの胸をとんと突き飛ばすようにして無理やり距離を取った奏は、多分に理人や近重がいるのも忘れて“カヤ”に戻る。
「家出娘が素直に従うと思うなよー!!」
「っ、か、」
カヤと呼ぶべきか、奏と呼ぶべきか、トウエイが一瞬躊躇した隙に奏は踵を返して自室に駆け込んでいる。籠もられては手出しができないと仕方なく諦めたらしいトウエイは、けれど堪え切れないように口許を緩めている。反抗的ではあっても娘としての行動だと知らしめられたようなものだ、彼にすれば喜ばしい事態なのだろう。
(まあ、明日出立の予定は変わらないようなら俺も準備は、)
「すまなかったな」
いきなりの謝罪に思考を遮られ、理人は思わずきょとんとして発言者を見た。娘の背中を追うように去った方角を眺めていたはずの視線が真っ直ぐに射込まれていて、怯みそうになるのを何とか堪える。トウエイは理人の心境を察したように僅かに眉を上げたが特に何も言わず、無駄に足止めをしたと謝罪の理由を語る。
「カヤに──奏に出て行ってほしくないがための画策だったが、君には迷惑な話だった」
「お気になさらず、とは言えませんが。同じ立場だったならきっと、自分もやっただろうと思いますので」
俺がやった時に痛み分けにしてくださいと告げると、嫌なところを突いてくると苦く笑われる。言質は取れなかったが、一度の嫌がらせは許容の範囲だろう。
(進んでする気はないけど──今のところ)
奏の側を離れる気がない以上、この先もウェインスフォードとは関わっていくことになるだろう。奏が眉を顰めるようなことはしたくないが、今回のような嫌がらせが続くようなら仕返しを試みないとも限らない。
顔には出していないつもりだったがトウエイは短く笑い、軽くぽんと叩いてきた。まさか警戒を緩めるはずもなく距離を取っていたはずの、理人の肩を。
「まあ、お手柔らかにな」
釘を刺すように笑って歩き去っていく背中を、つい顔を顰めて見送る。相手は自分の祖父ほどの年齢だ、経験も実力も及ばなくて当たり前だとしても苦々しい。
(ちょっと越えるべき壁が多すぎないか?)
自らを高めることに否やはないが、追いついて守り通したい背中に辿り着くまで何枚立ちはだかっていることか。思わず遠くを眺めるが、一先ず明日の同行を認められていることを支えに何とか気持ちを立て直す。
手元の小さな幸せを取りこぼさない、それがまずは何よりだ。




