はじめてのおつかい
カヤ・ウェインスフォードはゆっくりと目を開け、ぼんやりとしたこの視界には覚えがあると心中に呟いた。
最後の記憶は、心臓の激痛。まるで何かに締め上げられたようなそれは、幼い頃から重ねた訓練で痛みに対して鈍くなっているにも拘らず咄嗟に声が出るほどで、正に致命傷だったのだろう。
(前後の記憶は定かじゃないとはいえ、誰に何をされたのかも分からないけど……)
不覚を取ったことに間違いはなく、きっと死んだのだろうと受け入れる。何しろこれで二度目だ、前の人生が強制終了されて不自由な赤子になっているのは。胸を過る喪失感に浸っていないで今置かれている状況を把握する、それが急務だ。
(名前は雪代奏で、今いるのは秀真国。そこまでは間違いないはず)
秀真と呼ばれる東の小さな島国は、実は彼女には馴染み深い。一度目の人生で、少しだけ暮らしたことがあるからだ。けれど以前いたのは帝がおわす天領で、今いるのは実際に政を行っている将軍の城がある都のようだ。
(天領では平民だったけど、こっちは武家みたいだよね……)
将軍の下に御三家が存在し、雪代はその御三家の一である静寂家に仕える。中でも父である雪代藤間は、静寂当主の覚えも目出度い忠臣らしい。
(そこだけ聞いたら、御立派な武士だったんだけどねぇ)
皮肉に呟きたくなるのは、雪代藤間は仕事振りより女癖の悪さが挙げられるから。秀真では未だに一夫多妻を認めているが、今や有名無実な悪法として一夫一妻が当たり前となっている。その中で雪代は正室の他に側室が五人、室として迎えられていない女性は数え切れないとも言われている。
白い目で見られることも多かろうに、それが何だと言い放てる精神を剛毅と呼ぶのか迂愚と呼ぶのか……。明らかに後者だと断言したい奏には、現時点で母の違う兄姉が五人いる。弟妹はまだまだ増えるだろうし、認知外の兄弟に至っては数えるのも大変だろう。
(特に興味もないけど、後継ぎ問題で大揉めするのは目に見えてるんだから誰か止めればいいのに)
周りも馬鹿なんだねと肩を竦めるが、奏の実感に共感してくれる相手は生憎とここにはいない。何しろ乳母が通ってくれていたのは最初の一年だけ、それ以降は完全に一人で生きているからだ。
(母親は遠縁とはいえ主家筋らしいのに、産後の肥立ちが悪くて死んだら子供を放置って頭おかしくない?)
その辺の知識は、乳母が彼女をあやしながらよく溢していたために早くから知っていた。母を亡くした幼子を見捨てられなかったからか乳母も最低限の面倒は見てくれたが、やはり親切にも先立つものが必要な世知辛い世の中だ。前払いされていたのは一年分だったらしく、それ以上は誰からも手当てがないとなればそっと置いていくしかなかったのは理解できる。あまり裕福ではない臣下の妻女には、乳飲み子をもう一人引き取るほどの余裕などなかっただろう。
「本来なら、雪代の殿様が下にも置けない扱いをされて然るべき姫様なのに」
可哀想にと続ける乳母の言葉の大半は、奏というより自分とその家族にこそかかっていた気がする。だが乳母にしても約束されていたはずの未来が奥方の死で露と消えたのだから恨み言の一つ二つは許されるべきだし、手当てだけ受け取って逃げることもできたのに約束の日までちゃんと通ってくれたことには感謝している。
奏が本気で呆れ、恨んでもいい相手は雪代藤間。実の父親であるはずの男だけだ。直接手を下されずとも積極的に死を願われている証拠に、奏に“物心”がついて以来、一度も顔を見せに来たことがない。本邸から最も離れた西の端、離れというより庵としか呼べない小さな建屋にぽつんと一人きり、放置され続けている。それはつまり母を亡くした幼子に、庇護を与える人間が誰もいないということ。実際に乳母が通って来なくなった次の日から、彼女につけられたはずの侍女も姿を消した。これが死の宣告以外の何だというのか。
「生憎と、そんな程度で死んであげるほどお人好しではないわけですが」
カヤ・ウェインスフォードの幼少期、これは何の拷問かな? と思うような教育を受けた。愛情があったのは間違いない、上手くできれば抱き締めてキスの嵐で褒められた、失敗した時も今度は上手くやりましょうねと次のチャンスは与えてくれた。故に家族からの愛情を否定はしないけれど、幼子に叩き込むのが暗殺術だったことは今でも許容できない。
「……うん。子育てという意味では、どっちも同じくらい頭はおかしいね」
それでもウェインスフォードは暗殺を生業にしていた、持てる技術の継承という意味では間違っていないのだろう──多分。何より当時は幼子の心身を何と心得ると悲鳴を上げたかった教育方針も、生き抜くことに特化した力を今に渡って与えてくれたと思えば有難い。
「お陰様で、齢一歳にして自立できたからね」
自分の身体を自在に扱えるように、というのがウェインスフォードでの最初の教えだった。幸いにして今回も人として生まれたなら、基本的な身体構造は一緒だ。非力を補う技術に励んだカヤを褒め称え、今こそ遺憾なく威力を発揮する時。と奮起すれば、乳母がいなくなってすぐに歩く走るさえできるようになっていた。
「伊達にあの家で二十四年も生き抜いてませんよ、はっはー、だ」
ちょっぴり自棄気味に呟きたくなるのは、軽く振り返る自分の生い立ちとあり方が尋常ならざる自覚はあるから。比喩でも大仰でもなくまったく一人で放り出された一歳児が無事に生き延びられるなんて、非常識にも程がある。
おかしい。二度ほど生まれ変わりはしたけれど、前世の家族ほど化け物じみた力を身につけた覚えはなかったのに。
どこで間違ったかと深く追及すると動けなくなるから、考えなかったことにしようと思考の放棄を決めたのも早かった。とりあえず、すべては無事に生き延びてこそと前向きに目標を定めて努力した。
こっそりと厨に忍び込んで食料の確保、人がいない隙を見計らって一番風呂を使って衛生の確保、小回りの利く身体で屋敷を探検しつつ情報の確保。そこまでできればもはや怖いものはなく、父親の無関心からくる殺意など跳ね除けて生きていくのも容易かった。
このままいない者として暮らしていくのもいいかなと考えていた奏の人生が一変したのは、十三歳の時。秀真では女子は十三歳で裳着、男子は十五歳で元服して成人とされる。兄弟の誰かが元服がどうのと騒いでいるのを聞いてようやくはっとする程度の知識だったが、大切なのはうっかり忘れていた迂闊の反省ではない、その事実が齎す利益。
裳着の儀を済ませ、成人したと見做されれば身分証が発行される。つまり。
「旅券を手に入れられたら、正規の手段でヴィシュムに渡れる……!」
ウェインスフォードが今も居を構えるヴィシュムは、カヤとして二十四年を生きた場所だ。既に遠い記憶となった秀真の西の都より馴染みがあり、色々とコネや伝手もある。長じたとはいえまだ少女の域を出ない奏が暮らすとすれば不向きだろうが、あくまでも奏がただの十三歳だったなら、の話だ。合計すれば七十近い見た目詐欺の少女には、ヴィシュムのほうが何かとやり易い。
「強要されないで暗殺を仕事にする気はないけど、この身体能力があれば最悪は裏家業でもそこそこやっていけるはず。目指すは一応真っ当な仕事だけど、あっちなら自分の残したお金が使いたい放題……!」
最高、自分! と自らの先見の明を褒め称え、いやいやそれほどでもー、と照れるまでを一連の流れとしてやってはみたものの、そこではたと我に返った。
絶賛一人ぼっち人生を満喫中、父親の人生から抹消中という状況で、誰が裳着の儀を取り仕切ってくれるのか?
「くっ、ここにきて嫌がらせが功を奏してきたな、雪代藤間……!」
おのれ許すまじと拳を作りはしても、直接殴りに行くのも芸がない。というかむしろ暗殺くらいひょろっとやってのけられる、何なら二歳の段階でだってできた。ただ趣味や私怨で殺しなどしたくないとの思いが半分、そんな簡単に殺してやるほどの価値があるか? の疑問が半分。どうせなら家ごと取り潰して全員を路頭に迷わせるくらいが復讐としては相応しい、との考えで実行せずにきたのに、今になってやるのも美しくない。
「そうすると、どこに行けば裳着を執り行ってもらえるか……」
裳着の儀はそもそも、親が娘を祝うための儀式であり正式に娘として紹介する場でもある。存在までないことにされている今、確実に奏は数に入っていないだろう。
「でもその場合、屋敷の片隅で死体が転がってることになるんだけど。それを放置もまた剛毅だな」
あれ、もしかしてこの辺に人が寄りつかないのってそれが理由だったりしますかと衝撃の事実はさておき、このままでは人として認めてもらう機会を逸してしまう。
「先立つ物さえあれば正式な身分証とかいらないんだけど、自分の遺産を手に入れるためにはまず身分証が必須って。意味がないー」
ヴィシュムに渡らずここで手っ取り早く資金を調達したいなら、今までの養育費として本邸から相応の金額を貰ってくるのが妥当だと思う。とはいえ裏社会に通じていた前世と違って、まだ屋敷からも出たことのない奏では黒い仕事に関わる人間と接する機会もなかった。まず信用できる相手を探すところから始めなくてはいけない、びっくりするほど気が重い。
どっちに転んでも人探しが必須なら、後見人を見つけるだけのほうが後腐れはなさそうだ。
「そうすると雪代藤間を脅すか、別の後見人を見つけるか……」
簡単なのは確実に脅すほうだろう。すっかり手慣れた拷問技を披露するまでもなく、姿を見せただけでも十分な脅しになると思う。死んだはずの人間がにっこり笑って、会いたかったですお父様、なんて近づこうものなら大抵の人間は絶叫するからだ。だが実際に裳着を行うまでに落ち着いて冷静になるのも目に見えている、下手に父親面して政略結婚の駒に使おうとされたりしたら、一家惨殺では済まないくらい怒髪が天を衝くのも想像に難くない。
「別の後見人……。雪代より偉くて一応の縁戚関係にあって、使える人間だと思えば公平に扱ってくれる融通の利く後見人ー」
どうしよう、それを探すのも面倒臭い。と心中で頭を抱えた時、ふと最近よく耳にする人物を思い出した。
今のところ奏が情報収集をするのは雪代の屋敷内だけ、つまり気取って体面を取り繕った型通りの話ではなく下世話な噂話が専らだ。藤間がまた誰かを囲っただの、何番目の息子の元服はすぐ上の兄より凄いだの、そろそろ正室が投げる茶器がなくなってきただの。雪代の屋敷内のことが大半だが、中には今年の米の出来やら先日の旱魃やら、即座に対応した将軍の手腕やら実際に動いた側用人やらが話題になることもある。中でも奏の注意を引いたのは、将軍の側用人で交代したばかりの静寂家当主。
(静寂。しじま。母方の遠縁だって以外にも、何となくどこかで聞いたような……?)
どこだったかと首を捻ったのは束の間、思い出せない記憶を辿る暇は今のところ持ち合わせない。肝心なのは奏とも縁続きであり、雪代より確実に上にいるという事実。最後にして最重要な条件である公平かどうかは賭けだが、無礼と切り捨てられそうになっても返り討ちにできる実力があるなら会いに行く価値はある。
「それじゃあ、雪代奏、初めてのお使いと参りますか」
今まで外に出たことのない“箱入り娘”だが、離れの庭からでも将軍がおわす城は遠く窺える。静寂の屋敷を知らずともあそこに辿り着くのは容易だし、情報なら大小問わず山ほど得られるはず。時間と身体能力を持て余している奏には、失敗したくともできないほどの楽勝案件だろう。
「さて。元暗殺者が本気を出したらどうなるか、とくと御覧じろ」
やはり人間、一つは特技を持つべきだ──それがどんな類のものであれ。