欠落した危機感
どこまでも反抗的で威圧的に、屈辱を隠そうともしない眼差しで睨んでくる将軍に奏は馬鹿なのかなこの人と心中にいっそ感心する。
毒を盛るなど卑怯だと指摘されればご尤もと頷くしかないが、実際にそれを躊躇わない人種には言うだけ無駄だ。どう足掻いても実際に命を握られているのだから、防げなかった現在や抗い切れない自分、出会ってしまった不運を嘆くのが精々。諦めて大人しく死ぬか、どれだけの屈辱も呑んで従うか、道など二つに一つしかない。
(そんな明らかに、後で見てろよって顔で本気で命を助けてもらえると思ってるあたり、坊っちゃんだよねえ)
帝と違い、将軍は血筋では選ばれない。とはいえそれは随分と建前上の話で、ここ百何年は将軍を輩出する家系は決まっている。その家に生まれついた男児は誰であれ将軍になるための教育を受けて育つ、つまりは最初から選民意識の塊になること請け合いだ。
(御三家は直属で将軍に仕えるのが決まってるから、一番上、の意識が薄いだけまだましなんだけど。将軍に至っては、帝を敬う精神すら放り投げた馬鹿が多すぎる)
自分が一番上と信じて疑わない、下の人間には何を命じてもいいと信じている。誰かが鼻っ柱を圧し折らない限り、一生そのままだ。尤も秀真の国民であれば大体が煮え湯を飲んで堪えるしかなく、天狗になったまま生涯を閉じる将軍も多いのだろうが。
(私と知り合ったのが運の尽き、ってことで)
諦めてとどうでもよく呟き、取引の話と参りましょうと薄っぺらい笑顔を向けた。
「私の旅券と、理人さんに対する褒章の白紙の命令書を即時この場に揃えること。これは私が賭けに勝った時の条件なので、命を助けることには何ら関係がないのはご承知置きください? 従えないようでしたらシュウヘンと抜群に相性のいい毒を追加で投下しますので、悪しからずご了承くださいますよう」
厳密に言うとシュウヘンの解毒薬を含んだ状態で追加摂取すると即死するのだが、詳細を語って聞かせる親切な暗殺者はいないので多少の語弊は許容範囲としてもらおう。将軍はより一層眼差しに殺意を乗せるが、できないなら別に構いませんと差し出しかけた小瓶を引っ込めると慌てて震えるように頷く。
ここまで信用できない目も他にないわーと心中で笑うほどだが、とりあえず話は続ける。
「それでは肝心の、こちらの解毒薬のお値段ですが」
『値段!?』
声にはならないままもあからさまに聞き返され、奏は本気かこいつと思わずまじまじと見下ろした。
自分の命を懸けられて、解毒薬にありったけの金も出せない人間はさすがに初めて見た。国のトップともなれば、下手な値段をつければ自ら値上げして叩きつけてきたものだった。俺の命がそれほども安いものか!! と怒鳴りつけてきた最初の王は印象深い、思わず命を売った後にしばらく護衛を務めたほど感銘を受けたのに。
(そういえばあの王様、まだ現役だっけ。秀真を出たら行ってみようかな)
懐かしく思い出して今後の予定に加えたところで、はたと我に返る。違う、今はこの馬鹿との交渉を済まさねば。あまりに愚かすぎて投げ遣りになりそうだが、巻き込んでしまった理人の安全は確保しなくてはと思い出す。
「本来なら一人分で五百両と言いたいところですが、あなたと理人さんと、近侍が三人。丁度五人。んー、大負けに負けて、全員分で五百両で如何でしょう」
なんて格安、と心の底から馬鹿にしつつ語尾を上げる奏に、将軍は信じ難いとばかりに目を剥く。五百両なんて、たかが五千万ギルだ。世界の要人暗殺は億越えが当然なのに、自分の命に一千万ギルさえ出せない吝嗇家が将軍なんて。
大丈夫か、この国。と大分本気の強さで引く。いっそこのまま解毒薬を渡さないで命が尽きるまで見守ったほうが、よほど秀真のためにはなるのではなかろうか。
(やりたい気はするけど、そうすると理人さんが盾の役目も果たせなかったって責められるのは目に見えている……)
とはいえどれだけそんな目で見ようとも、実際に将軍が身罷ったなら次代を立ててその補佐ができるのはきっと理人だけだ。当然、御三家の残り二家が黙っていないだろうから一年から五年程度の引き継ぎを経て人知れず処分という方向に持っていかれるだろうが、それを甘んじて受けるほど理人もお人好しではない。奏も一旦国を出るつもりではいるがここ数年の恩を返すべく邪魔者の排除に努めてもいいし、国を出るならその手助けをするのも厭わない。
あれ、やっぱりさっくり殺っちゃったほうがよくないだろうか。
「ん……、んん、……」
解毒剤から手を離して瓶を割りたいという欲求に抗えずにいた奏を引き戻すように、小さな呻きが聞こえてはっと我に返る。
いけない、馬鹿を前にするとうっかり現実逃避に努めてしまう。将軍を殺すに否やはないが、近侍も纏めてとなるとちょっとばかり心苦しい、時間切れも近いなら一先ず取引を成立させなくては。
「そろそろ時間もないようですが、量もどんどん減っていくからお気をつけくださーい」
言いながら瓶の口を開け、ぽとりぽとりと畳に染み込ませていく。気化した成分を吸い込むだけでも解毒効果はある、目の前で空にしたところで責められる覚えはないのだが、知らない将軍は少しばかり楽になった身体でうああと喚く。
将軍の目の前に小さな瓶を置き、それを軽く指で押さえながら奏はにこりと笑って最後通牒を突きつける。
「取引します?」
指先でゆっくりと瓶を傾けつつ、どうでもいいを前面に押し出して尋ねると必死に将軍が頷く。思った以上に粘られた、危うく意図しないまま全員を殺すところだった。とりあえず契約は成った、助けて回らねばと将軍の口に解毒薬を数滴落として近侍の三人にも同じように垂らしていく。最後に理人の側にしゃがみ込み、呆れた目で見上げられることに苦笑していると後ろでふらりと将軍が立ち上がったのが分かる。
「貴様……、よくもこの儂にこんな真似ができたな!!」
「──元気ですねー」
解毒薬を含んですぐに動き出すのは、結構な気合が必要だ。この場合は奏に対する怒りなのだろうが、暗殺者に対して用心が足りないよなーといっそ感心して考える。
「じゃあその勢いで、旅券と白紙の、」
「ふざけるな、貴様の首などこの場で刎ねっ、」
刎ねてやるとでも続けたかったのだろうが、最後まで聞く気のない奏は将軍の顔面にその部屋に飾ってあった馬鹿っ高そうな壺を直撃させて遮った。
「白紙の命令書と五百両を、今すぐ耳を揃えて持ってきてくださいね」
今。すぐ。と、顔面を押さえてぎゃあぎゃあと喚いている将軍に言いつける。理人は気づかれない程度に額に手を当てて、嘆かわしそうに小さく頭を振っている。奏の無謀を諫めているのかと思いきや、将軍の愚かを憂いているらしい。盾として正しいのか、それ。とちらりと考えるが、自分に不都合はないので黙っておく。
「儂を誰と心得る、女!! このような不敬を働いてただで済むと、」
「たかが将軍の分際で、ぴゃーびゃー煩い。心配しなくても秀真は神つ国だから、帝があられたら立ち行くに決まってるじゃない。最悪、その帝にしても次代さえ絶えなければ何とかなるし。要はどれだけ権力者だろうと、一人二人がいなくなったところで国が壊れるわけじゃないの。その軽いお頭に叩き込め?」
人口の半分を殺すとさすがに終了するけどと取り繕うのをやめて解説するのに、将軍は何故かあんぐりと口を開けて固まっている。どうやら自分が死んでも国が立ち行くなんて、誰も教えてくれなかったらしい。それはそうだろう、進言に命を懸けられるほど肝の据わった人物なんて数えるほどで、その最たるである理人がしようと思えないほど将軍はできた上司ではないのだから。
奏は時間を止めて理解を拒否している将軍に、仕方なく噛み砕いて説明する。
「殺せないんじゃなくて、殺さないの。殺したくないんじゃなくて、殺さないの。別に将軍の生き死にも秀真の行く末も興味はないけど、理人さんには後見人になってもらった恩があるから。容疑がかかるような状況で殺すのはなー、って思いで控えてるだけ。今日だけで、もう何回殺せてるか分かってる? 毒を聞かせる前に近寄った時点で間合いを詰めて刺してもよかったし、解毒薬を渡さなかったら確実に死んでたし、さっきの壺が懐剣だっただけでも死んでるよね。そういうのを本来は自分で察して、ぞっとするもんなんだけど。君の危機察知能力ってどうなってるの?」
よくそれで将軍なんてやってられるねといっそ感心すると、ようやくその恐ろしさに気づいたらしい将軍の顔色が変わる。それでも震えながら口を開き、下賤な女が、と懲りずに罵倒を選ぶあたりは感心すればいいのだろうか。
「でも、前にも言ったと思うけど」
言いながらその時と同じ扇を取り出し、閉じたままひゅっと将軍に向けて一閃する。生じた風は髪を撫でるなんて生易しいものではなく、確かに頬をすぱりと切りつけた。将軍は震えた手で頬に手をやり、滲んだ血がついた指先に唇を震わせる。
奏はふふと愛らしく笑って扇を広げ、口許を隠しながら目を眇めた。
「頭が高い」
声を低め、荒らげるではなくぼそりと呟く。笑ったように細めた冷ややかな目を向ければ、将軍は膝を突いてがくがくと震え始める。俯く姿は頭を垂れているようにも見える、ようやく目の前にいるのが圧倒的な強者であり捕食者であると認識したらしい。遅いと内心で吐き捨てたが、身に染みたなら今の内だ。
ぱちんと大きな音を立てて扇を閉じるとそれだけでびくりと肩を震わせている将軍に、ところでと水を向ける。
「君の命を売ってあげた件に関して、私の要求は既に伝えたはずだけど」
いつまで待てばいいのかなと無邪気を装って首を傾げると、どうにか動けるまで回復してきた近侍たちが行忠様と将軍に呼びかけている。
「あのような無礼、許すわけには参りません!」
「すぐにも近衛を呼んで無礼討ちに、」
致しましょうと、決して自分たちで手を下すではなく助けを呼ぶ方向で熱くなっている近侍たちに、奏はこっちも理解が及んでないようだと大きな溜め息をつく。
「別に何人呼んでこようと、それを全部返り討ちにする自信はあるけどさー。そもそも私に君らをここから出す気があるかどうか、を論じるべきじゃない? 私の目を盗んでここから出て行ける実力者がいるなら、その前に私を取り押さえたほうがいいと思う」
できると思うならかかってくればとやる気なく挑発すると、ぐっと言葉に詰まった近侍の一人が、誰ぞ!! といきなり叫んだせいで耳がきんとする。断ってからやってくれないかと恨めしく呟きながら耳を押さえる間も、誰かが駆けつけてくる気配はない。
当然だ、一流の暗殺者を舐めないでほしい。ウェインスフォードで幼い頃から、どれだけエリート教育を受けてきたことか。
「防音対策もしてないと思われるのは心外の極みだけど、外の世界が穏やかに回ってるってよく信じられるよね。井戸に毒でも放り込んだら、今頃は全滅してるよ? どうして自分たちにされたことを外の連中にはしてなくて、望めば助けてもらえると思ってるのか。を、尋ねたほうがいいのかな」
基本からなってないねと頭を振った奏の視線だけで、全員が凍りついている。そもそもその可能性に自分たちで気づけないのは、如何なものか。暗殺に対する備えが笊すぎて、元凶が理人だろうの見当もついて溜め息を禁じ得ない。
(まったく用心してないわけじゃないけど、何かあったらリト少年が対処する、で思考が停滞してるとか。あの子がいなかったらどうしようって発想はどこに)
なってないと辛辣に切り捨てるが、じきに嫌でも考えざるを得ない状況になるならその時になって慌てればいい。その頃にはもう彼女自身はこの国を出ている、どれだけ荒れようが乱れようが知ったことではない。
(神つ国なら、神に縋れ)
心の支柱があるのは、いいことだ。良きにつけ悪しきにつけ、すべてを押しつけられるのだから。




