表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
猫の尻尾と女の名前  作者: あつろ
25/42

契約不履行

 雪代奏が謁見を求めていると近侍の一人に報告され、行忠は一瞬それが誰かも分からなかった。そんな相手に割く時間はないと眉を顰めて言い放つ寸前、静寂しじま様の婚約者にございますと反対側の近侍が耳打ちしてようやくはっとする。


 そういえば、そろそろ賭けの期日だったはず。十日で百両、絶対に達成できない条件に打ちひしがれた姿と、大事な婚約者を取り上げられる理人の姿を想像するだけで顔が笑う。


「通せ」


 後の予定など気にすることもなく命じれば、近侍たちも粛々と従う。理人あやひとが出国した日は当然把握している、謁見を申し込まれた時点で行忠が予定を狂わせるのは織り込み済みだったのだろう。何の反論も諫めもなく準備が整っていくのを眺め、行忠は満足げに目を細めた。


 秀真まほろの将軍は帝と違い、血で繋がれていくのではない。あまり勝手が過ぎると職を解かれるというのが建前としてある以上、少し頭の回る臣下は行忠の言にいちいち噛みついてくる。しかし、あくまでもそれは建前、だ。

 御所に引き篭もって政にも関わらずただ神に祈りを捧げ続けるような傀儡と違い、将軍とは秀真を司る最高権力者だ。逆らうことなどそもそも許されない、何事も行忠が望むまま回るはずだし、周りはそうなるように努めるのが筋だ。


(さて、理人の相手はこれからじっくりと選ぶとして、あの小生意気な小娘は誰に宛がうか)


 できるだけ碌でもない、老い耄れがいい。但し金と地位は必要だ、形だけでも理人を納得させられるだけの条件は備えなくてはならない。候補は五人、その内の誰が一番最悪か。


 美しくもなければ可愛らしくもない、とこにでもいそうな変哲もない女だが。それでも今まで理人が見せないようにしてきただろう厳しい現実と向き合った時、どれほど絶望に顔色をなくすかと思うと心が躍る。

 どれだけ見栄えのしない人間でも、切望に染まるあの一瞬だけは行忠の心を和ませる。しかも今回は、あの女を追いやるだけで理人まで苦痛に満ちた顔を見せると思うと待ちきれない気分になる。


 他には何の利点もないが、理人をここまで骨抜きにしたことだけは最大の功績と認めよう。

 あの女に僅かなりと温情をと縋る理人に無茶を強い、こなしたところで救えないという現実を突きつけた時に浮かべられる表情はどれだけ行忠の心を震わせるか……。


 さほど遠くないだろう未来に思いを馳せていると、何日か前に見た女が部屋に足を踏み入れてきた。俯きがちに沈鬱そうな足取りで、行忠に会うのが苦痛で仕方ないといった様子を──、


 していない。


 何が起きたのかと眉根が寄りそうになるのを何とか堪え、余裕の表情を保ちつつ前回と同じ距離を保って挨拶する女を眺める。その女に続いて入室し、後ろに控えた理人も悲哀の色を浮かべていない。こちらは行忠の前で顔色を変えたくないと努力しているのだとしても、まだ二十歳にも満たない女がそんなに顔色を隠す術を身につけているとは思えない。

 ではまさか、この十日で百両を揃えられたというのだろうか。


(まさか)


 理人があの女か自らを守るためかは知らないが、百両を肩代わりするのではないかという懸念はあった。それでは面白くないからと金の動きはすべて見張らせていた、報告を忘れられていたのかと命じた近侍を軽く睨むと大急ぎで頭を振られる。

 ここで嘘をつくほど無謀は働かれない、では理人が金を出した線は消える。他にも僅かでも縁故がある者、なくても十日で百両に至るほどの金を動かした者もすべて把握しているはず、そのどれも協力していないとなると一体どうやったのか。


(いや、まだ揃えられたとは限らない、)


 行忠が無駄に足掻こうとした時、女の後ろから恭しく運ばれてきたのはこれ見よがしな現金だった。理人の侍従だったか、それが三宝に半紙を敷いた上に鈍い色を放つ百両を乗せて行忠の前まで持ってくる。勿論、礼儀を弁えた距離を保って据えると無言で頭を下げたまま退室し、確認した近侍が取り上げて改めて行忠の眼前に移動させた。


 百と、一両。一目しただけで分かるように置いてある。贋金かと疑って手にするが、慣れた感触だ。近侍に顎で指図して確認させても、本物だと言われるだけ。無礼者かとでも言いたげな理人の眼差しが、何より本物と裏付ける。


「……本当に十日で百両を揃えたか」

「百一両、揃えましてございます」


 先日、行忠が嫌味に語尾を上げたように女もにこりと笑って訂正する。自分がやったことながら腹立たしく、かといって反応しては負けた気がする。理人の自業自得とでも言わんばかりの視線が余計に気に入らないが、巧妙に取り繕われていて指摘もできない。

 できるなら目の前に置かれた三宝ごと薙ぎ払ってしまいたいが、今のところそうできるだけの理由が見当たらない。下手に癇癪を起こして相手に付け入られるのも業腹なら、今は堪えるしかないのか。


 とりあえず不愉快なのは隠しようがなく、脇息に肘を突きながらふんと鼻を鳴らした。


「理人に用立てさせたか」

「……? それをしたくないのでヴィシュムに参ります、と申し上げたつもりでしたが。ご記憶にございませんか」


 短期記憶は大丈夫かとばかりに首を傾げられ、思わず頬が引き攣る。いつもであれば切り捨ててやるところだが、目の前に自分の物となるのが分かっている現金が詰まれていて、確実に女を庇うだろう理人が控えているために何とか堪える。


「では、どうやった」

「先に申し上げた通り、ヴィシュムで勝ちました」


 何でもないことのようにさらりと告げる女に、行忠は疑るように理人を窺う。勝ち誇るではなく、どこか苦笑がちに頷いた理人を見れば、どうやら本気で賭け事に勝ったらしい。考えてみれば御三家の一たる静寂当主を捕まえている現状だけでも、この女が強運を持ち合わせるのは認めざるを得ないのか。


「これで出された条件に達しました、直ちに旅券を発行して頂きたく存じます」


 わくわくと目を輝かせて当然のように要求してくる女に、何故行忠がそんなことをしてやらねばならないのかと苛っとする。


 確かにしっかりとした条件を書いて血判まで押した契約書がある以上、そうせねばならないことは知っている。だがあれは達成できないものとして結んだ契約だ、今更達成できたと言われてもふざけるな以外に言葉がない。

 このままでは理人は憎たらしくも生意気な女と婚儀を結ぶことになる、その上に女が望むまま旅券まで発行させられて、挙句に理人には白紙の命令書まで渡すことになるではないか!


 絶対に認められない、どうあってもこの契約は無効にすべきだと必死に頭を巡らせる。


「直ちに、か」

「はい、直ちに」


 もうご用意は頂いておりますでしょうと無邪気を装って首を傾げられ、さて、と薄らと笑みを貼りつけた。


「儂と其方が交わした契約は、確か旅券の発行のみのはずだ。直ちに、は条件になかったはずだが」


 攻めどころを見つけて口許を歪めるように聞き返すと、期待に満ちていた女の顔が俄かに凍りつく。

 ああ、そうだ、行忠に直面する者は皆、こんな顔をするべきだと留飲を下げる。


「……お約束通りの金額を用意しましたのに、契約を履行して頂けない、との仰せですか」

「これ、人聞きの悪いことを言うでない。発行せぬとは言うておらんだろう。其方が約束を守ったのだ、儂も発行の手続きはさせよう。約束する」


 安心せいと目を細めると、女は表情を動かさないままひたりと行忠の目を見据えてきた。何とも気に入らない、不遜な目だ。


「では、実際の発行はいつになりますか」

「それを儂に聞くな。まさか儂が一件ずつ承認して発行している、などと考えてはおるまい? 仮にそうであれば勿論、其方の旅券は一番に発行させようが……、如何せん、儂にできるは命令するのみよ」


 最優先にしろ、と命じることはできる。当然だ、行忠はこの国の最高権力者なのだから。だが、しない。泣いて縋るほどの可愛げも見せない女に、そこまでの慈悲をかける必要はないからだ。


 女は一度きゅっと唇を噛み、膝の上で両手を組んで何かを堪えるように震わせた後、睨むように見据えてきて口を開いた。


「これではお約束が違います」

「違わぬ。旅券を発行してやると約束した、その手続きは命じてやる。何も問題はあるまい」

「それを通されるおつもりですか、秀真の将軍ともあろう方が。小娘との約束一つ、守れぬと」

「何度も言わせるな、約束は守る」


 これで話は終わりだとばかりに手を揺らすと、女はぎりと歯を噛み締めた。


「それでは今すぐ私の旅券発行手続きの命令書をお持ちください、勿論、理人様に賜る白紙の命令書もです。私はここに全額を揃えてお持ちしました、その程度もできないとは言わせません」

「っ、貴様、将軍に対してその口の利きようは何だ!?」


 思わず怒鳴りつけたが怯む気配もない女に音高く舌打ちし、けれどまだ交渉すべきがあったと思い出した行忠はふんと鼻を鳴らして座り直した。


「取り急ぎ旅券を必要とする理由も分からんが……、そうさな。どうしてもと望むならば、理人に下賜する命令書に発行手続きを最優先にすべく認めてやってもよい」

「──正気ですか」


 低い声で聞き返してくる女に、無論だともと優しげな笑みを浮かべて頷いてやる。やはり、女は愚かだ。こうでなくてはならない。


「ではそのように手続きしてやろう、」

「クソかクソかと思ってたけど、救いがないことこの上ないな」


 大きな溜め息交じりに無礼極まりない発言が届き、行忠は唖然として前方に座る女を見た。

 今まで大人しくそこに座っていた女は面倒そうに頭をかくと、心底馬鹿にした目をこちらに向けてくる。なんと無礼なと怒鳴りかけた時、何故か開けた口がそのまま閉じられず、立ち上がりかけた体勢を崩してその場に倒れる。


 そうして実際に倒れ込んだ事実が、行忠に身体が痛む以上の衝撃を与えた。


 行忠の側には無駄に近侍が揃っている、倒れかけた姿を見れば自分の身を擲っても助けるのが当然だ。何故それをせぬと地団太を踏みたい気分で考えるが、それを口にもできない。どうしてか口は開いたまま、舌は痺れ、指先でさえ碌に動かせない状態を確認するだけ。


 自分の身に何が起きたのかと恐慌するが、近侍の誰一人として駆け寄ってこない。理人は何をしていると辛うじて動く視線を向けるが、顔を動かせないせいで女の姿さえ窺えない。


「素直にお金を受け取って旅券を発行してくれたら、そのまま済まそうと思ったのに。……ねえ、十分寛大な措置だったと思わない、こんな法外な金額で旅券を買い取るなんて。本当は最初からこうしていてもよかったところを、お世話になった理人さんの顔を立ててあんな馬鹿げた契約をしたの。人間、欲をかいちゃ駄目だって教わらなかった?」


 そんな親切な人間ならもう側にいないかと、尋ねたくせに答えを求めない様子で頭を振った女は近寄ってきてわざわざ上から覗き込んできた。何の熱も帯びない黒い瞳は、まるで無機物でも見るかのように見下ろしてくる。


『儂に何をした!?』


 声にもならないがそう怒鳴りつけた気分で僅かに口を動かすと、女は片方の眉を上げて肩を竦めた。


「何って、そこまで動けないところで察しがつきそうなものですけどね。まあ、毒を盛っただけですけど」


 そんなに鈍くてよく将軍なんてやってられますねと完全に馬鹿にしたように吐き捨てられ、まさかと頬を引き攣らせる。


 暗殺を企む馬鹿が多いのは承知の上だ、そのために何人もの毒見と盾役の近侍を揃えている。何よりこの部屋には理人がいる、あれは最尖の剣であり最堅の盾だ。例えば自分の婚約者であろうと将軍に害をなすとなれば排除する、そういう生き物だ。不穏な動きを見逃すはずがなく、何よりこの女が入ってきてからこちら、行忠は何も口にしていない。


 どうやって毒を仕込めたのかと青褪めながら考えていると、女はこれ見よがしに扇を出して自分の顔の前でゆるりと仰いだ。


「あらあら、毒を含むには経口摂取のみだとお思いで? 飲んだり刺したり噛まれたり……、色々ございますでしょう」


 ほほとわざとらしく淑やかに笑った女は、それにしてもと視線で部屋を見回した。


「こちらは変わった香を焚いておられるのですね。シュウヘンに火を入れれば猛毒になるなど子供でも知った知恵でしょうに、……ああ、樵仕事などなさらない将軍にはご存知ありませんでしたか」


 無知は身を滅ぼしますよとにこりと笑う女の言葉にあるシュウヘンの名前に、行忠も顔色をなくす。


 秀真では、終片ついのかけという呼び方のほうが馴染みがあるだろう。昔は姫銀樫きぎんかしと呼ばれ、水気に強い家具材として人気が高かったこともある。ただその家具を持つ何人かに一人は不慮の死を遂げると噂になり始め、呪われているのではないかとまことしやかに囁かれるようになって急激に廃れた。時の帝が命じて祓魔士が総出で調べ上げた結果、呪いなどではなく姫銀樫そのものが火に炙られてじわじわと毒気を放つと判明した曰く付きの木だ。


 以降、秀真では終片と呼ばれるようになり、誤って火にくべないようにと幼い頃からくどくどと言い聞かせられる。まさか知らずに香木として扱う馬鹿などいない、誰かが故意に香炉に放り込んだとしか考えられない。


 誰か。誰か? 問うには及ばない、犯人なら知れている。目の前でにやにやと行忠を見下ろしている、この無礼な女に他ならない。一人だけ無事に動き回っていることからも明らかだ、


(動けるようにさえなれば、すぐにも殺してやる……っ)


 どうにか動かせる視線だけで射殺したげに睨むと、女はにんまりと笑って語尾を上げた。


「動けるようになれば、ね。……なればいいですね」


 水が沸騰するくらいの時間が経てば死んじゃうと思いますけどと楽しげに笑う女の言葉は、けれど確かな事実だと悟る。震える指先をどうにか曲げるが握り込むには至らず、無様な呻き声しか出ない。


(こんな、ところで)


 終わるのか。終わらせられるのか。


 冗談ではないとどうにか歯を食い縛り、女を見据えた。屈辱しかないが、ここで縋れるのは唯一。

 女はゆっくりと扇で自分を仰ぎながら、ふっと鼻で笑った。


「さて、では取引の話と参りましょうか」


 即決してくださるのであればと笑いながら揶揄されても、今は逆らえない。今は。


(命さえ助かれば、これがどれほどの悪手だったか骨身に染みさせてやる……っ)


 国の最高権力者を怒らせたことを、必ず後悔させてやる。知り得る限りの一番残虐な方法で、自ら殺してやる。


 仕掛けた罠に満足して、笑う勿れ。手負いの獣は、何より危険だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ