足を引く想い
カヤ、と呼ばれた瞬間にどうしても身体が反応した。他人に対する礼儀がなってないとか、密かにコードを入力してたとは何事かとか、噛みつきたいあれこれは何とか聞き流して他人様だと言い聞かせ続けていたのに。
家族が口を揃えたそれは、奏にとっては他人の名前、のはずだった。どれだけ鮮明に記憶を持っていても、もう死んだ人間で。大事に抱えていていいのは自分だけ、かつての家族はもう前を向いて彼女のいない人生を歩んでいるのだからと言い聞かせ。時折そう呼んでくれる理人の存在に慰められながら、忘れていくはずだった名前。
(間違えるな、私は雪代奏でしょう)
突然断たれた人生に、未練がないとは言わない。一度目も、二度目もだ。けれどあれからもう十六年、一度目の時と同じように折り合いはつけた。身につけた技術と忘れ難い記憶は自分の中に秘して、今を生きる。それが自分にとっても、前の人生で関わった全員にとっても最善。……その、はずだ。
けれど。
ぐっと拳を作り、さり気なく庇うような位置に移動した理人を振り仰げないまま小さく尋ねる。
「ばればれ、ですか」
「んー、否定はし辛いかな」
反応しちゃったしねと苦く笑って返され、俯いて拳に力を入れる。
顔を上げたくない。ささやかな抵抗としても、知らない顔をすればなかったことになるのではないか、とまだ足掻きたくなる。けれど彼女が使う呪符は、見破られると効力を失う。疑るだけならいい、ただ言葉にされるとそれは“事実”になる。書きつけた文字よりも、声にする言葉が何より強いのは呪術の基本だ。元家族に呼ばれた名前は、確実に姿変えの呪符の効力を打ち破っただろう。彼らも今頃はきっと、見たい姿を勝手に見ているはず──。
「「カヤ!!」」
悲鳴みたいに繰り返された名前で全員が一斉に向かってくるのを察し、奏は咄嗟に理人を盾に突き出すようにしてその背に隠れる。抱きつかれまいとして両手を前に突き出した理人は、唸るようにして二歩ほど手前で止まった元家族を牽制しつつ肩越しに振り返って窺ってくる。
「えーと、どうしようか」
懲りずに殲滅するかと問いかけてこないのは、目の前にいるのがもはや敵ではなく奏の──カヤの家族、と認識するからだろう。さっきまではその事実に気づかない顔をして隙あらば始末しようとしていたくせに、なんて変わり身だ。
軽く目を据わらせて眺めると視線だけで意図を解するのだろうが、逸らしたのは一瞬、君の望むままにとにこりと笑いかけてくるのがまた腹立たしい。思わず脹脛を目掛けて蹴飛ばすが、咄嗟に避けられるので避けた先で腰を殴りつける。避けなきゃよかったと腰を押さえながら嘆く理人に少しは留飲も下がるが、その向こうでカヤと口々に呼んでくる元家族にどう対応すればいいかはまだ分からない。
理人を避けてこちらを覗き込んで来ようとするのを察するたび、理人の服を引っ張って後ろに下がりつつ抵抗する。下手に左右に避ければどちらかに捕まりそうだからだが、そろそろ後ろで取り囲んでいる執事の群れには突っ込みそうだ。
「お姉様、どうして避けられるのです? まだ怒っておられるのですか」
ぐすりと泣き声交じりで問いかけられ、そっと伺った先ではレシタが本気で泣き出しそうに目を潤ませている。十六年前はまだ八歳で、カヤにとっては可愛い妹だが。今やカヤの享年と変わらない年と外見で、奏からすれば大分年上ではある。複雑な心境にはなるものの、お姉様と呼んで慕ってくれる妹を泣かせるのは忍びない。
(いやでも年上の妹って、そもそも何さー)
慰めるべきか、無視するべきか、迷ったのは一瞬。
「怒ってるって、何。別に怒ってないけど」
盾は外せないままもつっけんどんに聞き返すと、レシタはおろか他の家族たちもぱっと顔を輝かせてこちらを見る。
やめてほしい。心臓をぎゅっと握られたような気分になる、こんな感情の揺れなんて望んでいない。
知らず理人の服の背を強く握ると、ちらりと肩越しに確認した理人は自分の背後に回られないように片手を広げて牽制しながら笑顔を浮かべた。
「申し訳ありませんが、彼女と話したいならまず俺の許可を取って頂けますか」
「は? 誰だよ、お前。俺たちはカヤ姉と話してんだ、勝手にしゃしゃり出てくんな!」
「誰と言われても、彼女の婚約者で後見人です」
彼女に関するすべての権利は俺にありますのでとわざわざ逆鱗に触れる物言いをする理人に、元家族の殺意が一気に膨らむ。返り討ちならやってもいいかなと考えていそうな理人の背を突いて諫め、僅かだけその背から顔を出して今にも攻撃してきそうな元家族を一瞥する。
「後見人なのは間違いないし、この人なしだと国も出られないから手出し無用」
傷つけたら怒るよと声を尖らせると、元家族は殺意を散らしながらも全員が戸惑ったような目を向けてくる。あまり長く眺めていたくはなくてすっと背の影に引っ込むと、カヤと焦れたように上の双子が声をかけてくる。
「銀行で攻撃したから怒ってるの?」
「でも全部避けて金も持って行ったのに、まだ怒ることないよね」
心が狭いとでも言いたげな二人の言い分に、軽くかちーんと来る。
「こっちが躱したから無事だったんであって、殺す気だったくせに」
「「え、でも死んでないよね?」」
心底不思議そうに聞き返され、生きてますけども! と心中に噛みつく。実際に堪えるのは、この二人を相手に言っても無駄だと身に染みて知っているからだ。それでも頭痛を堪え切れず、理人の服を掴んだままの手とは反対の手でこめかみを押さえる。
「……とりあえず後見人の席も用意するから、一度座りなさいな、カヤ」
「お言葉は有り難いですが、ご遠慮します。そろそろ帰らないと間に合わなくなるから」
「「どこに帰るの!!」」
思わずといった様子で全員に声を揃えられ、奏は不審も露に眉根を寄せる。
「だから、家に」
「家ならこちらにあるではありませんか!」
「それはウェインスフォードの家でしょう、今の私は前以上に赤の他人様だからね」
「そんなこと誰も思ってないよ! カヤ姉はカヤ姉でしょ!?」
何でそんなこと言うのと今度はロイナまで目を潤ませて詰め寄ってくる、可愛い妹たちを泣かせる気はない。ないのだが。
(いやだって無理じゃない無理だよね? 今やもう家族じゃないってどれだけ言い聞かせて生きてきたと思ってんの、人の十六年の努力を無駄にするとか何事?)
説明が面倒臭いとか、信じてもらえるはずがないとか、そもそもヴィシュムに渡る術がなかったとか。諦めろと自分に言い聞かせる理由なら事欠かなかった、けれど一番の理由はそれらの内にない。仮に奏がカヤなのだと受け入れられたとして──多分にそうなるだろう予測なら、今でなくとも容易についた──では、その先はどうするのか。
カヤは死んだと、どうにか呑み込んで受け入れたところに大きすぎる石を放り投げて、無駄に波立たせるのか。それだけでも心苦しいのに、喜んで歓迎され、──その後、また死ねばどうするのか。
暗殺者という家業を受け入れた時点で、いつ誰に殺されても不思議はないと覚悟している。これまで散々そうしてきたのだ、いざ自分の番になった途端に受け入れられないなんておかしい。自分が死ぬことも、家族が殺されることも、望ましくはないが受け入れるのは義務だと思っている。家族経営だからこそ家族を何より大事にする一族だ、一人、また一人と減るたびに自分の行いを省みることはできずとも重石として抱えるべきだろう。
けれど、彼女だって家族が憎いわけではない。義務として殺されるべきと信じていても、それが少しでも遠い日のことであれとは願ってしまう。殺した相手は憎いだろうし敵討ちにも行きかねない、仮に間違って天寿を全うしたなら喜んでしまうだろう。そのくらいには大事に思う家族が無理に塞いだ傷を抉じ開け、そして馬鹿みたいな願望を持たせてしまったら?
(死んでも、また次を期待する)
命が尽きれば終わり、それを覆してはならない。何故か彼女は三度目を許されたが、決してすべてに平等に振り撒かれる奇跡ではないと知っている。自分に起きたとはいえ家族の誰もが受ける恩恵でもなく、寧ろ望んではならない忌むべき事態。本人が期待して備えるのはいい、ぶつりと途切れて無駄に終わってもがっかりするのは自分だけなのだから。今までよく続いたと、感謝さえして終えるだけだ。
けれど家族が知ってしまったら、期待せずにいられるだろうか。なまじ一度起きたと知れば、この世のどこかにまた生まれ変わったなんて幻想に蝕まれる。二度とない奇跡だったとは諦められず、永遠に探し、迷い、惑い、残された人生を棒に振ってしまうだけではないか。
それを強いて喜ぶような悪趣味、生憎と持ち合わせていない。
(今からでも記憶を弄る──には範囲がなぁ。執事が多すぎて全員は無理。となると惚ける、ってここまでがっつり反応してそれはないよね。ないない。なら、記憶はあるけど感情は伴わないとかどうだろう。薄らぼんやり知ってるだけで徐々に薄れてきてるとか、……はっ、寧ろ嫌ってる体でいくのは!?)
それで行くべきかと自分の名案にでかしたと褒めるより早く、何だか憐れむような視線を感じてそろりと窺う。肩越しに振り返った理人が、ないわー。とでも言いたげに生温くこちらを見下ろしているのに気づいて目を眇める。
「何ですか、その可哀想な子を見るような目は」
「無駄な足掻きだなー、と思って」
「は?」
この四面楚歌で唯一味方だと思っていたのに喧嘩でも売られているのだろうかと苛々すると、理人が苦笑気味に笑う。
「君が君として初めに会いに来てくれた時のこと、覚えてないかな」
「身分証が手に入らないこの三年を、じっくり振り返ればいいんですか」
突き刺す気分で聞き返すと痛みを堪えるように目を伏せた理人は、まあそこは置いといてとぼそぼそと呟く。
「君がカヤさんだと確信した俺に、問答は必要だった?」
説得された記憶はないけどとどこか揶揄するように語尾を上げられ、眉を顰める。
うっかりと道端の猫に反応した、ただそれだけでカヤだと確信した理人はそう認めさせるためだけに質問を重ねてきた。当時は死んだと知らなかったとはいえ見た目が違おうと年齢が合わなかろうと、一切気にしないどころか不都合な事実は進んで排除しても妄信したと言える。今思い出しても、理人の将来がひどく心配になる有様だった。
「理由も事情も関係ないよ、君がカヤさんだと信じるに足る事実があればそれでよかった。それが全部。俺でさえそうだったのに、カヤさんの“家族”はそうじゃないってどうして思うのかな」
呆れの滲んだ声で突っ込まれて、奏は思わず声を失った。
あれは君だけの異様じゃなかったのかと喉まで出かかったが、何とか堪えてそろりと視線を動かす。今まで細かな表情までは窺おうとしなかった家族に目を向け、ぐっと口を引き結んだ。
彼らの目に浮かぶ、それはいつか見た光。
期待に満ちて、希望に震え、どんな嘘も偽りも聞き入れる気のない確信に満ちた顔。多分奏がどれだけ拒絶しようと、それさえ受け入れる気もなさそうな。
(っ……!)
知らず一歩後退りしたが、引き留めるように理人が腰に手を回しただけで動けなくなる。縋るように見上げると、理人は憐れむというよりは宥めるように目を細め、噛んで含めるように言う。
「諦めて。俺たちが信じる君の価値は、どれだけ頑張っても今の君だけで変えられない」
認めた時点で負けてるんだよと、まるで睦言みたいに紡がれる甘い敗北宣言に、そんな馬鹿なと悲鳴を上げる。困る、拾い損ねた猫に懐かれるのとはわけが違うと口を動かすが、声にはならない。まずいって! と全身の悲鳴を込めて理人を仰ぐが、いやだってほらとそちらに顔は向けないまま指を向けられる。
「俺が猫なら、あっちは待てされた犬みたいだよ」
どっちも本能には逆らえないんじゃないかなあと他人事みたいに言われ、眩暈を覚える。これ以上の動物様はいらんよ! と叫びたいやら違うやら。こっちの事情にも、もう少し気を向けてほしい。
「「カヤ!!」」
切実に呼ばれるのは、確かに自分の物だった名前。幾つもある内の一つで、今も大事なそれ。
吐いた呪いは、何れ自分に返ってくる。名前というのは最古の呪、自分を縛る鎖に違いなく。
(っ、嗚呼……)
思い知る。いつだって、自分の足を引くのは自分の想い、だ。




