やりたくないこと
前方にウェインスフォード兄妹、後方に執事の包囲網。一般人なら死にたくなるねと暢気に考えながら、奏は左の爪先で自分を囲うようにぐるっと円を描いた。そのまま右足の後ろで爪先を二度打ちつけ、睨むような眼差しで見据えてくるかつての弟妹たちを眺める。
スルフの後から姿を見せたのは、先日銀行で会った上の双子。また別方向から最後に姿を見せたのは真ん中のロイナで、それぞれが先にいる下の双子に不服げに声をかけている。
「どうしてまだ捕まえてないのさ」
「抜け駆けした割に鈍臭いねぇ」
「ていうか、間違ってないでしょうね」
何故か一気に攻撃を仕掛けてくるではなく暢気に会話している弟妹たちを遠く眺め、距離を詰めあぐねている執事たちの気配を窺う。主人を差し置いてかかってくるはずもなく、かといって逃がすわけにはいかないと考えられる退路を断ちにかかっている。なかなかに優秀だ。
(今は最もいらない優秀さですが。もっとこうさー、うっかりぽっかり穴をあけるくらいの人間性がほしい)
必要なのは可愛げと心中に主張するが、ウェインスフォードでそれをすると命の危機に直結するのも知っている。とはいえ自分の命を取るか他人の命を取るかと問われれば、何を置いても前者しか取れない。
(二度も転生するような人間が、潔さなんて持ち合わせるはずないよね。他人様を尊重なんて、命に係わらないところでしかできません。悪しからずー)
決して他人様には聞かせられない持論を振り翳しつつ一歩後ろに下がると、弟妹の眼差しがきつくなる。逃がすものかとそれだけで教えられ、溜め息を禁じ得ない。
(別に直接害を与えたわけでなし、何をそんなに躍起になってるんだか)
体面を保ちたいなら、そもそもここまで大事にするべきじゃないよねと内心に批評する。
とりあえずタイミングを計るべく一旦動きを止めると、何かを訝るようにロイナが目を眇めた。
「……ねえ、本当にあれなの? 全然似ても似つかないんだけど」
今更違うなんて頭悪いこと言い出さないでよと声を尖らせるロイナに、ウズハがふんと鼻で笑う。
「信じないなら帰ればいいよ」
「そうそう。見つけたら別にお前たちは必要ないよ」
後は俺たちがやるとクザキまで一緒になってゆらりと殺意を立ち昇らせているが、はあ? とロイナがきつく語尾を上げた。そのまま兄妹喧嘩が繰り広げられそうな気配だが、のんびり見ているのも馬鹿馬鹿しく奏はあのうと少し声を張って割り込んだ。
「人違いなら謝罪は結構ですから、帰ってもいいですかー」
「何言ってるのさ。人違いのわけないよね」
「わけないって、初対面でそんな堂々と言い放たれても」
「帰るって、どこに帰る気?」
「……家ですけど」
それ以外に何があるのかと聞き返しつつ、相変わらず会話をする気のない双子にそっと息を吐く。人がせっかく誤魔化そうとしているのに、突拍子もない質問で出鼻を挫くのはやめてほしい。
がっかりしているところに、斜めにこちらを見ているスルフが声も低く尋ねてくる。
「人違いだって言うなら、どうして逃げたんだよ」
「えー。人間、追われたらとりあえず逃げますよね」
「心当たりのない方は逃げないと思いますけど」
「疑わしい動きをしたら怪しまれるに決まってんじゃない」
馬鹿じゃないのとばかりに弟妹たちに畳みかけられるが、無茶苦茶言うな以外の感想は抱けない。危機を察知して逃げるなんて人の本能だし、ぼさっとして殺されるなんてそれこそ馬鹿のすることだ。自分たちがしないことを、やって当然とばかりに言われても困る。
話し合いが無理なら逃げるしかない。と改めて決意して動き出そうとした奏の機先を制するように、ウズハとクザキが同じ色の目に同じほどの殺意を乗せて執事たちに静かに命じる。
「ここで逃がしたら、お前たち全員殺すけど」
「とりあえず捕まえるのが先決だね」
ぼさっとするなと双子が声を尖らせると、取り囲んで距離を詰め出していた執事が即座に従って動き出す。一斉に駆け寄ってきた五人ほどを上に飛んで避け、一人の肩を踏みつけて手薄になった後方に逃れる。そのまま次のビルへと飛び移ろうとしたが、その前に右手から一人が突進してきて奏の腰に手を回すとそのまま肩に担ぎ上げた。
「そのまま捕まえてろ!」
「死んでも逃がすなよ!」
よくやったと弟妹が褒めてこちらに飛び移って来ようとするより早く、言われずともと小さく答えた相手は奏を荷物めいて担いだまま弟妹たちとは反対方向に駆け出し、次のビルへと飛び移るとそこから躊躇なく飛び降りる。何度か壁を蹴って段階を踏みながら無事に道路へと降り立ち、また走り出す。もはやさっきまでいたビルは目視もできない、一瞬できた隙を衝いてかなりの距離を稼いでいる。
「下ろしてくれれば自分で走れますけど」
「でもその間も惜しいよね」
「前に放り投げてくれたら済む話ですけど」
相手の背中側に上半身を垂らしたまま提案する奏に、そんな怖いことと苦笑するのは理人。奏とは別に追われていたはずの理人は、けれど誰にも気づかれず執事たちの中に紛れていた。打ち合わせ通りに助け出してくれたのはいいが、どうしていつまでも奏を担いだまま走っているのか。
とりあえず一度促して離されないということは、しばらくこのまま離す気はないのだろうと諦めて話を進める。
「それにしても撒くの早かったですね。屋上から見下ろした時点で、もう下にいましたよね」
「こっちに来た人数が少なかったのもあるけど、貰った札のおかげだよ。一字変えただけで、もう認識できてないみたいだったから」
「まあ、そのために渡した札ですからね」
できなかったら私の腕が落ちたってことですよと苦笑し、懐かしく目を細める。
カヤとして生きた時に一通り以上の暗殺技術を身につけさせられたが、実際のところ一番重宝した力はその前の人生で得たそれだった。最初の母に教わった呪符を使えば、隠形もひどく容易い。やり方と道具さえ知っていれば誰でも作れるし使えるが、認めるのは表音文字と決まっている。かつて秀真で使われていたとはいえ今や廃れた文字だが、意外なことに理人は教える前から知っていた。
「表音文字なんて誰も使えないだろうと思ってましたけど、博識ですね」
「ここに来る前に見直したから使えただけで、君ほど使いこなせてないけどね」
完全に覚えてる人に褒めてもらってもなあと頭を振られるが、こっちは年季が違いますと肩を竦める。理人は相変わらず下ろしてくれる気配も見せないまま、少しだけ躊躇って尋ねてくる。
「あれって式札、だよね」
「厳密に言うと呪符ですが、今は式札のほうが通りがいいみたいですね」
「──やっぱり祓いじゃなくて、呪術が使えるんだ」
「術ほど大層なものは使いませんよ、札で事足りますから」
秀真の隣に位置する陽亮大陸から伝わった道術が、秀真では呪術として広まった。そしてそれに対抗すべく秀真が独自で編み出した術を祓魔と呼び、以来、呪術は忌むべきものとして位置づけられてしまった。何も知らない人を怯えさせることはないと母も敢えて札と呼んでいたから奏も倣っているけれど、問われれば訂正したい程度には思い入れがある。
(だって、正確に言えば母様は呪術師じゃない……)
多分に今や理解されることのない拘りで拗ねたように口を噤むと、走りながら何か考えていたらしい理人がそういえばと首を捻った。
「表音文字なら呪術じゃなくて、呪いって言うんだったかな。確か呪術が伝わるより前から、呪い士がいたよね」
そっちなのかなと何気ない様子で問われ、奏は思わず褒めるように目の前にある背中をばしばしと叩く。一瞬体勢を崩しかけたが何とか持ち堪えた理人は、どこか恨めしげに肩越しに見下ろしてくる。
「走ってる時にいきなり叩かれたら、下手したら落とすからね!?」
「そこは落とさないように君が頑張れ、少年」
「……頑張りましたよね」
今も抱えて走ってますよと苦笑がちに突っ込まれ、ああそうでしたと叩いた場所を慰めるように撫でる。複雑そうな気配で身動ぎした理人は、小さく溜め息をついている。
「褒めたのに失礼さんめ」
「お褒めに預かったのは光栄至極、」
軽口で返しかけた理人を遮るように身体を起こした奏は、肩借りると短く告げて担がれていた左肩に両手を突いた。逆立ちするように身体を持ち上げるとそのまま回し蹴りする要領で、投げつけられた網を足で絡め取った。ご丁寧に鎖で編んだ上に端に鉄球までついていて、ずっしりと重い。
(ひょっとして父さんまで出張ってきてる?)
子供の喧嘩に口出しするとは大人気ないと心中に悪態をつきつつ、気配を探るように視線を揺らすが逆さのままでは足に絡んだ重さに耐え切れずさすがに体勢が崩れる。傾ぎかけた身体を咄嗟に引き寄せた理人に今度は身体の前で抱えられ、ちらりと物問いたげな視線を向けられるので一纏めにされた足を持ち上げついでに語尾も上げた。
「どうしよーう、囚われの人魚みたーい」
「見た目が凶悪すぎるよね。鉄鎖で漁とか、正気の沙汰じゃないし」
「魚だったら傷だらけですよ、鉄球に当たったら死にかねないですしね」
「人でも十分、そうだと思う」
やっぱり殲滅がいいんじゃないかなと怖い笑顔を浮かべる理人に、やめてくださいと軽く頬を引っ張って諫める。
「するならとっくに自分でやってます」
「……だろうね。でもこれは酷すぎる」
納得がいかないと顔を顰める理人を、まあまあと軽く宥めながら重い足をこれ見よがしに揺らす。
「とりあえずこの先もっとまずい状況になりそうなのに、正に足手纏いでごめんなさい?」
通常の網なら引き千切ったんだけどと悩ましく足元を眺めると、理人はああと呟いて何故かもう一度奏を肩に担ぎ直した。再び理人の背中しか見えない事態に、何がしたいのと問いかけるより早く。
「動くと手元が狂うから、じっとしてて」
「ちょ、嫌な予感しかしないけど、」
何をする気かと背筋がひやりとするが、鯉口を切る音に気づいて本能的に逃げたくなるのをぐっと堪える。理人が奏を故意に傷つけることはない、動くなと言われればじっとしているほうが賢明だ。
でもあまりいい予感はしないーっと心中に悲鳴を上げた時には、いきなり足が軽くなった。はい終わり、と簡単に言いながらまだ足に絡まっている鉄の網を解かれ、剣を片付けながら胸の前に抱き直される。今にも捨てようとされている網を受け取りながら、それと理人の顔を見比べる。
「ん、どうかした?」
「どうかしてるのは君だけだ……」
飛んでくる銃弾を切り捨てたのを見た時も思ったが、有り得ない。走りながら鉄の網を切り裂く──しかも奏の足には掠り傷一つついていない──なんて芸当、普通はしない。できない。しかも切った音さえしなかった。止まって集中した状態でやったとしても十分に人間離れしているのに、人を担いだ状態で走りながらやってのけるなんて。
(だからいっそ気持ち悪いって!)
聞かせられない悲鳴を顔を隠して堪え、理人に当たらないよう注意しながら右手に持った網の先についた鉄球を軽く振り回す。反動をつけて後ろに向けて放り投げ、理人の背中に向けて容赦なく降ったナイフを絡め取った。
ちらりと肩越しにそれを確かめた理人は、これでも殲滅してはいけないのかと批難がましい目を向けてくる。
「どんどん容赦がなくなってきてるよね」
「まあ、捕まらない限りはエスカレートしていくでしょうから」
答えながら、逃げ場も失ったようだと軽く息を吐く。
どうやら家族が一堂に会していなかったのは、この捕獲作戦が思った以上に大規模で本格的だったかららしい。あの場にいなかった祖母と両親が町に散って殺気を放っていたなら、奏にしろ理人にしろ本能的にそこを避けて逃げる。弟妹をやり過ごせば逃げられると軽く見ていた奏の読みが甘かった、まさか町全体に家族による包囲網が既に完成していたなんて。
相手の狙い通りに人気がなく、だだっ広い空き地に誘導されるまで気づかないなんて元暗殺者としての勘も鈍ったものだ。逃げるための足場となる物もなく、三方を高いビルに囲まれた空き地。地面の様子を見ればここ二三日で急いで解体されたのだろう、周りのビルもウェインスフォードの関係者以外の気配がない。奏を捕まえるために整えられたらしい状況に、溜め息を禁じ得ない。
(たかが遺産泥棒に、ここまでする?)
ああ嫌だとうんざりした気分で心中にぼやくが、これを招いたのは他でもない自分だ。責めるべきを他所に見つけられないなら、甘んじて受ける以外の選択肢がない。
ああ嫌だ。
気乗りしないまま繰り返して理人の腕から逃げるように跳ね下りた奏は、足を止めてぐるりと辺りを見回しながら絡め取ったナイフを回収する。彼女が得意とするのは毒物と呪符だ、今回他の武器は邪魔になるだけだとほとんど持ってきていない。ナイフは有り難く拝借することにして、囲んでいる気配の多さに複雑な顔をしている理人をちらりと窺う。
「見捨てて逃げても責めませんよ」
「そんなことするくらいなら、殲滅させて君に嫌われたほうがましだよ」
「何でさっきからそう殲滅したがるの。物騒か」
「君と俺の命に代えられるものなんてないんだから、しょうがないよね」
奏だけでなく、さらりと自分の命まで含んでいるところは自己犠牲の精神から程遠く好感が持てるが、家族を始末されては堪らない。カヤではなく奏になってしまった今でもまだ家族としか思えないのだから、仕方ない。
これ見よがしに大きな溜め息をつくと、腹を括る。
「逃げられないなら、逃げ道を作るしかないですね」
「お望みのままに」
俺のことは好きに使ってくれて構わないよと軽く言われ、それはどうもと苦笑する。
世の中、やりたくないことが多すぎる。やりたくなくても、やらなくてはいけないことも。