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猫の尻尾と女の名前  作者: あつろ
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三十六計、逃げるに如かず

「ちょっ、これーとー、ちょこれいとー」


 朝からご機嫌な様子でただただチョコレートと繰り返す鼻歌を披露している奏に、斜め上からちらりと視線が向けられる。今日も今日とてお役目とはいえ暇そうに行く先々へついてくる理人あやひとに、何か言いたいことでも? と水を向ける。大方かつての弟たちのように、そろそろ飽きればどうかと勧めてくるのだろうと見当はつけるが、特に聞く気はない。秀真まほろにいる時のように心苦しくも買ってもらっているわけではない、前世とはいえ自分で稼いだお金で何を買おうが奏の勝手だ。


 けれど理人は嫌そうな顔をするでなく、少し考えた後に口を開く。


「聞いてもいいかな」

「答えるかは謎ですが、どうぞ」

「確か銀行で会った彼らに襲撃されるかもって言ってたのに、人目も憚らずこんなに毎日通い詰めるほどチョコレートが好きだったんだ」


 呆れたというよりは寧ろ感心したように確認され、何を不思議なことを言っているのかなと軽く見上げる。


「もう今日には発たないといけないんですよ、そうしたらまたしばらくこの至福を味わえなくなるんですよ? 誰に狙われていようと天災に見舞われようと、買い占めないでどうするんですか」

「あ、それも本気だったんだ……」


 九日連続で通い詰めた最高のチョコレートを提供する店で、昨日の帰り際に明日はありったけ全部買っていくのでここぞとばかりに用意しておいてくださいねと笑顔でお願いした。それでは今から臨時休業して徹夜で作っておきますとあちらも笑顔で答えてくれた、あれが契約でなく何だと言うのだろう。


「食品輸入は個人だとまだ難しいですよね、可能なら週一くらいで定期購入してもいいのに……」

「そんなに好きならもっと早く教えてくれればよかったのに。店を出さないかの交渉は、今からじゃ難しいよ」


 さらりと言われたそれに思わず足を止めて、理人を振り仰ぐ。急に止まってどうしたろうとばかりに首を傾げる理人に、今なんて言いました!? と力一杯詰め寄る。勢いに押されたように軽く制止するように手を出されたが、理人は不思議そうにしながらも律義に答える。


「別に輸入法の改正をしてもいいけど、それより直接店を出してもらったほうが早いよね。てっきり俺は、君は和菓子が好きなんだと思ってその手の店とばっかり契約してたけど、好きだって言ってくれてたらもっと早くから交渉したのにと思って」

「和菓子屋と契約って、お邪魔したら必ず出てきたあれらですか? え、あれって誰かが買いに行ってたんじゃないんですか」

「資金援助する代わりに、俺が頼んだら必ず君が気に入った菓子を持ってくるようにって契約だから。店の誰かが持って来てたよ」

「何なんですか、その自分にメリットのない無駄遣い! 結構な種類がありましたよね、少なくとも五店舗くらいあるんじゃ……」

「契約したのは十店舗だけど、しょっちゅう出してたのは半分くらいだね。君が気に入らないものを出してもしょうがないし」


 でも新作に励んでるみたいだから時々出したほうがいいかなと算段している理人に、奏は思わずがっくりと項垂れる。


「個人資産の運用をどうこう言う気はないですが、もう少しましなことにお金は使いましょう」

「稼いだところで置いておいたら経済は回らないんだし、君が喜んでくれることに注ぎ込むのは無駄でも何でもないけど」

「自分が楽しいことを趣味にしましょうよ!」

「……え、君が喜んでくれるのは楽しいけど」


 十分に自分のための趣味だけどと真顔で主張され、殴るべきか滾々と説教を重ねるべきか、はたまた諦めたほうが早いのかと遠い目をして考える。理人は軽く自分の首をかいて、何かまずかったかなと恐る恐る確認してくる。


 ここまで言って自覚も芽生えないのかと思うと、軽く引く。


「自分の甘やかされっぷりが恐ろしいですけど、まぁ、本人が納得して経済を回してるならいいんじゃないですかね……。ただチョコレート店の話はもっと早く聞きたかったですっ」

「でも何度か何が食べたいか聞いた時には、言ってくれなかったよね」

「まさかそんな私の嗜好で他国から店を呼ぶって発想がされると思わないなら、手に入りそうな物を言うに決まってるじゃないですか!」


 もっと早く言ってほしかったと繰り返し主張すると、ごめんと苦笑気味に謝罪される。本当に悪いですよと詰め寄りかけ、思わずかくんと身体が傾いだ。慌てて理人が受け止めてくれるので身を委ね、躓いた原因の左足を軽く持ち上げる。スニーカーの紐が、だらしなく緩んでいる。


「靴紐でも解けた?」

「みたいですね。思いっきり踏んづけました」


 ヴィシュムに入ってからは、さすがに秀真の着物は動き難いとこっちのスタイルに変えている。コンセプトはどこにでもいる学生風で、裏テーマは休みの兄にたかる妹。だが今はどうでもいい。とりあえず格好を変えただけですっかりヴィシュムに馴染んでいる理人は、持ち前のエスコート精神を発揮して軽く右膝を突いた。左足は真っ直ぐに保ち、座ってと促される。普段なら躊躇うところだが今は遠慮なくその足に腰掛け、軽く身を屈めて紐を直していると覗き込むようにした理人が口を動かさずに尋ねてくる。


「どれくらい?」

「どれも何も、感じ取れる範囲全部です」


 こちらも口を動かさないまま答えると、理人は一瞬沈黙してから改めて気配を探っている。


 気配が分かるほど離れてついてきていた梁瀬やなせは、先ほど理人に詰め寄った時に合図して引き返させた。さすが忍と言うべきか、不自然にならず姿を消した梁瀬はもう感じ取れないほど離れている。つまり感じ取れる範囲に理人関連の知り合いは一人もいなくなったわけだが、チョコレート店に向かうこの道は結構な大通りで人も多い。


 バス待ちで並んでいる男女数人、子供をあやしながら井戸端会議に勤しむ母親数人、露店で注文が違うと文句をつけている男性が一人、迷惑そうな顔で順番を待っている女性が一人、焦って謝罪している露店の店主。通りに並んだ店を冷やかして歩く女性の二人連れ、声をかける相手を探しているようにうろつく男性が三人。目につくだけでもそれだけいて、潜んでいるのはその倍はいる。


「えーと。これ全部?」

「仕種からして、確実に全部ですね。──遺産なんて誰が持って行っても放っておけばいいのに、全力投球か」


 思わず苦く呟くのは、ここにいるのが全員ウェインスフォードの関係者──執事たちだと断言できるから。中には見知った顔もあり、長く仕えてくれている彼らは当然のように戦える。そもそも執事として採用される段階で篩にかけられ、家族の専属ともなれば一端の暗殺者レベルだ。本来であれば屋敷で控えているその専属執事たちの気配もある、さすがに新顔のほうが多いようだがこれだけ数を揃えられてはそこそこ裏で名を知られた人間でも勝てない面子だろう。


 とはいえこれでも最悪の事態を避けられたと判じるのは、ぞろぞろと集まっている中に家族の気配はまだないから。しかし専属執事たちが揃っているということは当然ながら主人も近くにいる、連絡されるのは時間の問題だろう。駆けつけられるまでに目的を果たすにはどうすればいいかと、本気で悩む。


 黙り込んだ奏を気にしたように窺ってきた理人は、的確に見抜いてそっと対策を教えてくれる。


「チョコレートに関してなら、あいつに連絡させて日時変更でもして取りに行かせるから平気だよ。俺たちじゃなければ、二三日帰りが遅れても大丈夫だし」

「っ! すごい、今初めて惚れそうになりました」

「初めてかー……」


 これまでも結構頑張ってきたんだけどなと遠い目をして嘆く理人に少し笑うと、視線を戻してきて苦笑される。


「まあ、君が笑ってくれるならいいか。それじゃあ後は、全部始末してきたらいいかな」

「その物騒な発想は何とかならないんですか!? 出会った頃は親と逸れて泣くくらい、可愛い野良猫だったくせに……」

「長じたら虎の子だったなんて、よくある話だよね」

「は。虎は白虎じゃないと認めません」


 黒いから無理と近い前髪を軽く引っ張ると、何だか懐かしそうに目を細めた理人はもう片手を取ると手の甲にそっと口接けてきた。


「ただの猫だろうと、朱雀の君に忠誠を誓うのは容易いよ」


 どこか乞うような声によく言うと肩を竦めて立ち上がった奏は、そのまま南に駆け出した。理人も間を置かず西に走り出しており、気づいた執事たちが慌てて動き出すのが分かる。三分の二が彼女を追いかけてくるところを見れば、やはりお金を直接取り出した彼女にこそ重点が置かれているのだろう。


(対面した時とは姿が変わって見えてるはずだけど、あの店には同じ札で通い詰めたからなー。太っ腹の常連認識してもらえないと、できない交渉が多すぎるから)


 店に入る時に変えるべきだったかと反省しつつ、少し狭い路地に入ると両脇の壁を器用に使って屋上へと駆け上がる。見覚えのない新顔はともかく、専属がいる以上は完全に撒くのは難しいだろう。なら少しでもチョコレート店から離れて戦わないと、買うはずの商品が台無しになったら原因を血祭りにあげたくなってしまう。


(昔お世話になった相手を叩きのめす趣味はないのにー)


 心中でそうぼやくが、敵と認識できずともチョコレートを得るためには明らかな障害には違いなく。ビルの屋上に着くと身体ごと振り返って追いついてきた人影を見下ろし、慌てて屋上を目指し始めた執事たちに遠く指を突きつけた。


「このまま追ってくるようなら、骨の二三本は覚悟するようにね」


 聞こえよがしな宣言に、年を重ねてはいても誰と判断できる執事たちはびくりと身体を竦めた。別にその二三本の内に背骨や頸椎を含める気はないのに、失礼な話だ。しかし怯えられるのも心外だが、はあ? とチンピラ宜しく語尾を上げて躍起になっている新顔たちも如何なものか。相手の実力を測れないと苦労するよと軽く同情するが、ここで懇切丁寧に指導する義理はない。忠告はしたと吐き捨てて、止めていた足を再び南に向ける。


 今はとにかく距離を取らなくては、


「お気に入りの店を巻き込みたくない、泊まっているホテルは知られたくない。遠く離れた場所で戦意を喪失させて、追っ手を撒くのが先決」


 唐突に聞こえた声が紡いだのは、奏の思考をかなり正確になぞっている。咄嗟にその人物を避けるべく右手に建つビルの屋上まで飛び退って避け、改めて視線をやった先には一人の女性。


 肩につくほどまでしかない淡い金髪、目も覚めるような鮮やかな青い目。幼い頃の面影を残してはいても美しく華やかに成長した姿に、知らず目を細めそうになる。


(髪は長いほうが、もっとお姫様みたいなのに)


 機能性よりも優美を追求したドレス姿も相俟って、昔プレゼントした人形みたいだなと考える。けれどすぐにその現実逃避じみた考えを追い出し、さてどうするかと息を吐く。


 次期当主にして末妹のレシタ・ウェインスフォードは、幼い頃しか知らないとはいえ厄介な特技を持っていた。これと決めた相手の思考トレースが、驚くほど得意なのだ。もはやプロファイルなんて言葉では語れない、それこそ呪術じみた能力はどうやら今も健在らしい。


(こっちは札を使ってどうにか底上げしてるのに、あれが天然でできるとか神様の贔屓が過ぎない?)


 妹が実際には努力の人だと知っている、それでもやはり努力は才能あってこそ大きく花開くのだと思う。努力しても追いつかない凡人としてはちょっとの愚痴くらい許してほしいが、今はそれより逃亡を許してほしい。


 けれどその望みがどんどん儚くなっていくのは、続々と押し寄せてくる慣れた気配を感じるから。


「レシタ、見つけたか!?」


 嬉々とした声で駆けつけてきたのは、レシタの双子の兄であるスルフだろう。なかなか味のある髪型になっているが、美形はいいよな、何をしても許されて。と知らず目を眇める。基本的に、ウェインスフォードの家族は誰も彼も美人だ。平凡を絵に描いたような彼女が混ざっては、一目で血が繋がっていないと分かるほどに根本的な造作が違う。幼い頃から愛らしかったが長じて美しさに磨きがかかっている、三回生まれ変わっても追いつかないなんて神様はつくづく不公平だ。


(ただでさえお金があったら九割方は何とかなるのに、あの顔まで揃ったらできないことを探すほうが大変だよねぇ)


 などと、ついうっかりしみじみと現実逃避に努めている間にも、向かいのビルの屋上には恐ろしい布陣が完成しつつある。次期当主を含むウェインスフォードの五人兄妹が勢揃いなんて、懐かしい以前に恐ろしい。


(凄いなー、他人になったらこんな本気で殺しにかかられるか)


 十何年も前に死んだ姉の遺産がそんなに惜しいですかねと悩ましく溜め息をつき、背後でじりじりと執事たちが包囲網を狭めているのを殺気を飛ばして牽制する。


 さて、ここでなんと言い訳すれば見逃してもらえるだろう?


(提案した途端、それぞれの武器が投げつけられる。に、百両賭けてもいいよ)


 皮肉げに口の端を歪め、自分の詮無い疑問に答える。家族の性格なんて、悲しいかな忘れられない。

 三十六計、逃げるに如かず。どこの兵法だったか覚えていないが、昔の人はいいことを言う。


 敵わないなら、逃げちまえ。

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