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猫の尻尾と女の名前  作者: あつろ
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蜘蛛の糸

 ゆらゆらと、身体を持ち上げられているような感触にぼんやりと目を開ける。まだ眠い目で周りを確認すればゆっくりと動いている、誰かに運ばれているのかと半分眠ったまま考えているとくすりと笑った気配にそろりと視線を上げた。


「ごめん、起こしちゃった?」


 丁寧を心掛けたんだけどと、笑みを含んだ優しい声が耳を打つ。レシタを見下ろしているのは、夏の夜空みたいな綺麗な目。柔らかく細めて笑う、姉のその仕種が大好きだった。


(お姉様……)


 心中に呼びかけるだけで、鼻の奥がつんとする。今にも泣きたいほど懐かしい、失われた光景。

 ああ、これは夢だと嫌でも思い知る。


(違う、夢でも何でもいい。また会えるなら、それで)


 手を伸ばし、しがみつきたい。抱きついて泣き叫びたい。実際のレシタは既に成人しているけれど、懐かしい姉に抱き上げられている今はまだ五歳ほどのはずだ。それなら幼さを盾に泣き喚いたところで許される。そもそも大好きな姉は意味もなくレシタが泣いたって、戸惑いはしても優しく宥め、慰めてくれるはず。


「お姉様」


 震える声で呼びかけると、どこか心配そうに見下ろされる。せっかく久し振りに会ったのに、こんな顔をさせたいわけではない。笑ってと望むのに、まだ幼かったレシタは記憶しているままにひどいと姉を責めた。


「どうしてお姉様は、いつもいないの。この前だって隠れん坊の途中でいなくなって、置いていったし。私のことが嫌いなの?」


 自分の台詞で、これがいつの記憶を辿っているのか朧気に思い出す。


 ウェインスフォードの血を引かない姉は、成人後は独り立ちしてもいいと許されていた。十八歳も年上の姉は、レシタの物心がついた頃にはとっくに家を出て顔も知らずに育っていて不思議なかったのに。姉は拾って育ててくれた家族に義理立てして家に残り、決して好きではない家業をせっせと手伝ってくれていた。


 それが姉なりの愛情表現だと知ったのは、ずっと後だ。記憶にある幼いレシタにとっては大好きな姉がいてくれるのは当然のことで、仕事だと飛び回って家に居つかないのが面白くなかった。たまに会うと疲れているのも気にかけず散々遊びに付き合わせ、自分たちのほうが疲れて寝るまで付き纏っていた。

 嫌な顔もせず付き合ってくれていた姉の思いも知らず、よくそんな我儘勝手に詰れたものだと今なら赤面する。けれど姉は記憶にあるまま、特に腹を立てた様子もなくただ苦笑して答えた。


「途中で勝手に切り上げて帰ったのはレシタたちなのに、ひどいこと言うなぁ」

「うそ! だってお姉様、いくら探してもいなかったのに!」

「隠れん坊だし、隠れてたからね。でもレシタもロイナも、何回も目の前を通ったじゃない。私からすると気づいてくれなくてひどい、だよ」


 悪戯っぽく笑ってレシタを抱いたまま器用に肩を竦めた姉に、レシタは一瞬ぽかんとして、うそ! ともう一度声を張り上げた。嘘なんかつかないよと声にして笑った姉は、レシタが二度ほど木の根に躓いたことも知っていた。恥ずかしくて誰にも話していない、確かにその場で見ていないと分からないことだと納得するしかない。


 レシタは何度も瞬きをして、本当に? とそろりと尋ねた。


「本当にお姉様、そこにいたの? 私、何度も前を通ったのに気づかなかったの?」

「そうだよ。今度やっても見つけられなかった時は、帰る前に降参って叫んで。そしたら声もかけるから」


 一人で置いてけぼりは寂しいと泣き真似をした姉に、羞恥で頬を赤く染めたレシタは慌てて謝った。


「っ、ごめんなさい、お姉様! だって、だってもう本当にどこかに行っちゃったんだと思って! ……でも、え、どうやったらそんなことができるの?」

「普通に気配を消してるだけだけど。何だろうね。それで大体の人に気づかれないってことは、もう存在感がないんじゃないかな」


 本気で覚えた疑問を素直にぶつけたレシタに、けれど姉は手の内を明かしてはくれなかった。もっと食い下がって聞いていればと今のレシタは歯噛みするが、記憶にある幼子は姉を置き去りにした罪悪感で一杯で。

 姉は一人寂しく生きる運命か、とどこか遠い目をして呟かれた言葉が本気っぽく聞こえて、そんなこと! と必死に頭を振って否定するので精一杯だった。


「気づきます、今度から絶対に見つけます! 私がお姉様を一人になんかしません、だからそんなこと言わないで……っ」


 ぎゅうと首筋に抱きついて必死に主張すると、何度か宥めるように優しく背を撫でられ。期待してるねと笑ったような声は、でもきっとまたレシタたちが気づかず通り過ぎることを知って諦めているようにも聞こえた。


(ああ。どうして分かってくれないのなんて、責められた立場じゃなかった……っ)


 この時は、絶対に見つけるのにどうして信じてくれないのかと憤慨していたけれど、今になって姉が正しかったと思い知る。だって、今なおレシタは姉を見つけられていない。──否、レシタだけでない。彼女を愛してやまない家族のすべて、必死に探しているはずなのに見つけられていないではないか。


(降参って叫べば、出てきてくれる? 今からでもそうすれば、戻ってきてくれる?)


 本当に死んでしまったと思って諦めたから、隠れん坊を勝手に切り上げて帰った時みたいに寂しくさせてしまっただろうか。それから何年も放置してしまったから、拗ねて怒って姿を見せてくれないのだろうか。


 絶対に見つけるなんて啖呵を切っておいて恥ずかしいし情けない限りだが、降参だ。投げ出してしまったことなら死ぬまで詫びるし償うから、だからどうか。


「お姉様、帰ってきて……っ」


 必死に伸ばした手を、誰かに捕まれた気がしてはっと目を覚ました。仕方ないなと苦笑じみて笑った姉は、そこにはいない。ただ困ったような迷惑そうな顔をした金髪の兄──ウズハが、レシタからそっと手を離して誤魔化すように自分の背中に回した。


「こんなところで寝ないほうがいいと思うけど」

「……部屋に戻るのも億劫なので不精しました。お見苦しい姿を」


 長姉以外の家族には基本的にぶっきらぼうな兄が僅かでも心配そうなのが何だか悔しくて、つっけんどんに返す。検分するような目で見下ろしてきたウズハはけれどそれ以上の気遣いを見せるではなく、報告に戻っただけだといつものように早速本題に入る。


「全員、空振りだった。銀行に始まって近くのカメラ全部と、一年ほど遡って空港に残ってる映像全部をチェックしたけど。俺たちが見た二人は映ってなかった」

「聞き込みは」

「祖母様がやった。念入り(、、、)に。でも直接話したはずの銀行員でさえ、全然覚えてなかった。カヤどころか、一緒にいた男のことも」


 淡々と報告されるそれで、レシタは自分の服を捕まえるように胸の辺りでぎゅっと握り、ああ、と小さく呟いた。


(お姉様……、やっぱり生きてるの……!)


 胸の内どころか、身体が震えるほどの歓喜に襲われる。それはきっと、今なお帰りもせずに探し続けている家族全員に共通する思いだろう。


 いっそウズハたちが寝惚けていたのではないか、願望から夢想したのではないかと思うほど、誰が捜したところで見つけたとされる彼女の痕跡が何もない。無駄に期待をさせてと血で血を洗う抗争が巻き起こってもおかしくないはずの事態だというのに、この痕跡のなさこそが他ならぬ長姉が存在している証明になった。


(本当に隠れん坊がお得意ですね、お姉様)


 泣き出しそうに心中で軽く詰ると、ついさっき見た記憶の彼女は覚えているまま悪戯っぽく笑う。見つけてくれるんでしょう? とばかりのそれに、勿論ですと知らず拳を作る。


 絶対に見つけると誓ってから隠れん坊の時のみならずずっと姉を観察した結果、どうやら彼女は隠れるというより人の認識をずらしているのではないかという結論に至った。普通に考えて有り得ない事態だが、そもそも何度も前を通ったのに姿を見ていないことこそ有り得ない。そこにいたのが事実なら、姉がいるという認識ができなかったと考えるしかない。


「……いつだったか、執事がお姉様の後をつける無謀を働きましたね」

「気づかれてたからこそ、最後までつけられたんだろうけど」

「ですが細工するほどの時間も置かずカメラを回収したのに、辿ったすべてのルートでお姉様だけが映ってませんでした」

「お前みたいに変装したところで、必ず姿は映るのにね。本気でどうやってるのか、聞き出しておくんだった」


 どうやって辿れば見つけられるのかと舌打ちしている兄に、あの映像はまだ残ってましたかと問えば当然のように頷かれる。やはり姉に関する物は、すべて処分することなくどこかで管理しているらしい。家庭内ストーカーって怖いといつぞや身体を震わせた姉に激しく同意するが、今回は役に立ちそうだ。


 やり方は分からないが、認識を阻害するだけなら映像には残っているはずだ。姉の姿には見えずとも、必ず映っているはずの映像で見つける練習をできるなら、家族が手に入れたここしばらくのすべての映像から見つけ出すことも可能だろう。


(見つけたら、どうやってるのか今度こそ聞き出さなくては)


 考えながら、レシタはふふと愛らしく笑った。企み事は可愛らしくねと、無茶な言葉を今なお頑なに守っている。姉にとってはただの気紛れで、とっくに忘れているだろう言葉でもレシタにとっては何よりの指標だから。


 報告を済ませればいつもはさっさと踵を返すウズハはまだそこにいて、じっとレシタを見下ろしている。いくらか心配そうなのは、多分に兄の意思でではないだろう。弟妹には優しく! と耳を引っ張りながら何度も小言を呈した姉の姿ならよく見かけた、家族を含めて他人にあまり興味のないこの兄にとっても姉の言いつけだけは絶対だからこその、気遣い。具体的にどうすればいいのか、未だによく分かっていないからそっと手を取ったり、見守るしかできない。


 不器用ながら姉に従って弟妹たちに気を使おうとする兄に、おんなじだとそっと呟く。


(お姉様は、知らなくては。私たちが、どれだけ大事に思っているか)


 もはや過去形ではない。現在進行であることが嬉しくて、堪え切れずに笑う。ウズハはその様子を見て僅かに眉を上げ、どこか期待したように見下ろしてくる。


 人の思考を辿るのは、元よりレシタの得意とするところだ。相手が姉であれば、見ず知らずの誰かを辿るよりはなぞりやすい。死んだと思って封印していたけれど、今もいると確信できたならすべての記憶を掘り起こせばいい。あの頃から本質が変わっていないなら、姉の取りそうな行動を幾つか想像するくらいはできる。手に入れた映像から、どこに重点を置いて探せばいいか脳内で即座にリストアップしていく。


 隠れん坊なら姉に分があるとしても、鬼ごっこならばどうか。まさか種目が変わったと知らない鬼を全員で追い詰めるならば、少しは隙も衝けるはず。


「降参するのは、もう少し先にします。さあ、鬼をとっ捕まえましょう」


 十六年前に強制的に中断させられた遊びの続き、鬼が戻ったなら再開の合図だろう。


 獲物に気づかれないように罠を張れ。蜘蛛が密やかに糸をかけるように、気づかれないように慎重に。

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