交渉成立
将軍が旅券の買い取りに乗り気になったのを見た奏が、心中でかかったとガッツポーズをしたのは言うまでもない。カヤ・ウェインスフォードの総貯蓄額など、はっきり言って自分でも認識していない。最後まで実家暮らしで、欲しい物は自分で買うまでもなく用意された。結果、仕事の報酬はほとんどそのまま銀行に預けていた。死んでから預ける金額こそ増えていないが、利息は地道に積み上げられているはず。元の金額が桁違いなので、ある程度なら元金を切り崩すことなく旅券に注ぎ込める。
(まあ、そんな法外な金額を支払う気はないけど)
カヤより以前、秀真の天領で暮らしていた頃とさほど物価は変わっていないはず。一般人の俸禄は、月で二両いくかいかないかだった。世界共通貨幣であるギルに換算すれば、二両で二十万ギル。旅券の手数料としては法外すぎて暴れたくなるが、百倍を吹っ掛けられたところで楽に払えるなんて前世でせっせと働いた甲斐もあるというものだろう。
(金額はさておき、問題は日数か。──仮旅券発行を条件に、五日も分捕れたら優秀かな)
落としどころはそれにしようと決め、改めて大分離れた前方で面白そうにこちらを見ている行忠を見据える。
生粋の秀真人らしく、黒髪黒目。細目の一重も特徴の一つだろう。全体的に理人より細い印象だが、それでもある程度は戦えるのが見て取れる。とはいえ元暗殺者の立場から言わせてもらえれば、ウェインスフォードの後継たる末妹を含む双子と変わらない。勿論死ぬ前のデータだから、今頃は彼女たちもとっくにカヤの実力さえ抜いただろうが。
(ヴィシュムに渡ったら、姿を見るのは無理でも噂くらいは聞くかなー)
さすがにこの状態で、のこのこと元家族に会いに行く気はない。転生だの生まれ変わりだの、彼らが最も信じないと知っている。変な懐かしさで気安く話しかけ、拷問から嬲り殺しコースなんて考えただけでぞっとしない。
(っと、話が逸れた。違う違う、今はこの業突く張りから如何に好条件を引き出すかが重要)
始まりが天領だったからか、秀真の将軍に対して元より好印象はない。さすがにあの頃は先代か先々代だろうが、どれだけ代替わりしようと将軍は帝の威を借る狐、だ。正に狐を思わせるような行忠の面相に吹き出さないように注意して、待たれている条件を口にする。
「三月頂けましたなら、……三両。ご用意致します」
「其方、頭が悪いのか」
告げるなり無礼極まりない発言に、奏より理人のほうが殺気を漂わせている。忠犬か。の突っ込みは心に留め、自分の浅はかさを露呈してくる将軍を見つめ返す。何を言われているのか分かりませんと二度ほど大きく瞬きをすると、行忠は心底呆れたように溜め息をついて頭を振る。
「そんな金額で、一体何ができるという」
「一般人であれば一月は悠に食べていける金額で何ができる、と仰せになられましても」
普通の暮らしに余裕ができますが、と分からなさそうに首を傾げて返すとさすがに行忠も一瞬鼻白んだ。それだけの金額を端金と言ってしまえばどれだけ民を軽んじているのかと責められる、とはいえ行忠にとっては正に一日と経たずに使い切る金額だろう。
かまととぶってこのまま金額を低く抑えてもいいのだが、それだと奏の目的は果たせなくなる可能性が高い。機嫌を損ねて二度と発券しないと言われては目も当てられない、と反対に首を傾げてみせた。
「私の知識はどうしても城外が基本となっておりますので、見当違いな金額を申し上げたのならお詫び申し上げます。このような場合、相応しい金額基準などあるのでしょうか」
「はっ、これだから世間知らずの小娘は! 雲上人たる将軍が、」
「恐れながら、雲上人と称されるべきは天領におわすかと存じます」
こちらにはあられないのですよね? と、喜色満面に愚弄しようとした近侍の一人にひたりと視線を据えて遮ると、はくはくと声もなく口を動かすしかないその一人に、周りが馬鹿めと小さく吐き捨てている。まったく懲りもせず同じ轍を踏むものだと感心はするが、引くべき一線を譲る気はない。
むすりとした顔で黙っている将軍をちらりと横目で窺い、別の近侍が軽く咳払いをして同僚の後を継ぐ。
「仮にも雪代の娘ともあろう其方が、一般人の俸禄を基準にするも如何なものか。雪代ともなれば月に二十、いや三十両は得ていよう。それを三月とするなら切りよく百、と言っても差し支えないのでは?」
如何ですかと将軍にちらちらと目線を送ってアピールしている近侍に、奏は阿呆なんですねぇとそっと息を吐いた。
「世間知らずは先ほど露呈した通り、屋敷から出る機会は静寂家に呼ばれた以外にございません。話だけならば下働きから得られましょうが手に職があるでなし、常識的に考えて一度も働きに出たことのない小娘がどうやってその金額を得られるとお思いですか」
そんな職があるのなら是非ご紹介くださいとにこりと笑いかけながら、視線で軽く後ろの理人に注意を向けるのも忘れない。将軍の近侍であろうと御三家の一たる理人のほうが断然立場は上だ、まさか目の前で婚約者に春を鬻げなどと言い出すなよと釘をさす意図は無事に伝わったのだろう。一気に青褪めて急いで目を逸らしている、自分の愚かを痛感するのはいいことだ。
行忠は役に立たない近侍たちを一瞥して失望したように溜め息をつき、脇息に肘を突いた態勢で随分と興覚めした様相を呈している。
「そんな働きに出たこともない小娘──其方の言をなぞったまでだ、悪意はないぞ。それが、三月で三両さえ難しいのではないか」
どちらにしろ大した金額にもなりそうにないと投げ遣りになっている行忠の言に、奏は容易く踊ってくれてありがとうと歓声さえ上げたい気分で軽く頬に手を当てた。
「秀真では左様に存じます。ですが彼のヴィシュムであれば、不可能ではないと耳にしました。物知らずのご指摘を受けたことですので、三両と言わず……三月で五十両。それをお約束致しましたら、ご許可頂けますでしょうか」
跳ね上げた金額と、ヴィシュムで稼ぐの発言は思ったまま行忠の琴線に触れたらしい。ははっと声にして笑った行忠は脇息を邪魔そうに押し退けて座り直すと、目を輝かせている。
「其方、ヴィシュムで何をする気だ」
「とりあえず一獲千金を狙うなら、賭け事が手っ取り早いかと存じます」
「賭場なら秀真にもあろうが?」
「ご指摘を受けました通り、仮にも雪代の娘が賭場に出入りするは支障がございましょう。ご迷惑をおかけする範囲が実家に留まらない以上、控えるべきかと愚考した次第です」
第一、秀真の賭け事は主に賽子だ。仕掛けのないものに摩り替えたところで、ツボ振りの腕がよければ出目は自在に操れる。親であればぼろ儲けする自信はあるが、客として赴くには不利すぎる。却下だ。
(ていうか、そもそもギャンブルの類は何にしろ自分が運営する以外に勝ち目はないし)
運に全財産を賭けるほど、とち狂いたくはない。こう見えて奏は、堅実な元暗殺者なのだ。
そんな矛盾した表現を、とばかりに後ろから理人の視線が突き刺さる気はするが、気のせいだ。人の顔色を読む無礼な後見人の野暮な突っ込みなどより、交渉相手の反応のほうが大事に決まっている。
が、こちらも凡その予想通り、今にもげらげらと笑い出さんばかりに面白がっている。何より理人の渋面が楽しくて仕方ないのだと思うが、この厄介な性質の人間に愛されてるのは理人の性であって奏に何らの責任もない。精々うまく利用するだけだ。
「其方は本気で世間知らずよな、賭博でそれだけ稼げると本気で考えておるのか」
「人生は何事も、やってみなければ分かりません。殊に今の私は挑戦しなければ何も変わらないのですから、まずは動き出さねば」
後は許可を貰うのみですと挑戦的に見据えると、行忠は底意地の悪い笑みを浮かべる。またぞろ言い出しそうなことに見当はつくが、これが将軍でいいのか本当に。と秀真の民なら問い詰めたい。
(今のところ、私もその内に含められるわけですが。そこから逃げるためにも頑張るよー)
誰にともなく決意表明をしている間にも、行忠は指先でとんとんと自分の膝を叩きながら言葉を探して口を開く。
「其方の情熱は評価する。幼いが故の暴走もあろうが、一理はあるからな。だが、其方はそもそも旅券を持っていない。それを得るための金を用意するには、他国に渡らねばならん。この矛盾をどうする気か」
「ですからご相談申し上げているのではありませんか。三月ほどなら仮旅券で外に出られましょう?」
「は。儂にそれを用意せよと言うか」
「できる方が他にいらっしゃるならご紹介ください、そちらを当たります」
別に交渉相手は行忠でなくてもいいのだと言外に言い放つと、ふんと小さく鼻を鳴らされる。
「儂以外に旅券発行の裁量を持つ者がおるか」
「だからこそ私も今ここにいるわけですしね」
こちらはもう条件を出したと肩を竦めると、行忠は口を曲げるようにして自分の膝に肘を突いた。
「仮旅券は正式なそれと違い、発行されても後見人が共になければ国を出られん。其方の場合は理人だが、まさか三月も国を出ることなど認められん」
故に却下だとはっきり口にされる前に、奏は理人を振り返った。殺気立った様子で行忠を睨んでいた理人は目が合う前にぱっと表情を戻し、話しかけられるのを待っている。忠犬か。の突っ込みは、そろそろ自分でも飽きてきた。
とりあえず今は交渉が優先と自分に言い聞かせ、期待されているまま問いかける。
「理人様、恐れながらお伺い致します。今年に入って幾日ほどお休みを取られましたか」
「そろそろ皐月だけど、十日にも満たないね。途中で呼び出されることが多かったから。規定にある休みの基準は年に百日ほど、俺は側付きとして勤めてからずっと月に二日ほどの休みが精々だ。それを鑑みれば、今から俺が半年ほど外遊したって誰かに責められる覚えはないかな」
半年に比べれば三月なんて安い物ですよねと言下に責める理人に、行忠は不愉快そうに鼻の頭に皺を寄せた。
「三月も国を空ける側付きがどこにおるっ」
「では、そもそもさほどの金額もかからない旅券なのですから素直に発行してくださればどうなのですか。奏嬢が仮旅券をと言い出したのは、旅券が発行されないための代替え手段でしょう」
「本人から言い出した条件に、後から口を挟んでくるな!」
「言ってよければその時点で反論したかったのを堪えた結果がこれですが? 一般的に見て、三月で三両でさえ旅券の金額としては法外です。それを五十両にもして差し出すには奏嬢の言う手段くらいしか取れないでしょうが、後見として婚約者として見逃せない事態です。私が付き添うのは大前提として、承知できないとの仰せであれば即座に旅券発行を」
頑として譲らない理人の様子に、行忠はぎりぎりと歯を噛み締めている。このまま旅券が手に入るなら黙っていてもいいのだが、そうはならないだろうなと予測して恐れながらと口を開く。
「理人様がご心配くださるのも、側付きとして国を空ける期間云々も当然のことと存じます。とはいえ私としても、その金額を用意するに期間の妥協はできません。そこで、二月で二十両として頂くのでは如何でしょうか」
「っ、三月が二月でも認められるわけがなかろう! 理人以外の供で、」
「認めません」
私の同行は前提だと申し上げましたとひやりとした声で先に理人が釘を刺し、行忠は脇息を薙ぎ払うようにして片膝立ちになる。それを合図に近侍たちも一斉にいつでも剣を抜ける態勢を取るが、誰もがどこか腰を引かせている。
(まあ、実力差は明らかだからね)
部屋の中にはないが薄らと影の気配もある、ただその全員が一度に飛び掛かったところで理人は一人で切り抜けられるほど地力が違う。仮に奏が人質に取られたところで、悠に対処できるだろう。
(尤も素直に捕らわれるほどの可愛げもないわけですが)
たまにはきゃあきゃあと馬鹿みたいに騒ぐだけの役立たずにもなってみたいと芝居がかって考えるが、役立たずと自分で思っている時点で無理だろう。そもそも害意を向けられて対処しないなんて、叩き込まれた暗殺者精神に反しすぎる。
とはいえここで世間知らずのお嬢さんという仮面を脱ぐ気はまだない、嗅ぎ慣れはしたが気持ちのいい物でもない血臭を懐かしむ趣味もないなら止めるしかないのだろう。
「交渉は決裂、という認識でよろしいのですか」
それならば私は先に失礼致しますがと呆れを滲ませて口を挟むと、行忠はまだしばらく理人を睨んでいたが、ふんと鼻を鳴らして座り直した。近侍たちもようやくほっとしたように構えを解いたが、理人だけは表情も緩めず行忠を見据えている。
「三日で五十両、それ以外は譲れん」
「お戯れを。往復を考えて一日で五十両など、あまりに無謀と御存知でしょう。十両であれば一月で」
「っ、五日で五十両だ」
「二十五日」
「七日!」
「二十三日で八両」
「~~っ、もう五十を上乗せするなら十日を売ってやる。十日で百両、できぬのならこの話はなしだ!!」
投げ遣りがちに吐き捨てられ、奏は言葉を切った。
初めの三両から、どこまで値を吊り上げるのか。常識的に考えれば百両──つまり一千万ギルなど十日で稼げるはずがない。ぼったくりにも程があるが、自分の遺産がある身としては用意できる範疇で楽に勝てる案件だ。もはや面白がる気配の消えた行忠を見れば、この辺で折れておくべきかと長く息を吐く。
「では、十日で百両。但し、渡航費用と滞在費は先にお渡しください。負けが込んで帰れぬことになっても困りましょう」
「どうせ理人が一緒に行くのならば、理人に出させればよかろう」
「それを是とできるならば、最初から理人様にお金をお借りして旅券を取ればいいという話になるではありませんか。できない、したくないからこその無謀な賭けに出るのです。負けたからお借りするなど、みっともない真似はできません」
先払いの一両と血判の契約書で成立をと迫ると、行忠は酷薄に目を細めた。
「十日で百一両、であろう」
「──左様でございました。十日で百一両、先に一両をお借りして仮旅券として理人様と同行。理人様の都合で出発が遅れるようでも、実際に出国した日を始まりとして十日。戻った足で謁見が叶わずとも、入国した日をして十日目として頂く旨を明記ください」
「ふん、抜け目のないことよな」
可愛げのないとばかりに吐き捨てられてにこりと笑い返すと、行忠はそっと元の位置に戻された脇息に再び肘を突いた。
「十日も側付きを貸し出してやるのだ、それで百両を揃えられなかった時は如何する気か」
「どうも何も、望む旅券を手に入れられないのは私にとって十分な罰則ですが」
「はっ、知ったことか。旅券を手に入れられずとも、一度でも国を出て見聞を広めることはできようが。其方の無駄足に付き合わされるのだぞ、百両を保証しろとは言わんが代わりに何を差し出す」
またぞろ無茶を言い出した行忠に、理人に熨斗でもつけて差し出しましょうかと喉まで出かかる。けれど後で理人にまた怖い笑顔で詰め寄られるのも馬鹿馬鹿しいし、何より元から儂の物だと胸を張られても気持ち悪い。しかし他に何を望むのかと顎先に手を当てて考えたところで、知りたくないの本音で見当もつかない。
「申し訳ありませんが、ご満足頂けそうな物を差し出せそうにございません。私が何か為すことで、お心に副うことはできますか」
「っ、奏嬢!」
批難がましく理人が名を呼んできたが、手で制した行忠がようやく我が意を得たりとばかりに笑む。碌なことを言い出さない見当はついたが、断る権利はまだこちらにある。聞くだけ聞いてやろうの寛大で言葉を待つと、行忠は奏よりも理人に目を向けて口を開いた。
「理人との婚約を解消しろ。奴には儂がより相応しい相手を宛がってやるから、安心するがいい」
含み笑いで言われるそれに、安心材料など見当たらない。婚約解消とは、後見からも退かれることを意味する。失敗して帰れば家も金も取り上げるという宣言に他ならない、ちょっとリスクが大きすぎませんかと激昂していいところだとは思う。思うが、そうしたところで意味はないので、さてこれをどう修正するかと考え込む。
「理人様との婚約を解消して、挙句旅券も手に入らない。私の将来に光明が見出せないことに関しては、如何お考えですか」
「なに、其方にも儂が別の相手を見繕ってやろう。旅券などなくても不自由ない生活は保障してやる」
「ではこれは、私ではなく理人様に対する罰則ですね」
「……さて。これこそが理人の望みとは思わんのか」
儂が意を汲んでやっただけやもしれぬだろうと、にたりと笑う顔を見ただけで違うと断言できる。少しは自分の表情も操ったほうがいいよと心中に突っ込み、あまり見たくない理人の様子を窺えばこちらはすとんと表情が抜け落ちている。
笑って詰め寄ってくるのも怖いが、実際に怒りが頂点まで達すると無表情になるらしい。ひたひたと殺意だけが湛えられている、どうしてこれに気づかないのかと周りの鈍感を羨ましく恨めしく考える。
とりあえず邸に戻ってどんな目に遭うか分からない事態を回避しつつ、交渉を進めるのが先だろう。
「恐れながらその場合、理様人は私に対してたった一言、解消すると仰せになられれば済む話です。こんな風に将軍まで巻き込んだ、回りくどい方法を取られる意味がございません。故にこれは理人様が望まれたことではなく、私の後見として巻き込まれたが故の罰則──と見せた、将軍のお心遣いかと愚考します」
あまり行忠を悪者にするのもよくなかろうと持ち上げてみせると、思いがけないことを聞いたとばかりに眉を上げた行忠はけれど視線で先を促す。
「理人様には返しきれない御恩しかない身でありながら、私が我儘を申し上げたばかりに上司の不快を買うことになってはと心苦しく思っていたところです。後見を外すことで関係を絶たせ、すべてを不問にするとの温情にございましょう。ご厚情に心より感謝して、失敗した際の婚約解消は慎んでお受け致します。とはいえそれは理人様の本意ではなく、対外的には罰則に変わりございません。成功した際に何らかの褒章がなければ、不公平ではございませんか?」
どうせ払う予定のない褒章なら気前よく約束くらいすればいいのに、と軽く頬に手を当てて首を傾げてみせると行忠も心が揺れたらしい。理人はすかさず尻馬に乗り、軽く身を乗り出させた。
「それでは、奏嬢が成功した暁には行忠様の署名と印璽だけが入った白紙の命令書を頂きたく存じます。一度だけ、行忠様のご命令に歯向かえる確かな証を」
百両が揃った時にのみ有効な約束ですと重ねた理人は、ちらりと心配そうな目を奏に向けて行忠を見据える。成功するとは信じていない、それでも我を通す婚約者の顔を立ててほしいと懇願するような態度に、行忠は満足そうな笑みを広げた。
物臭で知られた理人がここまで入れ込んでいる婚約者を取り上げる、それは行忠にとって実に楽しい想像なのだろう。
(分かりやすいから別にいいんだけど、自分の性癖のせいで私に付け込まれてるって分かってないんだろうなぁ……)
本来なら、旅券の発行はしないと断言されて終わるはずだった。交渉の余地が生じたのは、理人に嫌がらせをしたい行忠の隙を衝いたからだ。負ける気がないために鷹揚に構えているのだろうが、気づきもしていないことに軽い憐れみを覚える。
(秀真の民を思うなら、即座にリコールすればいいのに……)
家に依頼したら軽く始末してあげたよとうっかり前世に引きずられて考え、いかんいかんと気を引き締める。
今の彼女は、雪代奏。世間知らずで無謀な賭けに身を投じ、後見も婚約者も失って打ちひしがれ。自分の祖父ほど年の離れた男の後家となって人生を無駄に過ごす予定の、憐れな少女だ。ここを出るまでは、全力で演じなくては。
高慢で傲岸な将軍は、何れ思い知るだろう。この馬鹿げた謁見のせいで、最もお気に入りの臣下を失った事実を。
自分の愚かは、自分に返る。痛感した、この先は肝に銘じる。