賽は投げられた
理人が登城した後、声をかけに来た相模の後ろには見慣れた彼女の側仕えが侍っていた。静寂に呼ばれるとすぐに理人が人払いをするので、最近は相模と過ごす時間が長いらしい。面白がって印象を聞いてみれば、主馬鹿のいい方ですねと柔らかな笑顔で宣われた。側仕えがいい性格だというべきか、範疇外の相模を嘆いてやるべきか……。
ともあれお互いに印象を確認し合ったこともないらしく穏やかな関係を築いているらしいので、この秘密は墓まで持っていこうと思う。
「お待たせ致しました」
車の用意が整いましたと相模に促され、この三年で慣らされたとはいえ慣れたくないと拒否反応を覚える言葉に知らず遠い目をする。
理人のように武家の当主の移動手段と言えば騎馬だが、女性の場合は車になる。最初に住んでいた頃は牛車が普通だったが、今は牛ではなく人が曳く。乗り心地は悪くない、ヴィシュムで乗っていた馬車よりよほど内装が凝られていて座り心地もいい。側仕えと二人で乗ってもまだ余裕のある広さだが、問題はそこではない。
(静寂と雪代は主従に当たるから、当然屋敷の距離も近いわけですよ。歩いて四半刻もかからないよ、近重の足に合わせても!)
側仕えの近重は、秀真を出たこともなく奏に仕えるのが仕事という普通の女性だ。秀真以外の人間からすれば動き難そうな裾の長い着物を纏い、静々と歩く。その速度で四半刻以下。奏が普通に歩けばその四分の一もかからない、地図にすれば通りを挟んだ二軒先くらいのものだ。
(無駄に広いけどね、御三家クラスのお屋敷は。四方一辺どれだけあるんだよって長さだけどね。一応重臣扱いされてる雪代も、そこそこ広いけども。正直塀を伝って走ったら、三回飛んだら到着するのに……っ)
ヴィシュムにあった頃のような軽装ではなくとも、塀から塀に飛ぶくらい容易い。馬や車が悠に行き交える広さの道幅だが、落ちるような無様は晒さない程度の距離だ。秀真ではまさか塀に上ろうとした時点で正気を疑われるのは知っているからやらない、やらないけれど。その歩ける距離を、わざわざ車を使って大移動する必要性を感じない。心の底から感じない。
無駄こそ権力の証と言われれば、そうかと理解はする。けれどそんなものをひけらかすのは美しくないと、声を大にして言いたい。
(言わないけどね。雪代ってだけでも大概なのに、御三家の婚約者が体面を気にしないと理人さんに迷惑だから)
いっそ理人は、好きにしていいよと笑う気はする。誰かが陰口を叩いたなら無言のまま切り捨ててでも好きにさせてくれそうだが、そんな恐怖政治は望んでいない。車に乗る程度で誰かの命が救えるならいいじゃない、と自分に言い聞かせる。
「お心遣いに感謝致します」
なるべく変わらない声で答えているつもりだが、相模がちらりと苦笑するのもいつもの話だ。体面を取り繕うのなら声や表情も、と言いたいのだろうが、断固とした拒否をしないようになった奏に相模も妥協してくれている。今日も特には何も言われず、こちらへと促されるので後ろをついていく。奏が通り過ぎるまで待っていた近重は、目が合うとどこか楽しそうにふふと笑う。
『今日も車ですね』
声はなく唇だけでそう笑った近重に、まったくだよと肩を竦める。近重はその反応に嬉しそうに笑みを深めるが、相模に見咎められる前にすっと後ろに控える。奏には勿体ないくらい、できた側仕えだ。
(近重を歩かせるのも申し訳ないから、乗るけども。人一人抱えて飛ぶくらいできる、ってちょっと主張したい)
ヴィシュムにいた頃、年の離れた幼い弟妹を三人纏めて抱えて双子の弟から逃げ回ったこともある。足跡が残らないよう枝伝いに飛び、庭中を移動し続けること半日。三人を抱いたままのハンデ付きで逃げ切ったのは、結構な自慢だ。
もう誰にも言えないけれど。
(そもそもあの子たちは小さかったし、遊び感覚だったから楽しんでくれたみたいだけど。さすがに十六にもなったお嬢さんは、女に抱えられて飛び回るのを楽しんでくれるとは思えない)
せめて奏が御目麗しい野郎だったら、無茶をしても許容される範囲が広かったかもしれない。しかし、現実は厳しい。奏は自分でもつくづく思うほど平凡な見た目の女だ。男だったらあったかもしれないチャンスも持ち合わせないなら、大人しく令嬢ぶっておくのが無難だろう。
慣れた様子で案内してくれる相模の後ろを近重を真似て静々と歩き、跪いてぴくりとも動かない下働きに声をかけることも許されず黙々と車に乗り込む。ヴィシュムでの生活習慣が違い過ぎて、時々大声を出したくなっているのは内緒だ。
とにかく車に乗れば僅かの時間だが、ほっと息をつくことはできる。車の中は密室になるので近重しかいない、多少態度が崩れても見逃してくれることだけが有り難い。
「あーもー他人様に傅かれるほど偉い存在になった覚えはないー」
「奏様が慈悲深くいらっしゃるのは存じておりますが、静寂家の御婚約者でもあられる奏様以上に尊いお嬢様はいらっしゃいませんのでご容赦くださいませ」
にこにこと笑顔で宥めてくる近重の発言に、はは、と乾いた声で笑うしかない。
(慈悲深い元暗殺者……。いないわー)
ないわーと心中に反論するが、さすがに声にできるところではない。聞かなかった顔をするのが精々だが、近重は気にした様子もなくにこりと笑顔で話題まで変えてくれる。
「そういえば、静寂様とのお話し合いは今度こそ上手くいかれましたか」
何を話しているのか詳細は知らずとも、今回も駄目だったーと嘆く奏を見てきた近重がそう尋ねてくるのも何度目だろうか。今日も駄目だったと憤慨するのを予定しての尋ねだったようだが、それねと呟いた奏の様子でくっと顎を引いた。柔らかな笑顔が消えて真面目な顔になる側付きを見て、奏は近重の優秀さを思い知る。
けれど詳しく話すには、車の移動距離は短い。順調に揺れていた振動が、かくんと小さな衝撃で止まる。
「奏様、雪代邸に着きました」
外からかけられる相模の声に、近重が慣れた動作で車箱の乗降口に掛けられている簾を上げ、先に降りて踏み台を用意してくれる。準備を整えて差し伸べられた近重の手を借りて降りた奏は、曳き手を労ってから無礼にならないよう下馬してそこに控えている相模に視線を変える。
「随身、ありがとう存じます」
「主命ですので。では、私はこれにて失礼致します」
お気をつけてと相模と車を見送った奏は、静寂からの先触れで迎えに揃っている家人を尻目にさっさと離れに向かう。
静寂家で裳着を行った後、母屋にも部屋を与えられた。けれど住み慣れた場所から離れたくないの我儘を通し、離れのあった場所に新たに建てられた家屋で今も暮らしている。外聞が悪いと雪代藤間は嫌な顔をしたが、知ったことではない。
出迎えに並んでいた家人たちは、奏が通り過ぎるとほっとしたようにさっさと仕事に戻っていく。奏について西端まで足を向けるのは近重だけ、理人が知れば激怒しそうだがこれが雪代における奏の扱いだ。
(分かりやすくていいけどね。近重以外に気を使う必要もないのは楽だし)
雪代が奏を必要としないように、奏も近重以外の雪代関係者を必要とはしていない。理人が取り潰そうかと発言するのを止めるのは静寂の評判に関わると思えばこそで、雪代が取り潰しになることに関しては何の問題も不便もない。
(でも近重は、できれば助けたいんだけど……)
三年前、奏が生きていると雪代家に広まった時、真っ先に駆けつけたのは近重の母である乳母だった。当然ながら彼女も奏が死んだと思っていたらしく、姫様を偽るとは何事かとすごい剣幕で乗り込んできたのだが。一年だけ通ってくれたあの離れで、いつもの部屋で、来客に対応すべく庭を向いて座していた奏を見るなり乳母は大きく目を瞠って泣き崩れた。
姫様と悲鳴めいた声は、安堵が一割、恐怖が三割、後は後悔に満ちて震えていた。御無事でと申し訳ございませんだけをひたすら繰り返し打ち崩れたまま号泣する乳母を、一緒に来ていた近重は必死に宥めていた。碌なご挨拶もできていませんがと恐縮しながら乳母を連れて下がったのを、言葉もかけられないまま見送ったのが初対面。
次に近重と会ったのは五日後、乳母の訃報を知らされた時だった。こちらから死因を尋ねるまでもなく、自死いたしましたと淡々と報告する近重に、奏は冥福を祈ることしかできなかった。
(死んだ人間に謝罪しながら生きるのは何とかできても、見殺しにした赤子が生きてそこにいるって事実は重すぎたか……)
奏に乳母を責める気はなかったけれど、乳母は奏が生きているというだけで罪悪感に苛まれたらしい。
目が合ってすぐに偽物ではないと断言できるほど、乳母は確かに奏を覚えてくれていた。御無事でと喜んでくれたのも決して嘘ではないだろう、ただ謝罪ばかりで泣き崩れていたあれが大きく心を占めて苛んだ感情だった。
(いっそ自分の情けで生き延びられたんだって増長してくれたら、適当に報いてあしらってできたのに……)
乳母は、どこまでも普通の人だったということだろう──奏とは、違う。
「……奏様」
そっと後ろから近重に声をかけられ、はっと目を開けると無意識のまま足を進めていたらしくとっくに離れに戻っていた。縁側に続く階の前でぼんやり立ち尽くしていたようで、近重が戸惑うはずだと苦笑する。
「ごめん、考え事してた」
「いえ。私はお茶を用意致しますので、どうぞお部屋でお寛ぎください」
近重に勧められたまま階を上がりながら、離れに備え付けられた手狭な厨に向かう近重を視線で見送る。母の敵と恨まれてもおかしくないはずなのに、甲斐甲斐しく尽くしてくれる近重を見ると心が痛い。
「側付きを辞めさせても、私以外の雪代に仕えたんじゃ意味ないしなぁ……」
近重の父親は、当然ながら雪代に仕えている。親元に帰るにしろ、また誰かの側付きを希望するにしろ、嫁ぐにしろ、雪代から遠く離れられるとは思えない。万全の守りを与えられるという意味で静寂に引き取ってもらうのが理想だが、奏嬢の側付きとして一緒に連れてきたらいいよと笑う理人は近重だけを引き取ってくれる気はなさそうだ。
(野生のままだからか、小賢しい知恵をつけちゃって……)
カヤに恩義を感じているなら、素直に引き取ってくれればいいものを。近重を預けられれば最後、安心して秀真を出て行きそうな奏を警戒しているらしい。
「まぁ、正解だけどね」
正直なところ、慣れたヴィシュムで気儘に暮らす予定だった奏は秀真に心を置く気なんかなかった。妙な縁で理人とは深く関わることになったが、こちらに関しては特に心配していない。将軍に物申せる立場もあれば、武力としても秀真で彼に敵う者はなかなかないだろう。多少迷惑をかけることになったとしても、本人の力で乗り切れると思えば気も楽だ。
だが、近重は違う。よく気がつくし側付きとしては手放し難い優秀さだが、雪代家臣の中でも家格は低いほうだ。しかも跡取りの兄がいて父とは不仲、母が自死したせいでその実家の後ろ盾もない。護身術に長けているわけでもなく、奏が手を離せば本当に吹いて飛ぶくらいの立場しかない。
(どうする、あの子に引き取ってもらえなかったら後は殺すしかないじゃないー!)
発想が物騒だと自分でも思う、けれど奏が秀真を正規の手段以外で出ることになった時、真っ先に問い詰められるのは静寂と近重だ。特に近重は同性の側付きだから、知らない情報はないとばかりに詮議されるのは想像に難くない。
(全部私のせいだけど、喧嘩を売るとなったら自重する気はないし、そうすると何があっても捕まえようとされるよね。その分だけ取り調べがえげつなくなるだろうし、そうでなくても後ろ盾のない綺麗なお嬢さんはどんな目に遭わされることか……っ)
何なら襲われる前に、殺して逃げればいいよと勧めたい。そのための道具が必要なら、出奔を決行するまでに整えていくのも可能だ。ただ普通の人間は、なかなか人殺しに向いた精神構造をしていない。悲しいかなカヤは思った以上に順応してしまったが、大体の場合は前後の拒絶反応が凄まじい。自分の身を守るためとしてどうにか一人は殺せたとしても、そこで壊れてしまっては身も蓋もない。反対に、殺す喜びに目覚められても複雑だ。
(どっちにしろ前途あるお嬢さんの未来を潰すなら、今のまま殺すほうが親切なような……)
どうしよう、思考が殺すところにしか辿りつかない。快楽主義の弟たちとは違って極力避けてきたはずなのに、最も大事な存在を守るための選択肢に殺害が挙げられるのは如何なものか。
事ここに至るまでに相模の嫁として差し出すべきだったかと唸っていると、奏様? と窺うように声をかけられてはっとした。お茶を淹れて戻ってきた近重が心配そうに覗き込んでいるのを見て、思考に耽って気配を探るのを忘れていた自分の迂闊を反省する。
「難しいお顔ですが、何かお困りのことでも?」
「ん。ちょっとね」
近重の行く末に悩んでいたとは言い出せず、曖昧に笑う。近重は少し首を傾げ、私ではお役に立てませんかと運んできたお茶を差し出しながらそっと尋ねてくる。
湯呑みを取り上げながら、奏は斜め前で控える近重を改めてじっと見つめる。秀真の特徴である黒髪に黒い瞳、常に困っているようにも見える下がり眉だが、左目の下の泣き黒子が色っぽい美人さんだ。少し家格が釣り合わずとも嫁にと望む相手は多い、奏に関わることがなければ幸せに暮らしていけただろう。
黙って殺してしまうには申し訳ないほど、この三年、真摯に仕えてくれた。最悪しか並べられないが、せめて選択肢は提示すべきだろうか。
「近重はこの先、どう考えてる?」
「どう……? 奏様にお仕えする以外に、ということですか」
ひょっとして解任されるのかと不安そうに聞き返してくる近重に、少し考えて口を開く。
「まだ少し先の話だけど。私についてくるか、私に殺されるか、どっちがいい?」
我ながら唐突な問いかけに、近重は僅かに目を瞠った。
仮にこれで怯えて逃げてくれるなら、それでもいい。近重が完全に奏と切れたと思われる時間を待って行動に移すくらい、今までの献身を思えば安いものだ。他人に選択を委ねるのは性に合わないけれど、自分で切り捨てるには躊躇うのだからしょうがない。
賽は投げられた。後は結果を御覧じろ。