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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第一章 東方の星
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悪い予感

 岡島は答えて言った。


「海外産のチープなピアノの値段……それは丁度デパートで売っている高級ブランドの衣類やアクセサリー類の値段と同じくらいですね」

「その通り。つまりこんな買い方が見込めるんだ。高級ブランド品をデパートに買いに来たが、気に入った物がなかった。ふと楽器屋の横を通るとその浮いた金で買えそうなピアノがある。そうだ、我が子にピアノでも買ってあげようかな……と。こうやって日本のピアノ業界は今迄になかった客層を発掘しているのだよ」

「しかし、粗悪品を摑まされたら大変ですよ。木材もろくに乾燥もしていないから部品が動かなくなるなんてザラだと聞きますし、響板にベニヤ板を使ってるものは剥離すると強烈な雑音を発するそうじゃないですか」

「最近はそこまで酷いモノはそうそう出回ってはいない。それにそのレベルの経年劣化が生じる前にほとんどの子供はピアノをやめてしまう。だが続けるような人は結局ちゃんとしたものに買い換えるんだ。つまりそうやって新たな市場が開拓出来るんだよ」

「結局のところ、安かろう悪かろうじゃないですか。いずれ頭打ちになりますよ」

「メイド・イン・ジャパンだって戦後間もない頃はそうだったんだぞ。それが今やハイ・クォリティーの代名詞ですらある」

「日本の企業が品質改善に向けて努力したからでしょう」


 野原はまたもや呆れ顔になって言った。


「わかってないな、先生。価格を下げずに日本の大企業が品質を向上出来たのは、下っ端の従業員や下請け工場、物流に相当無茶な要求を突き付けてきたからだぞ。それで潰れてしまっても知らんぷり、また新しい人や下請け先を探してくれば良い。そうやって大企業はさも自分たちが頑張りましたって顔をしてるってわけさ」

「あなた方中国企業も同じ道を行くわけですか」

「いや、中国人はそんな無茶はしないさ。メイド・イン・チャイナの評判を上げることよりも、他国の評判を自分のものにする。とりわけ楽器業界ではドイツブランドのエンブレムは最高位にあると言って良い。だから中国企業はこぞってドイツのメーカーを買いたがるのさ」

「ドイツブランドのエンブレムを手に入れて……あなた方はウチの会社に何をしようというのです?」

「そんな怖い顔しなさんな。長年勤めてきた熟練技工師たちの誇りを傷つけるようなことはしない。あのな、日本と比べると中国はモノづくりに対して遥かに理解のある国だぞ。まあ従来の商品は据え置くとして、新たな金ヅルとなるラインナップを儲ける。これが急を要する課題だ」

「例えばOEM生産ですか?」

「具体的なことはこれから考えていく。ともかくだ、先生にもこれから頑張ってもらうことになるが、よろしく頼んだぞ」


 野原はそう言って席を立ち、岡島の肩をポンと叩いた。


|| ||| || |||


 翌朝、出勤すると岡島はマイスターのマイク・シュトレーゼマンに声をかけられた。


「トシ、昨日あの中国人とお茶していたそうじゃないか。一体何を話していたんだ?」

「大したことは何も話していない。あ、ちなみにあの人は日本人だよ」


 シュトレーゼマンは岡島より年齢は若いが、ピアノ技術部門クラヴィーアバウ・アプタイルングの現場監督であり、岡島の上役ということになる。

 ちなみにクラウトミュラー社は運営部門オーガニザツィオン製造部門プロドゥクツィオンの2部署から成るが、工場はさらに次の3つの部門アプタイルングに分かれる。

 1つは木材を加工したり部品を組み立てたりする原材部門ローバウ

 2つ目は塗装や研磨などを行う外装部門オーバーフレッヒェ

 そして3つ目がシュトレーゼマン率いるピアノ技術部門(クラヴィーアバウ)であり、岡島はそこに所属している。ここでは調律や整調、整音など行っており、岡島は整音の担当だ。


「そうなのか。まあオレにとっては日本人だろうと中国人だろうとどっちでもいいこと(シャイスエガール)なんだが……事務所の方では色々事細かく指図してきたらしいぜ。事務処理の仕方とか、管理の方法なんか。別に今迄のやり方で問題ない筈だが、あのノハラって男はコッチのやる事なす事ダメ出しした上で自分のやり方を強引に押し付けて来るって……事務所の子たちがブーブー言ってたよ」

「それは大変だな……」


 岡島は昨日のイケアでの会話を思い出した。あの野原という男は彼なりにこだわりはありそうだが、頭が固く柔軟性がなさそうな印象だった。


「今度、製造部門の責任者集めて連中とミーティングするらしい。ああ、何かうぜぇ(ブルート)。一体何を指図されるんだ」

「一応、昨日の話では工場の伝統は守り、職人の誇りを傷つけるようなことはしないという事だったけどね」


 新しいラインナップが作ると言った話は伏せておいた。いずれわかることだし、今敢えてここで言って不安を煽ることはない。


「それを聞いて少し安心したよ。だけどやはり何か嫌な予感がするんだよな。工場のみんなも大体同じ気持ちを抱えているよ」


 そう言ってシュトレーゼマンは岡島の部屋から出ていった。そして間もなくシュトレーゼマンの“悪い予感”は的中することになるのであった。

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