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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第一章 東方の星
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恩人との訣別

 あの緊急会議から数日経った。クラウトミュラーの社員たちは騒然としていた。


「トシ、どう思う? ウチが中国の企業になるんだよ!」


 1人の若い同僚が岡島に言った。東洋人である岡島にはよくわからないが、ドイツ人にとって伝統的なメーカーが中国企業に乗っ取られることは余程屈辱的なことなのだろうか。あれから数名の社員が辞表を出したと聞く。この不景気で転職もままならない筈であるが。


 そのような状況の中、岡島がいつものように自室で仕事をしていると、ドアが開いて1人の訪問客が入ってきた。岡島はその客の顔を見て、思わず声を上げた。


ワンさん!」

「久しぶりですね、岡島さん」


 王は満面の笑顔で手を上げて入室してきた。岡島は少し後ろめたい気持ちで顔を曇らせた。


「王さん、この度のことは何と言って良いものか……」


 すると王は手を振って岡島をなだめた。


「そんな顔をしないで下さいよ。これはビジネス、仕方のないことです。そもそも10年前、私はサブプライムローンを当てにするような商売はやめた方がいいと助言したのですが……それが聞き入れられなかった時点で、遅かれ早かれこういう日が来ると思っていました」

「王さん……」

「でも気をつけて下さい。タン氏は蛇のように狡猾な男です。クラウトミュラー社のことも麻雀の牌くらいにしか思っていません。好きなだけいじっていらなくなったら簡単に捨てますよ。」

「ええ、ある程度は覚悟しています」

「ところで私は南ドイツのシュタインマウワー社と手を組むつもりです。あそこも小規模なピアノメーカーですが、品質ではスタインウェイやクラウトミュラーにも劣っていません。私はここにスポットライトを大々的に当ててみようと思います」


 さすが目の付け所がいい……岡島は思った。シュタインマウワーは高い品質と技術を持ちつつも、営業面で恵まれてこなかった、言わば軍師のいない名将であった。


「すごいです。きっと王さんなら成し遂げるでしょうね……」

「岡島さん、そのうちここはあなたにとって居心地の良い場所ではなくなるかもしれません。もしもそうなった時は……シュタインマウワーに来ませんか?」


 岡島は内心、心動かされるものを感じた。しかし今はその時ではないと思った。


「王さんにお誘い頂いたことはとても身に余る光栄だと思います。でも僕はしばらくここで踏ん張ってみたいと思います。相手が蛇だろうと竜だろうと……」


 岡島がそう言うと王は高笑いして手を差し伸べてきた。岡島はその手を固く握り返した。


「岡島さん、どうかお元気で」

「王さんも」


 そして王は岡島のもとを、そしてクラウトミュラー社を後にした。


 その日の仕事が終わり、タイムカードを切って会社を出ようと思った時、野原秀明とばったり会った。


「岡島先生、一度ゆっくりお話ししてみたいと思っていたんだ。これからお茶でもどうかな?」


 岡島は野原の態度が、初対面の時と打って変わって馴れ馴れしくなっているのが気に入らなかった。だが誘いの言葉には黙って頷いておいた。


「どこか美味しいコーヒーが飲めるところ、知らないかな? ご馳走するよ」

「それならイケアのレストランに行きましょう。たった50セントで美味しいコーヒーが飲み放題です」


 ご馳走するというのに50セント飲み放題のコーヒーを勧められて、野原は少し不服そうな様子だった。そんな野原を岡島は車に乗せてイケアまで出かけた。

 50セントのコーヒーと聞いて訝しげな顔をしていた野原であったが、一口啜って見ると「ほう」と関心した表情になった。


「これはなかなか侮れんな。下手な喫茶店のコーヒーよりよほど旨いぞ。先生のチョイスは大したものだ」

「あの……その先生っていうの、やめて頂けませんか。僕はあなたに何も教えた覚えはありませんよ」


 それを聞いて野原は笑いながら言った。


「これは失敬。中国では普通に敬意を表す時に先生シエンションと言うものでね。つい日本人相手でも言ってしまうのだよ。気に触るようならやめておこうか」

「……やっぱりどうでもいいです。お好きなように」


 野原はコーヒーを旨そうに飲みながら、しばらく窓の外を眺めて言った。


「それなら“先生”として君から教えてもらおうか。こちらのピアノ技術の修行では最初に何を教わるんだい?」

「最初の3ヶ月はひたすら木工ですね。かなり徹底的にやりますよ」

「ほう、例えば木組みはどんな風にやるんだい」

「基本的には凹側と凸側をそれぞれ合うように作ります。その種類によってツァップフェン、グラートフェアビンドゥング、ラーメンエックフェアビンドゥングなどがあります」

「なるほどねぇ、難しそうだね」

「ええ、まあ」


 野原は少しぬるくなったコーヒーを飲み干して質問を続けた。


「じゃあ聞くが、この店で売られている家具でそう言った高度な木工技術が生かされている商品はあるかい?」

「……恐らくないでしょう」

「そうだろうね。でもそういう家具がドイツでも売れているんじゃないのか? 高度な木工技術を駆使した高級品よりも」

「何がおっしゃりたいんですか?」

「時代だよ、そういう時代なんだ、今は。君と私がこうやって50セントで旨いコーヒーを楽しめるのも、ここが儲かっているおかげじゃないのかね。ピアノも家具に続かなければならないんだよ」

「お言葉ですが、楽器は単なる日常品ではない、侵してはならない聖域があると思います。その心得のない人間にはウチの会社をいじって欲しくないです」

「聖域……ね。今迄ピアノ業界はヒェラルキーの上部にお高くとまって、聖域の外が見えていなかった。それが最近は変わってきたんだよ。今や日本では、どこのデパートやショッピングモールでもピアノが売られていて、しかも非常に安価なものが多数揃えてある。その値段の意味するところはわかるかい?」

「価格が安いから買いやすくなった、ということじゃないんですか?」


 岡島の返答を聞いて野原はこれ見よがしに溜息をついてみせた。


「よく考えてごらん。その値段でデパートでどんなものが売っている?」


 岡島はしばらく考えてみた。そした思いついて「あっ」と声を上げた。

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