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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第一章 東方の星
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緊急会議

 岡島寿和がいつものように仕事をしていると、工場長のメッツガーが沈痛な面持ちでやってきて、低い声で言った。


「今日、午後2時から緊急の全体会議を行う。時間厳守で社員食堂カンティーネに来るように」

「緊急会議? 何について話すんですか?」

「それはクローゼ社長が会議で話す。まあ、こういう場で話すことは大抵あまり嬉しいことではないがな」


 メッツガーはそう言い捨ててそそくさと去って行った。


 岡島は予定の時間よりかなり早く社員食堂カンティーネに来たが、既にほとんどの従業員が着席していた。


 定刻になると、クローゼ社長とベン・クラウトミュラーがやってきた。クローゼ社長は講壇に立ち、マイクを取った。


「昨今の欧州における経済危機の波は確実にピアノ業界にまで及んでいる。例外なく我が社もその波に飲まれて、創業以来の危機的な状況にある。これまでもそのような経営危機には幾度も遭遇してきて、その都度何とか乗り越えて来たが今度ばかりは非常に厳しく、どうしようもない事態に追い込まれている」


 クローゼ社長はそこまで話すと、水の入ったグラスに口をつけた。全員が固唾を飲んで次の言葉を待っている。嫌な予感がそこにいた従業員たちの頭の中をよぎった。


「そのような中で、中国のイーストスターという会社が我が社に資本参入したいと申し出てきた。我々経営陣は、我が社の行く末を考え、何が最善の道であるかを念頭に話し合いを重ねた結果……イーストスターの資本参入を受け入れることを決定した」


 クローゼ社長の発言に会場内にはどよめきが起こった。互いに顔を見合わせたり、どういうことかと言い合ったりして、次第にざわついてきた。クローゼ社長はしばらくその様子を見守っていたが、一石を投じるように「質問のある人はどうぞ」と言った。


 すると一人の従業員の手が上がった。

「それはつまり、ウチの会社が中国の何とかっていう会社に乗っ取られたということですか?」

「いや、イーストスターの持分は半数以下なので最終的な経営的決定権はクラウトミュラー家にある。だから乗っ取られたわけではない。無論、彼らは大株主になるわけなのでその意見は最大限に尊重されることになる」


 次に経営委員ベトリープスラートの一人が質問した。


「今ここにいる従業員の雇用は100%保証されるんですか? 親会社がスタッフを送り込んで、その分従来の従業員をクビにするなんてよくある話ですが、そういう心配はないのでしょうか? それと給料減額なんて話は?」

「イーストスターのレイモンド・タン社長の話ではピアノメーカーにとって重要なのはそこで働く従業員であり、今後も尊重していくということだった。そして給料も現状よりアップさせていきたいと言っている」


 その次に木工のイェルクが挙手した。ちなみに彼は表立って口にはしないが、国粋主義的傾向があった。


「イーストスターなんて如何にも胡散臭そうな名前だが……そもそも何をしている会社なんだ?」

「中国の音楽振興会社で、コンサートなど音楽イベントの企画、留学のサポート、アーティストのマネジメントなどを行っている。中国国内にいくつかの店舗を持っていて、最近では楽器業界への急進的進出が話題になっている。所属アーティストの中にはショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールの入賞者も多数おり、そういったところも我が社の今後の発展に大いに役立つだろうと思っている」


 次に岡島が挙手し、質問した。


「中国市場はワン氏が総輸入元・販売元して一手に担っていますが、イーストスターが割り込んでくることは彼にとってあまり面白くないことだと思います。その辺の折り合いはどうつけるつもりなんですか?」


 岡島が王の名前を出すと、クローゼ社長は一瞬顔を曇らせた。そして重々しい調子で語った。


「確かに王さんには大変世話になっている……だが、イーストスターは王さんと手を切るように言っている。断腸の思いだが、この状況ではいたしかたあるまい……」


 岡島は唖然とした。あの王氏と手を切ることになるとは……。


 リーマンショック以来、クラウトミュラー社が何とか不況を乗り切ることが出来たのは王氏のお陰であると言っても過言ではない。


 当時ヨーロッパの楽器メーカーにとって中国市場はまだまだ開拓の余地があり、とても魅力的だった。しかし中国のビジネスシーンでは思いもよらぬ罠があちこちに隠されていて、事情をよく知らない者がうっかりしているとたちまち餌食となってしまう。

 そんな魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこしているような世界で渡り歩いていくには、優秀で信頼のできるパートナーが必要である。王氏は中国市場の水先案内人としてうってつけの人物だった。ドイツ留学経験がありドイツ語が堪能であること、皇帝一族の末裔で富裕層に太いパイプを持っていたこと、誠実で勤勉な性格などすべてにおいて願っても無いようなスペックを備えていた。

 クラウトミュラーがそんな王氏の目に止まったのはまさに幸運であったとしか言いようがない。彼は留学中にクラウトミュラーのピアノに触れてその音色の素晴らしさに感動し、いつかこのピアノを売る商売を始めたいと思ったという。

 そんな折、クラウトミュラー社が中国で詐欺紛いの行為に遭遇し、窮地に陥っていることを聞きつけて自らその救済に名乗りを上げたのが王氏であった。おかげでクラウトミュラー社は窮地を脱し、それ以来王氏とは信頼関係が生まれ、良きビジネスパートナーとなった。


 王氏とクラウトミュラーが手を組んで中国国内に販売網を展開してからは破竹の快進撃であった。何より王氏はクラウトミュラーのブランドイメージを著しく向上させることに成功した。タン社長が「中国ではクラウトミュラーはスタインウェイ以上の高評価」だと言ったが、それは王氏の功績によるものだ。


 他のメーカーは王氏と手を組んだクラウトミュラーを羨望の眼差しで見ていた。しかし、王氏による高い売上もクラウトミュラーを経営難から救えるほどの規模とは言えなかった。

 また王氏は信頼できる人物ではあったが、それは裏を返せば正直過ぎることでもあった。富裕層に生まれ育った王氏はニー支店長やタン社長のような狡猾さと疑い深さを持ち合わせていなかったのである。

 それで自分がせっせと育ててきたクラウトミュラーのブランドイメージを、みすみすイーストスターに横取りされることになってしまったのだ。


 クローゼ社長は岡島の質問に答えてから気が重くなった。そのうち王氏にも挨拶に行かねばならないが、どの面を下げて彼に会えるだろうか、と思い悩んだ。

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