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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第四章 復活
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終曲〜未来の予感〜

 イーストスター社が明道ミンタオ有限公司に買収されると、レイモンド・タンは辞任に追い込まれ、ワン云烨ユンイェがそのトップとなった。クラウトミュラーに駐在していたテレサ・リーは中国へ帰されることになったが、ジャック・リーは呉鋼琴股份公司の社長を務めつつ、クラウトミュラーのテクニカルアドバイザーも兼任することになった。


 新しい親会社社長として、ワン云烨ユンイェはクラウトミュラー社内で就任挨拶を行った。


「……思えば、私は留学中にクラウトミュラーのピアノに触れてその音色の素晴らしさに感動し、いつかこのピアノを売る商売を始めたいと思っていたのです。そしてその夢が叶い、互いにパートナーとして仕事をさせていただいておりました。しかし、イーストスター社の買収劇があり、私もなくなくこの商売を手離すことになりました。ところが、イーストスター社の横暴な支配ぶりを見て私は黙っていられなくなり、一念発起して親会社毎買い取ることを画策しました。今後、私は前CEOによって傷つけられた部分を修復し、クラウトミュラーの伝統の回復に努めて参りたいと思います」


 ワンが語り終えると、一同は大きな拍手を送って歓迎の意を表した。その後、岡島は王に話しかけた。


ワンさん、まさかあなたがこんなことを画策していたなんて夢にも思いませんでした」

「岡島さん、黙っていて申し訳ない。今回の買収劇においては私も少し非道なことをしたかもしれません。でもこうしてクラウトミュラーを守ることが出来たので私は後悔はしていませんよ」

「はい。僕はワンさんがこの会社を治めてくれることが嬉しいですよ。これからもよろしくお願いします」

「ええ、特に岡島さんはリファレンスモデル作りがありますね。こちらこそよろしくお願いします」


|| ||| || |||


 岡島とユリアは何度もリファレンスモデルに挑戦したが、メッツガーが中々了承しなかった。理由はパワー不足である。それでメッツガーは硬化剤を使うことを提案してきた。


「ここまで来たらもう硬化剤を使うしかない。きっとアンダーフェルトが柔らか過ぎるんだ」


 アンダーフェルトと言うのは、ハンマーの核の部分に差し込まれているフェルトで、表層のフェルトとは硬度を変えてある。それによって豊かな強弱デュナーミクを得るためである。岡島たちはメッツガーの提案通り、この部分に硬化剤を注入してみた。すると、確かにこれまでになかったパワーが得られた。


「ユリア、どう思う?」

「そうですね……パワーは得られたし、音色の多彩なところは失われていない……いいと思います」

「僕も同感だ。これで見てもらおうか」


 そして、メッツガーとウーを呼び出して、出来上がったリファレンスモデルを提示した。するとメッツガーは満足そうに言った。


「おお、これだけパワーがあればいいだろう。2人ともよくやった」


 しかし、ウーが不満を隠せずに言った。


「音色の統一感はクリアしているし、メッツガーさんの言うようにフォルテシモにおいて低音も高音も充分な音量が出ている。しかし、メゾフォルテからフォルテシモまでが急に上がり過ぎるんだ。ドッカンという感じだな。ここがなだらかにならないと、一級品とは言えない」


 岡島はその言葉に徒労感を覚えたが、気を取り直して硬化剤の量や硬度を変えて色々試してみた。しかしなかなかなだらかさと音量の両立は難しかった。煮詰まってきた感じがしてきたところで、ユリアが提案した。


「原点に戻って博物館に行ってみませんか? 何かヒントがあるかもしれませんよ」


 岡島は藁をもすがる気持ちでユリアと一緒に博物館へ出かけた。そして再び昔のクラウトミュラーを聞いてみた。既に尾羽打ち枯らした音色から、古の音色に思いを馳せてみる。しかしよくわからない。その時、ユリアがふと言った。


「前に来た時も思ったんですけど、ここの床のカーペットって独特の踏み心地ですよね」

「踏み心地?」


 岡島は足踏みしてみた。確かに独特な感触であった。フローリングのような硬さであるが、衝撃を程よく吸収する弾力がある。


「これ……ハンマーのアンダーフェルトに使えないかな」


 岡島は早速博物館の係員に尋ねた。


「このカーペットの原材料ってわかりますか?」

「ええと、台帳調べてみますね……そうですね、これは“ムフロンの毛”だそうです」

「ムフロン? 何ですか、それ?」

「羊の原種ということですが、詳しくはわかりません。納入業者の連絡先を教えますので、そこで問い合わせて頂けますか?」


 博物館にカーペットを納品していたのはホイヤーという家具業者だった。

岡島たちはそこに出かけてムフロンについて訊いてみた。するとホイヤーの従業員はこのように答えた。


「ムフロンは羊の原種、つまり良く見かける羊はムフロンが家畜化したものだと言われています。毛質は羊とは異なり、かなり硬い材質となっています」

「ムフロンのフェルト生地はどこで入手出来ますか?」

「私たちに卸している業者に問い合わせみますよ、そちらにサンプルを送るように」


 そして数日後、その卸売業者からムフロンフェルト生地がクラウトミュラーに届けられたので、岡島はピアノ部品メーカーにそれを持っていき、ムフロンフェルトをアンダーフェルトとして使ったハンマーを数セット発注した。


 そしてそのハンマーを採用したピアノをウーに見せた。ウーは厳しい顔つきでそれを吟味していたが、やがて顔を上げて言った。


「これは素晴らしい。早速ディーラーや音楽大学関係者などを招いてこれを発表しよう」


 ウーはそのことをワンに提案し、早速リファレンスモデルの発表会が開催されることになった。そこにはクラウトミュラーの国内ディーラー、音楽大学関係者などが招かれた。ワン云烨ユンイェも当然のことながら出席した。


 そして国際コンクール優勝者のグスタフ・ロマーネというピアニストに演奏を依頼し、コンサート形式でリファレンスモデルが発表されることになった。


 曲目は、バッハのイタリア協奏曲、ベートーヴェンの熱情ソナタ、そしてストラヴィンスキーのペトルーシュカから3つの楽章という順番であった。聴衆は驚いた。古典的なバッハの音色から現代的なストラヴィンスキーの音色まで、多種多様、それでいてクラウトミュラーという存在感を感じさせる統一感。今までこんな楽器に出会ったことがない……そこにいた誰しもがそう思った。


 ロマーネが最後の一音を弾き終えた時、室内にいた賓客や従業員たちは一斉に立ち上がり、惜しみない拍手を送った。


「ブラボー!」

「ブラボー!!」

 

 拍手の嵐の中、クローゼ社長が岡島とユリアの方に手を差し出した。そして、2人が会釈すると一層拍手の音が大きくなった。そしてロマーネは2人に近づき、握手を交わして言った。


「これは私が今まで弾いた中で最高のピアノです。ありがとう!」


 それを聞いた岡島は、今までの苦労がロマーネの一言で報いられた気がした。


 試弾室は大勢の客を収納するにはあまりにも小さく、試弾会が終わる頃には空気が澱んで息苦しくなってきた。そのため、岡島は工場の建物から出て外の空気を胸いっぱい吸い込んだ。すると背後に人の気配があった。ユリアだった。2人は目が合うとにこりと微笑み合った。そして岡島は彼女に言った。


「ユリア、一緒に仕事が出来て楽しかったよ。僕は長年この仕事をしてきたが、君は最高のパートナーだ。僕はこれからも君と一緒に仕事をしていきたいと思っている」

「寿和さん、とても嬉しいです。私も寿和さんと一緒に仕事がしていきたい。でもそれは仕事だけの話なんですよね、きっと」

「え?」

「先日、一緒にハンガリーへ行った時、ドナウ川の夜景を見ながら何かいいムードだな、もしかして……と期待してしまったんです。でも何も言って下さらないから……寿和さんは女性としての私には興味がないんだなと思って少し寂しい気持ちになりました。でも一緒に仕事したいって寿和さんが言って下さったこと、本当に嬉しいです!」


 岡島はしばらく沈黙した後、ユリアの目を真っ直ぐに見つめて言った。


「ユリア、君が一緒に仕事をしてくれることも凄く嬉しいよ。だけどね、もし僕がこの仕事を辞めても、定年レンテになっても……人生を終えるその日まで僕は君と一緒にいたいんだ。ユリア、仕事以外でも、ずっとずっと僕のパートナーでいて欲しい!」


 岡島の語ることにユリアはほのかに胸を膨らませて答えた。


「はい……私は寿和さんの行きたいところ何処へでも行きたいです! 日本でも中国でも、海の中でも!」


 そうして2人は見つめ合い、互いに手を取り合って再び工場の中へと入って行った。

長らくのご愛読ありがとうございました。

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