次の段階
上海のイーストスター本社を訪れたジャック・ウーは真っ直ぐ社長室へと向かった。ウーはドアをノックしながら「タン社長、ジャック・ウーです。ただ今戻ってまいりました」と言った。すると中から「入りたまえ」というタン社長の声がした。
ウーはドアを開けて中に入るとまず一礼し、注意深く周囲を見渡した後、入室した。
「急に私を呼び出されるとは、一体何があったのですか」
「尖沙咀工場を会社として独立させようと思う。ついては……君にその社長となって欲しい」
「……つまり工場を子会社化させるということですか?」
「いや、完全に別会社でなければならないんだ」
「それはまた奇異ですね……何かそうせざるを得ない事情があるのですか」
「ああ……香港労働局が尖沙咀工場の雇用状況にクレームをつけてきたのだ。香港雇用条例に違反しているとな」
「香港労働局のクレーム……」
タン社長の説明によると、香港労働局からイーストスター本社に突然業務改善勧告が通告されたという。尖沙咀工場が香港雇用条例に違反しており、査察や従業員への聞き込みで既に証拠は押さえられているとのことだった。
……ここで解説を加えておくと、尖沙咀工場はイーストスターが輸入した高級ピアノを調整するための工場である。低価格帯の商品と差別化するには出荷前に完全な調整を施す必要があったのだ。しかしまともにやれば人件費も馬鹿にならず、希望価格で販売するとほとんど利益が出ないばかりか赤字にさえなりかねない。
そこで、“研修生”という名目で技術者を採用し、タダ働きさせることにした。もちろん研修名目であっても腕のいい技術者をタダ働きさせるにはそれなりの“エサ”も必要になってくる。その一つが「優秀な人にはドイツのメーカーで働けるチャンスもありますよ」というものであった。何十人もいるうちの一人を時々ドイツへ送れば信ぴょう性も生まれ、“研修生”たちは喜んでタダ働きに精を出すというわけである。そのためにクラウトミュラー側にもリストラを施して働き口を作っておく必要があり、そのためにタン社長はウーを派遣していたのであった。
ところがタダ働きの実態が香港労働局に知れ渡ることとなり、査察の対象とされてしまったのである。困ったタン社長はコンサルタント契約を結んでいた陳雪麗に相談した。すると陳女史は尖沙咀工場を一旦廃業申請して、新たな会社を設け、そこに全面的に業務譲渡することを提案した。
「つまりは子会社化ということか」
タン社長が確認するように言うと陳は首を横に振った。
「いえ、それでは結局処分を免れることは出来ません。ですから完全な別会社を新たに設立するのです。持ち株会社比率を半数以上に上げないようにしなければなりません」
その話を聞いてタン社長は首を傾げた。別会社を設立しても、その持ち株率が半数となると第三者が筆頭株主となることが理論的には可能だ。あの工場だけを買収したところで何もメリットはないと思うが、万が一ということがある……。
そうしてタン社長が迷いを見せているところに陳女史が擦り寄って来て言った。
「私の提案がお気に召しませんか?」
そう言った時、陳の胸元が開いた。それがタン社長の目に入って鼻の下がぐんと伸びた。
「い、いや。万が一他者に乗っ取られるリスクを考えていたんだが、よくよく考えればありえないことだ。経営者は勇敢でなくてはいかん。陳さんの案で行こう。スキームを作ってまた来て欲しい……ところで華山路に肉料理の旨いレストランがあるんだが、今晩一緒にディナーでもどうかね?」
「ええ是非、喜んで」
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「……それでタン社長は陳女史とネンゴロになられたわけですか」
話を一通り聞いたウーがそのように言うと、タン社長は否定はせずに窘めた。
「ネンゴロとは人聞きの悪い。あくまでビジネスパートナーとして親睦を深めたまでだ」
「失礼しました。ただ陳女史は確かに優秀なコンサルタントですがそこまで鵜呑みにして良いのでしょうか。もう少しリスクについて検討を重ねてみられては」
「そんな必要はない。彼女が作成したスキームを見たがどこを見ても完璧で非の打ちどころがなかった。ウチは彼女の案で行く。先ほど陳にここに来るように言ってある。君も彼女から話を聞いておいてくれたまえ」
「はい。かしこまりました」
まもなく陳雪麗がやって来たので、タン社長はウーを別室に連れて行き、そこに陳も招き入れた。タン社長がウーに陳を紹介すると彼女は一礼して勧められた椅子に座った。
「詳しいことは2人で打ち合わせておいてくれ」
タン社長はそう言って席を立ったが、去り際にウーに耳打ちして釘を刺すように言った。
「……いい女だろ。だが手を出すんじゃないぞ。わかったな」
そう言ってタン社長が退室すると、陳は姿勢を崩してため息をついた。ウーはそんな陳に声をかけた。
「ごくろうさん。実に見事だったよ。ピンポンマンションでスカウトした甲斐があったというものだ」
「だいたいせこいのよ、あの男は。技術者をタダ働きさせるなんて信じられない。さっさと捕まれって感じ」
「もっともそのアイデアはこちらサイドから提案したものだけどな。まあ続けて手懐けておいてくれ、頼んだぞ。いよいよ次の段階に入る」
「うん、わかった」
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翌週、タン社長は怒り心頭で顔を真っ赤にした。尖沙咀工場の廃業手続きを終え、新会社を設立した途端、その会社株の過半数を明道有限公司という会社が即座に買占めたのである。
「くそ……ウーめ、裏切りおったな!」
タン社長はウーに電話するが何度かけても出なかった。そこで腹いせ交じりに陳を呼び出してクレームをつけた。
「おい、君の言う通りにしたら第三者に乗っ取られたぞ! どうしてくれるんだ?」
「落ち着いて下さい。明道有限公司が買収したことでむしろイーストスターと新会社が無関係であることをアピール出来たとお考え下さい」
「何だと?」
「しばらくは何でもなかったように振舞っていて下さい。そして労働局の追及が下火になったタイミングで明道有限公司の取引が無効であると主張するのです」
「どうやってそんなことが出来るというのだ」
「ちょっとこれを見て下さい」
陳はそう言ってタブレットを取り出し、とあるサイトを開いた。そこには尖沙咀工場のタダ働きの実態を暴露した記事があった。
「誰がこんなものを……!」
「誰でもいいんですよ。我々はこれを逆に利用するんです」
「利用だと?」
「まずこの記事が事実無根であることを証明できるレベルにまで徹底した隠蔽工作を行い、その上でこの記事が明道有限公司のしわざであるとでっち上げます。すると明道有限公司は“風説の流布”によって株価を操作したということになり、証券取引法に抵触するわけです。そこで取引無効を訴えればよいわけです」
「なるほど。君の頭はあいかわらず切れているな。では私はしばらく事態を見守ることにしよう……」
それを聞いた陳は心の中で(あなたの頭の回転はどうしてこうも鈍いのかしら)とつぶやいた。




