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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第四章 復活
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マルトンバーシャール

 岡島たち一行は安いペンションに泊まった。寝室には2段ベッドが2台あり、岡島とウーは同じベッドで、ユリアは他のベッドの上段に寝ていた。

 岡島がいち早く目覚め、ベッドを降りるとユリアの寝顔が目に入った。そして近づいていってユリアの頬にそっと愛おしそうに手を置いた。その時、


「ぐおーっ」


 凄まじい音がして思わず岡島は手を引っ込めた。ウーのいびきであった。昨晩、岡島がユリアとの束の間のランデブーに浸っていると、間もなくウーとタルが姿を見せた。どこへ行っていたのかと問えば、次のような経緯だった。


 ブダイ・ヴィガドーの入場券をタルがまとめ買いしていたのだが、全員から少しずつピンハネしていたことにウーが気がついた。一行が川べりで夜景を見ている時にウーとタルの姿が見えなくなったのは、その件で彼らが物陰で揉めていたためであったという。


 岡島が椅子に座って半ば夢うつつの状態でいると、部屋の扉をノックする者があった。扉を開けるとそこにはタルがいた。


「どうしたんです、こんなに早く。まだみんな寝てますよ」

「何言ってるんだ。もう9時だぞ。グズグズしているとあっという間に昼だぞ」


 タルはこれまでのウーの言動を見て、昼からの行動となってガイド料を半日分に値切られたら敵わないと思ったのだろう。部屋にズカズカと入ってきてウーとユリアを無理矢理起こした。そして全員の身支度が整ったところで今日の予定を告げた。


「昨日はブダ側に集中していたので、今日はペスト側で辻楽師の演奏を見物する。その後はブダペストから少し足を伸ばしてマルトンバーシャールという町へ行く」


 そして一行は宿をチェックアウトし、タルの車に乗り込んだ。程なくして車はアンドラーシ通りという大通りに出た。


「このアンドラーシ通りはハンガリーのシャンゼリゼとも言われる。まあ似ているかどうかはあんたらの判断に任せるけどな。この近辺にはロマ系の辻楽師が結構出没するんだ。それを探してみよう」


 タルの言う“穴場”に行ってみると、そこでは複数の辻楽師がひしめいていた。そして彼らは王宮の丘にいたような学生風の若者たちではなく、タルの言うようにロマ系のようだった。


「ヴィオラの構え方が随分変わっているわね」


 ユリアがそう言ったように、ヴィオラは通常の構え方ではなく、ウクレレのように脇に抱え、顎を楽器の左側面に当てるように構えて弾かれていた。それについてタルはこう説明した。


「ロマ音楽ではヴィオラをギターのように伴奏楽器として使うことが多いんだ。そうするとあのスタイルで構える方が演奏しやすいのさ」

「なるほどね……」


 ひとことロマ系の民族音楽と言っても様々だ。こうして辻楽師たちを歩いて見て回ると色々なスタイルが入り混じっている。


「ハンガリー音楽は昔から今に至るまで諸外国の人々を魅了してきた。その魅力の秘訣はドナウ川がスラブ系、ゲルマン系と色々な文化を運んできたことにある。それぞれぶつかることも多く、大変だったろうが共存して生きていかなければならない。するとこう言った魅力的な芸術が誕生していったのさ」

「そうなのですね。私たちのチームもドイツ人、日本人、中国人と異文化の寄せ集めだからきっといいピアノが作り出せるでしょうね!」


 岡島はそんな風に思ったことがなかったが、ユリアにそう言われると何だかうまく行きそうな気がしてきた。


 昼食を済ませた後、一行を乗せた車は市街地から外れてどんどん田舎へと進んで行った。


「この辺からがマルトンバーシャールっていう町さ。まあ小さな町でさほど観光名所と呼べるものはないがね」「小さな町……っていうか、もう村と呼んだ方がいいんじゃないか。観光名所がないなら何を見に行くっていうんだ」

「まあ、一般人にとっては興味はないだろうが、あんたらピアノ関係者にとっちゃ見逃せない場所だろう」

「随分もったいぶるじゃないか……」


 やがて車は広い庭園の駐車場に入った。駐車場の奥の方に大きいが宮殿と呼ぶにはやや小ぶりな邸宅が見えた。


「一体何なんだい、ここは?」

「ここは昔、ブルンスヴィックという伯爵の住んでいた邸宅だ。伯爵は作曲家ベートーヴェンの知人で、数ヶ月ベートーヴェンがここに滞在していたということからここは現在ベートーヴェン博物館となっているのさ」


「ベートーヴェンはここに滞在して何をしていたんですか?」

「まあ、それは中に入って見ることにしようじゃないか」


 分かりにくい入口を入っていくと質素な机を置いた受付があり、そこにいた係員がウーと岡島が東洋人なのを見て訊いてきた。


「Where are you from?(あなた方はどこの国の方?)」


 するとウーが「I am Chinese(私は中国人だ)」と答えたが、岡島は自分も中国人だと勘違いされぬよう「I am Japanese(僕は日本人です)」と言っておいた。すると係員は2冊のファイルを取り出して彼らに手渡した。そのファイルは1つは中国語、もう1つは日本語で書かれた資料であった。それを見たユリアが抗議するように言った。


「あの、私はドイツ人なんですけど、ドイツ語の資料はないんですか?」

「ここの展示解説は全てドイツ語併記されているから問題ないですよ」


 ともあれ、お陰でガイドの説明がなくても展示内容についてはみな平等に理解できた。


 その資料によれば、ベートーヴェンは当館に滞在中、伯爵の2人の娘、テレーゼとヨゼフィーネにピアノを教えていたという。「テレーゼソナタ」のテレーゼである。「熱情ソナタ」も当初はヨゼフィーネに捧げるために作曲されたという説もある。そして彼女たちはベートーヴェンにとってただの生徒だっただけでなく、恋する対象でもあったようである。


「ベートーヴェンって堅物のイメージだけど……意外に恋多き男だったのね」

「うん、展示されている手紙を読むと、女性に対して随分情熱的なんだなって思うよ。僕の持っている日本語の資料にはこんなことも書いてるよ」


 ──テレーゼやヨゼフィーネに淡い恋心を抱いていたベートーヴェンは、やがて彼女たちの従姉妹にあたるジュリエッタ・ヴィッチャルディに本気で惚れてしまった。 そして、あの有名な「不滅の恋人」への手紙を彼女に宛てて書いたと思われるが、これについては諸説ある──


 それを横で聞いていたウーが言った。


「うむ……だがそれにしてはこの手紙の文面は随分格調高い。これを二十歳前の少女に宛てたというのは無理がないかな。それに30歳の男性がひとまわり以上年下の女性に本気で恋したっていうのもな……」


 その言葉に岡島はギクッとした。自分は20ほど年の離れた少女に恋心を抱いている。その時、ユリアはウーに反論するように言った。


「あら、私は素敵だと思うわ。何歳離れていたってこんなに情熱的に愛されたらうっとりするわよ」


 ユリアは岡島のことを意識してそう言ったのかどうか分からなかったが、岡島は顔が真っ赤になり、早くこの場を立ち去りたいと思った。


 一行がベートーヴェン博物館を出て車に乗り込もうとした時、ウーの携帯が鳴った。


ウェイ…………我知道了ウォーチーダオレ……再見ザイジェン


 電話を切るとウーは岡島たちに言った。


「急用が出来た。私はここから直接中国へ飛ぶ。悪いが君たちだけでドイツへ帰ってくれ」


 それでタルの車はブダペスト空港に急行し、そこで解散となった。ウーは搭乗口に着くと携帯を取り出して電話をかけた。


「もしもし、ウーですが……タンが泣きついて来ましたよ。私はこれから中国に戻ります。ええ、気をつけます、お気遣いありがとうございます」


 タンは携帯のスイッチを切ると、僅かに口角を上げた。そして北京行きの飛行機へと吸い込まれて行った。

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