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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第四章 復活
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ブダペスト

 岡島とユリア、そしてジャック・ウーがブダペスト空港のゲートをくぐると、見覚えのある男が「ウェルカム・ミスター・ウー」と書いたプラカードを持って立っていた。旅楽師のガスパル・タルだ。


「皆さん、ようこそハンガリーへ。長旅お疲れ様です」


 タルは陽気に言ったが、ウーはぶっきらぼうに返した。


「約束の600ユーロ、先に払っておくぞ。でなければいくらボッタクられるかわからんからな。それからこの1000ユーロ、フォリントに手数料なしで両替して貰えるか。あんたも旅芸人ならユーロは必要だろう」

「へいへい、全く愛想のない男だな。ほらよ」


 そう言ってタルは2万フォリント札を14枚ウーに渡した。それを数えたウーの顔が険しくなった。


「おい、東洋人だからってナメてるとひどい目に合うぞ。相場は32万フォリントの筈だ。4万フォリント足りないぞ」

「勘弁してくれよ、旦那。これでも両替所行くよりずっとマシだぜ。わかったよ、30万フォリントでどうだ。そらが不満なら両替所で替えてきてくれ」


 ウーはその提案で手を打ち、タルは2万フォリント札をもう一枚ウーに手渡した。その後、タルは一行を駐車場に停めてあるポンコツのワーゲンバスに乗せて、市内に向けて出発した。


「ブダペストってのは、ブダとペストという2つの町が合わさったものなんだ。ドナウ川を挟んで西側がブダ、東側がペストというわけさ」

「そうだったんですか、知りませんでした」


 岡島がタルの説明に聞き入っていると、車窓に釘付けになっていたユリアが声を上げた。


「うわあ、あの建物何かしら? 綺麗ね……」

「あれは国会議事堂さ。ブダ側に回って川越しに見てみるぜ」


 タルはそう言ってドナウ川に架かる橋を渡ってブダ側へと車を走らせた。そしてふと展望が開けた時、国会議事堂が川面に反射して対になっているのが見えた。


「すごーい!」

「へへ、そうだろ。ブダペストはドナウの真珠って言われているくらいだからな。だけど夜はこんなもんじゃないぜ。鎖橋のイルミネーション見たらぶったまげるぞ。兄ちゃん、愛の告白を考えているなら今晩がチャンスだぞ」


 タルが岡島の方を向いてからかって言うので、岡島は顔を赤らめて言った。


「な、何言ってるんですか!」


|| ||| || |||


 それからタルは王宮の丘の麓あたりに車を停めて言った。


「本当ならケーブルカーで上に上がって王宮から漁夫の砦に抜けるのがモデルコースなんだが、あんたがたは民族音楽を聴くのが目的だ。だから、漁夫の砦まで登って途中途中で辻楽師の演奏を聴いて行くことにしよう」


 タルの案内に従って一行は車を降り、丘の上へと続く階段を登って行った。しばらく登っていくと踊り場があり、そこで数名の若者がヴァイオリンやヴィオラを弾いていた。


「この辺で弾いている連中はリスト音楽院などの音楽学生が多い。腕は確かだが、そのぶん面白味に欠けるかもしれんな」


 タルはそう言ったが、岡島は結構彼らの演奏を楽しめた。


「音楽学生ということですが、その割には民族色が強いですね」

「ああ。彼らはもともと民族音楽が専門なのだろう。この国では民族音楽をやるにしても、プロとして生計を立てていくにはキチンとした音楽学校の学位が必要なんだ。だから彼らはその学んでいる真っ最中というわけさ」

「なるほどですね」


 さらに一行が階段を上がって行くと、また別の楽師たちが演奏していた。こんどはヴァイオリンにダルシマーの伴奏である。


「おお、今度はダルシマーですね」


 岡島がそう言うや否や、タルが楽師に向かってツカツカと歩いて行った。


「おい、兄ちゃん! 何だその弾き方は! ちょっと貸せ!」


 そう言ってタルは楽師からダルシマーを奪って勝手に弾き始めた。人から無理矢理奪うだけあって、タルの演奏は上手かった。弾き終わった後、タルは「最近の若いもんは……なっとらん!」などと呟きながら階段を登っていった。


 そうして頂上に近づくと美しい建物が見えた。漁夫の砦である。


「ここのカフェでツィンバロンのライブ演奏がある。丁度間もなく始まる頃だから聴いていこう」


 タルに率いられて中に入ると、そこはブダペストの町が一望できる絶景の場所であった。店の前方にツィンバロンが置いてあり、岡島たちが着席すると間もなく奏者がやってきた。奏者がマレットを振るうと、ユリアが感激して言ってさた。


「うわあ、素朴だけど素敵な音色! まさにピアノのルーツって感じね」


 岡島もユリアに同感だったが、曲目がイエスタデイやイパネマの娘など、ポピュラー音楽のエバーグリーンばかりなのが不満だった。タルがそんな岡島の気持ちに気づいたのか、耳打ちして言った。


「まあ待て。これからが本領発揮だ」


 タルの言う通り、ポピュラーのナンバーが数曲流れた後、奏者の顔付きがキリッと神妙になりハンガリー風の曲想となった。初めはどっしりと重量感のある序曲、それに続いてリズミカルな舞曲となった。それは現代のピアノでは表現しきれないダンサブルな躍動感に満ちていた。そしてその後は目まぐるしく転げ回る早い音の連続。これがたった2本のバチでどうやって演奏されるのだろうと不思議な気持ちになった。

 その曲が終わると、ウーが拍手をしながら言った。


「なるほど。昔パンタレオンの演奏を聴いた人々もこんな気持ちになったんだな」


 それからしばらくツィンバロン演奏を堪能した後、一行は再び山を降りて行った。


「次はブダイ・ヴィガドーという劇場でフォルクローレを鑑賞しよう。大分観光客向けに脚色されてはいるが、昔ロマたちがどんな芸を人々に披露していたのか垣間見ることができるだろう」


 車は駐車場に停めたまま一行はブダイ・ヴィガドーへと歩いて行った。劇場に着くと既に多くの客が開場を待って並んでいた。


「随分並んでいるんですね。今日は何か特別な演目があるんですか?」

「いや、ここはいつもこんなもんさ」


 いつも多くの客が入るという割には中は古びていて、手入れも念入りにされている感じではなかった。しかし演技が始まると岡島たちの目はステージに釘付けになった。基本的に緩・急の動きが繰り返されるが、急の部分でのスピード感が凄まじかった。


 休憩時間中、ウーとタルはトイレに行き、岡島とユリアは感想を述べ合っていた。


「音楽もそうだけど踊りの迫力に圧倒されたよ」

「でも現代のダンスと比べると刺激が少なくて柔らかい……というか素朴ですね。それに各々の演目にストーリー性があるのか楽しいです。テレビがなかった頃、昔の人はこういったものを楽しんでいたのかしら」

「なるほどね」


 昔テレビも映画もなかった頃、ロマたちは人々に芸を披露し、楽しませる重要な役目を担っていた。そんな文化の中で育まれた要素の一環がピアノ誕生の元となった……そう思うと岡島は感慨深かった。


 フォルクローレのプログラムが終了すると、一行はドナウ川の岸辺に移動した。もうすっかり暗くなり、建物のライトアップが煌びやかに輝いていた。


「うわあ、素敵な夜景!」


 ユリアが感激して鎖橋のイルミネーションを眺めていた。岡島はその横顔を見ながら、彼女がこの上なく愛おしく思えた。


(美しい……こんなに女の人を美しいと思ったのはどれくらい前のことだろう)


 ふと辺りを見渡すとウーとタルの姿が見えなかった。その場にいたのは岡島とユリアの2人きりであった。


(はぐれたか?)


 その時、タルの言葉が岡島の頭をよぎった。


 ──愛の告白を考えているなら今晩がチャンスだぞ──


 その言葉に押し出されるように岡島はユリアに話しかけた。


「ええと、ユリア……あのさ」


「はい?」


「その、何というか……」


 その時、岡島は昔付き合っていた結実子に告白した時のことを思い出した。あの時も夜景を見ながら告白したっけ……。そう考えると今告白したら駄目になる気がした。


「ユリア、一緒にいい仕事しよう」

「はい、是非。よろしくお願いします」


 その瞬間、岡島はガックリと肩を落としたが、これでいい気がした。折角仕事上のとはいえ最高のパートナーと巡り会えたのだ。それを中途半端な告白でフイにしたくはない。もし任務が遂行できて、満足のいくリファレンスモデルが出来上がったら……その時、ユリアに気持ちを伝えようと岡島は心に誓った。

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