パンタレオンの足跡2
翌朝、一行はクラインヘリンゲンを後にしてアイスレーベンへと向かった。
この町はマルティン・ルターの出身地でもあり、町の真ん中にはルターの銅像が町を見下ろすように立っている。この町はルターの生誕、そして最後を遂げた町として歴史的には重要な町だというのは良くわかったが……
「特にパンタレオン・ヘーベンシュトライトにゆかりのあるものは見当たらないですね」
「次行くか。この本によれば……」
──続いて重要な拠点はメルセブルクである。パンタレオンは何らかの負債により追われる身となり、メルゼブルクの教会の牧師のもとにかくまわれることとなった。そのような事情から、しばらくメルゼブルクでの隠遁生活がつづくことになった。
だが、結果的にこの逃亡生活が後のパンタレオンを生み出す土壌となったのだ。と言うのは、この期間に彼はダルシマー(ハックブレット)と向き合い、この楽器に日々改良を加え、独自の新しい楽器と音楽表現を作り出したからである──
ドクター・ホッペの本に従って一行はメルゼブルクへ向かった。車で一時間足らずで到着した。町について1番に目についたのは至るところにある城壁のようなものの痕跡だった。
「これは一体何だろうな」
ウーが独りごちていると、ユリアが石碑を発見して言った。
「あ、ここに説明がありますよ」
──10世紀のはじめ、メルゼブルクの伯爵の娘ハーテブルクが東フランク王国の国王ハインリヒ一世と政略結婚したことから、この町に砦が建設された。当時、このあたりはハンガリーから度々攻撃を受けていたのである。ハインリヒは後にハーテブルクとは離別し、一目惚れしたマティルデを娶ったが、依然としてメルゼブルクには塁が築かれていた。「リアデの戦い」でハンガリーを破った後、城は頑強にされた──
「そうか、度々ハンガリーの攻撃を受けていた……すなわち、ハンガリー文化の流入があったということか。パンタレオンはこの時期にダルシマーに出会っていた可能性が高いね」
岡島がそう言うと、ユリアが別の石碑を読んだ。
「こんな記述もあるわ。メルセブルクは中部ドイツで最も古い歴史を持つ町で、“メルゼブルクの呪文書”という古文書の出所として知られ、神話や迷信の町だったんですって。中世以降はキリスト教化され、マルティン・ルターもたびたびここを訪れていたそうよ。特に大聖堂のオルガンは素晴らしいことで有名で、フランツ・リストはここのオルガンに感化されて多くのオルガン曲を作曲したんですって」
「なるほど、パンタレオンの音楽と楽器が、この文化と歴史の坩堝のような町で育まれていったということか……」
「大聖堂にオルガン見に行きませんか?」
大聖堂につくと、誰かがオルガンの練習をしていた。リストが感化されたというオルガンの音色に聴き入りながら、岡島たちはドクター・ホッペの本を回し読みした。
──その後、パンタレオンはやがて自由の身となり、1698年ヴァイセンフェルスの王宮で音楽家および舞踏家としての職を得ることとなった。
このころからパンタレオンはダルシマーの進化形であるツィンバロンの奏者として頭角をあらわし始めた。1705年にパリで御前演奏を行った時、ルイ14世からこの新しい楽器の名前を「パンタレオン」と呼ぶように命ぜられたという。それからパンタレオンはヨーロッパ各地を演奏してまわり、当時の音楽家や楽器製造家に衝撃を与えた。前述の通り、これがピアノ誕生のきっかけとなったのである──
「次はヴァイセンフェルスだな」
ウーがそう言うと、一同はヴァイセンフェルスへ移動した。車で30分程の近場である。パンタレオンが働いていたという王宮は小高い丘の上にあった。王宮の博物館を見学してみたが、パンタレオンの痕跡はここでも見当たらなかった。
「つくづく幻の音楽家なのね……パンタレオンって。ピアノ誕生のきっかけとなったほどの人物なのに、見事に人々から忘れられているのが不思議だわ」
ユリアの語りに答えるようにウーが言った。
「西洋音楽史にはそういう人物がたくさんいるんだよ。ルイ・シュポーア、シュターミッツ、それにノルベルト・ブルグミュラー(ピアノ教則本作者ブルグミュラーの弟)もね。バッハだってメンデルスゾーンの啓蒙がなければ今頃埋もれていたかもしれない」
「私たちの知らないところで、多くの人物が功績を積み重ねてくれたお陰で今の音楽や楽器があるのね……」
一行は王宮の丘を降りてマルクト広場に出た。すると道を挟んで音楽関係らしい建物が見えた。
「あれ、何だろう」
「ハインリッヒ・シュッツ博物館って書いてあるわ」
「シュッツと言えば、バッハより一世紀前の作曲家で宗教曲が有名だな。折角だから入ってみるか」
一行はこの博物館にも入ることにした。入場料1ユーロと激安である。内部は2部に分かれていて、右側はシュッツの生い立ちなどの説明、左側は楽器の展示と作品の紹介であった。
「ふうん、シュッツはこの町で幼少期を過ごしたのか。シュッツと言えば声楽曲、宗教曲というイメージが強いが、意外に器楽曲もけっこうあるものだな」
ウーが感慨深げに言うのを他所に、ユリアが楽器のショーケースを見てはしゃぎながら言った。
「あれ何かしら。どんな音が出るのかな」
それは「ツィンク」という楽器で、縦笛にトランペットのマウスピースをつけたような小型の角笛だった。
「そうだねえ、どんな音がするんだろう」
岡島とユリアが興味深そうにツィンクを眺めていると、係員の人が寄って来て、「この楽器、持ってきましょうか」と言い、奥の倉庫からツィンクを取り出してきた。そして「どうぞ吹いてみてください」と言ってユリアに渡した。
「私は吹けないから、寿和さんやってみて!」
ユリアは無邪気にそう言って岡島にツィンクを渡した。岡島はチャレンジしてみたが、ただ「ブー」という情けない音がするのみだった。それを見ていたユリアがケラケラ笑いながら岡島からツィンクをひったくった。
「じゃあ、今度は私がやってみるね」
そう言ってユリアは岡島が吹いたばかりのマウスピースに唇を当てたので、岡島はドキッとした。一方ユリアは大して気にしている様子もなく、楽器に夢中になっていた。しかし彼女もまた、大して良い音は出せない。
岡島は調子に乗って言った。
「もう一回やらせてくれるかな」
そして岡島はユリアの吹いた楽器に口をつけた。
(ユリアと……関節キスしてしまった……)
岡島は胸の鼓動を感じて年甲斐もなく顔を赤らめたが、ユリアは「やっぱりダメじゃない」と言って無邪気に笑っていた。
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「パンタレオンについて間接的にはわかったけど、実像はまだはっきりしないわね」
「確かに。ましてやピアノの音のイメージを作るのに役立つような情報は得られたとは言えないね……やはり、クラインヘリンゲンで出会った楽師のいうようにハンガリーへ行ってみるのがいいんじゃないかな」
岡島がそう言うと、ウーも賛同して言った。
「そうだな。一旦帰って会社に断りを入れて、来週あたりハンガリーへ行こう。ただ、あのガスパル・タルという男に頼むかどうかはガイド料を予め聞いてから決めよう。でなければいくらぼったくられるかわからんからな」
そう言ってウーはメモを取り出し、ガスパル・タルに電話した。
「ハロー、クラインヘリンゲンで会ったジャック・ウーだが、覚えているか?」
「おう、あの時の中国人か。どうだい、ハンガリー行く気になったか」
「ああ。だがガイド料はいくら取るつもりだ?」
「……1日につき400ユーロでどうだ」
「そりゃ高いな。もっと負けろ」
「おいおい、これでも大サービスだぜ。旅行会社通したらいくらすると思ってるんだ」
「せめて1日300ユーロにしろ。それ以上は出さん。ダメなら他を当たる」
「わかったよ、300ユーロで手を打とう。それじゃ、気をつけて来いよ。来週ブダペストでまた会おう」
こうして翌週ハンガリーへ行くことを決めた一行は、ヴァイセンフェルスを後にして一旦ヴォルフェンビュッテルへと帰って行った。