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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第四章 復活
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人材発掘

 ある日、ウーがまた岡島の部屋にやってきて言った。


「この会社では岡島さん以外に誰が整音を担当しているんですか?」

「僕以外にはイェルク・ホーエンベルクというベテラン技術者が担当しています」

「そうですか、そのホーエンベルクさんの仕事を見てみたんですが、岡島さんとはずいぶん傾向が違うようだ。同じ社内でまるで対立しているようで統一感がない。これはピアノメーカーとしては忌々《ゆゆ》しき事態ですよ」

「実は、前々からそうなんですが、社内には柔らかく繊細な音を好むグループとパワフルで硬い音を好むグループがあります。前者は僕でありクローゼ社長ですが、後者はホーエンベルク氏であり、メッツガー工場長です」

「なるほど。しかしそんな風に分かれていてはディーラーとしては混乱を招きかねない。クラウトミュラーの音というのはそもそもどこにあるんですか」

「正直なところ、クラウトミュラーの音というより、ヨーロッパのピアノの音がどこへ行ってしまったのかという感じがします。今の若いドイツ人でクラシック音楽を好む人はあまりいません。多くの人が聞いているのは電気的に増幅された大音量の音楽です。一度ファンクをやっているという友人のライブに行ったことがあるんですが、耳栓しても耳が壊れそうで、体が音でガンガン揺さぶられる……それくらいの音量を若い人は聞きなれています。だから、楽器を扱う業者がそのような音に慣れ親しんでいる限り、繊細な音はますます隅に追いやられていくでしょう」

「なるほど……では、クラウトミュラーはドイツメーカーの先陣を切って失われた音を回復し、自らの音としてアイデンティティーを確立させる必要があるでしょう。そのために整音技術者で一度ミーティングを開きましょう」


 ウーの提案で岡島とホーエンベルク、そしてメッツガーが集められて話し合いの場が持たれた。しかしホーエンベルクとメッツガーにはヨーロッパ伝統の音ということ自体が愚の骨頂であるように思われた。


「ピアノは伝統工芸でも骨董品でもないんだ。現代人が現代風に使用する現代の楽器なんだよ。だから現代の人間が望むものを提供するのがメーカーの使命だろう」

「しかし、ピアノは何世紀も基本的な構造は変えないまま、音の価値観だけが変化している。いや、腐敗しているといっても過言ではない。一体この構造でどんな音が理想とされ、そして生まれてきたのか探る必要があるのではなでしょうか」


 メッツガーとウーの議論は平行線を保ったまま終了した。その後、ウーは岡島のところへやってきて言った。


「音の統一というのはなかなか難しいようですね。そしてホーエンベルクは聞けば定年間近だというじゃないですか。それならだれか有望な新人を発掘してプロジェクトに加入させた方がいい。誰か良さそうな新人はいませんか」


 岡島はワンの話を思い出した。もし社内に有望な新人がいなければ中国から派遣する心づもりかもしれない。そう思って岡島は口から出まかせを言った。


「何人か素質が見込まれる新人がいますので、ちょっとテストしてみてその中からベストチョイスしてみます」

「わかりました。人選は岡島さんに任せましょう。そしてこのプロジェクトチームで一台のリファレンスモデル(手本となるモデル)を作りたいのです。タン社長やクローゼ社長であろうと、メッツガーであろうと誰もが納得出来るものをです。それがあればクラウトミュラーの音のアイデンティティは確立され、統一感が出てくる筈です」


 岡島は8人のアウスビルドゥングをしているレアリングを集めた。まず、それぞれのピアノへの思いをインタビューしてみた。こういった重要任務の場合もそうだが、この仕事自体がピアノへの情念がなければやっていけない。その結果、5人はこの任務にふさわしくないと岡島は判断した。残ったのはフィリップ・バルケ、ユリア・シュルツェ、パウル・シェッケの3人だった。次のテストは実際に整音の基本作業をさせてみた。一本のハンマーに針を入れ、ペーパーで研磨する。とりあえず出来上がりの音は度外視して、手際の良さを見た。すると、フィリップとユリアの手つきがずば抜けてよかったのでこの2人を残した。


「では、次に一台のピアノの中に全体よりも柔すぎる音、硬すぎる音を混ぜているからそれを見つけ出して欲しい」


 このテストでもフィリップとユリアはほぼパーフェクトで互角であった。甲乙つけがたい。岡島は次にどうしようかと思って、結局2人にそれぞれピアノを弾いてもらうことにした。


 最初にフィリップがショパンのエチュード10-4を弾いた。テンポも速くノーミスで完璧。どうしてピアニストの道を目指さなかったのかと思った。


 続いてユリアが弾いたのはモーツァルトの幻想曲二短調。フィリップの弾いたものに比べればさほど難曲とは言えない。それにいくつかミスもあった。傍から見ればフィリップに軍配が上がったように見える。しかし……


「今回の任務には……ユリア、君を採用したい」


 ユリアは手を組んで喜びの表情となったが、フィリップは当然抗議した。


「なぜ僕じゃなくてユリアなんですか? 理由を説明して欲しいです」


 岡島は2人の目を交互に見て言った。


「フィリップ、君のショパンは完璧だった。たしかに演奏としてはユリアより聴き映えがするよ。だけどデュナーミクが少なくて、音色も単調だった。それに比べるとユリアのモーツァルトは本来そこまですべきではないくらいデュナーミクをつけて多彩な音色だった。音色に対する感性はユリアのほうがはるかに勝っていたのだよ。僕はユリアの聴覚的色彩感を買いたいと思う」


 純粋に整音技術者としての人材を選ぶなら腕力のある男性のフィリップを選んだかもしれない。しかし、今回のリクルートで求められたのは小手先の器用さではなく、究極的には音のイメージを自ら作り上げることができるかどうかであった。その意味でユリアは適材だった。


「寿和さんといっしょに仕事ができるなんて嬉しいです。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく。頼りにしてるよ」


 岡島がそう言うとユリアはニッコリ微笑んだ。ドキッとする笑顔だ。この人選において少しでも下心が働かなかったかと問われれば、岡島には弁明の言葉がなかったであろう。


 改めて岡島とウー、そしてユリアが集まってミーティングが行われた。その中でユリアが真っ先に発言した。ベテランたちを前にしても物怖じせずにハッキリと意見するところはドイツ人らしい。


「そんなに難しいことでしょうか。昔の音を聞きたければ博物館に行けばいいんじゃないですか? あそこにはクラウトミュラー創業当時のスクェアピアノや150年前のグランドピアノもありますよ」


 岡島がそれに反論する。


「確かにそうだが、もうかなり老朽化が進んで当時のままの音色とは言えないだろう。それにヴォルフェンビュッテル博物館では楽器の音を出すことは禁止されている」


 するとウーが岡島に反論した。


「社用で音を聞く必要があると言えば許可してもらえるだろう。何なら費用を払ってもいい。音も多少劣化はしているだろうが、その特色は残っている筈だ」


 ウーの一言で一行はヴォルフェンビュッテル博物館に出かけた。事前にクローゼ社長を通し、博物館専属技術者の立会いという条件付で楽器の音出し許可を得ておいた。


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