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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第四章 復活
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小さな灯火

 岡島のもとにジーモーという若い中国人研修生が来ていた。ジーモーはイーストスター社とは無関係で、イタリアの楽器店に所属している技術者であり、そこから派遣されて一カ月の滞在予定で3日間だけ岡島のもとで整音を学んでいたのである。


「それ、君の彼女かい?」


 ジーモーは事あるごとに携帯をいじっていたが、その待ち受け画面に可愛らしい女の子が映っていたので岡島は聞いてみたのである。


「ええ、中国にいる彼女ですよ」

「君はイタリアにずっといるんだろう? 彼女も寂しいんじゃないかい?」

「いや、しょっちゅうスカイプしてますからね。正直離れているっていう実感ないですよ。向こうだって“亭主元気で留守がいい”ってくらいじゃないですかね」


 ……時代も進歩したものだと岡島は思った。もしあの頃スカイプのようなものがあれば結美子とも別れずに済んだのだろうか……。あれから結実子とは何の連絡もない。今頃どうしているのだろうか。またナオミは妻子持ちの駐在員と別れてドイツ人の彼氏ができたらしいことは分かったが、その後のことは知らない。そうしてまるで取り残されるように岡島は色恋沙汰に無縁のまま年をとっていた。


「もう、愛だ恋だなんて年齢じゃなくなったな……」


 ジーモーが退出してからショパンのノクターンを弾いてみた。もうショパンの死んだ年齢となったが、この歳でなければ弾けないショパンだってあるんだ……。

 そうして長々と弾いていた時のこと、ふと気がつくと、背後に人の気配を感じた。振り向くと扉のところに1人の若い女性が立っていた。岡島と目が合うと彼女は、


素敵ね(シェーン)


 と言った。


「もしかして、ずっと聞いていたのかい?」

「ええ、近くを通りかかったら素敵な演奏が聞こえてきたので、つい」

「それはどうも。ところで見かけない顔だけど、新人さんかな?」

「はい、今月からここでアウスビルドゥングを始めるユリア・シュルツェです。よろしくお願いします」

「僕は岡島寿和。整音担当です。そのうち君も整音を学びに来てよ」

「ええ、是非」


 そう言ってユリアは手を振って部屋から出た。彼女のはじけるような明るさに岡島は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。そしてしばらくの間、ユリアの笑顔が頭から離れなかった。


(もしかして……一目惚れ? 自分の娘みたいな年代の女の子に……)


 岡島はしばらく恋愛とは無縁のまま年齢を重ねてしまっていた。そんな無防備な心に突然灯った小さな火を岡島は扱いきれなかった。


(いやいや、いい歳してみっともない……)


 そう思っているところに携帯が鳴った。ワン云烨ユンイェからであった。


ワンさん! おひさしぶりです」

「岡島さん、オストシュテルンの話はなくなりましたが、それ以降はいかがですか?」

「そうですね……あのような廉価商品ではないんですが、今度は高級品路線を打ち出したようで、変にうるさいんですよ。駐在員の女が出荷検査が終わったあとにチェックしてなんだかんだ理不尽なことを言ったり……もう出荷のトラックがそこに来ているのにやり直しを要求したり……」

「テレサ・リーですか」

「よくご存じですね。彼女は技術者じゃないんで、その要求を反映させるには色々考えないといけないんですが最後の数分で言ってくるでしょう。だから……」

「岡島さんもいろいろ苦労しているみたいですね。真面目な話、これからクラウトミュラーの古株の方々にはきつくなっていくと思いますよ。ここだけの話ですが、香港からジャック・ウーというテクニカルアドバイザーがやってきますが、彼が色々厳しく、また理不尽な要求突きつけてをくる筈です」

「どうしてそんなことをするんでしょうか」

「表向きは品質向上ですが、もう一つの隠れた目的はリストラですよ。タン社長はクラウトミュラー社内に中国人技術者を送り込める席をできるだけ開けておきたいのです」

「そんなことして何の特になるんですかね」

「さあ、どうでしょうか……それはともかく、何かお手伝いできることがあれば何でも言ってきて下さいね」

「ありがとうございます。それではまた」


 電話を切った岡島は重い心持ちでベッドに横たわった。


|| ||| || |||


 その週の出荷日、岡島は検査室に並べられたピアノにある検査票の記入事項をチェックした。整音の欄の多くにはこのように書かれていた。


 ──高音、低音が弱すぎる。力がない──


 記入したのは工場長のメッツガーであった。メッツガーはもともと大きく硬い音が好きである。岡島は……というより、日本人をはじめとするアジア人は繊細でやわらかめの音を好む傾向がある。当然この対立する音の好みは岡島が整音を担当して以来、常にぶつかっていた。これまではマイク・シュトレーゼマンやハインツ・クローゼ社長など岡島よりの好みに味方するものがいたのだが、シュトレーゼマンが退職し、クローゼ社長も出荷検査には口を出さなくなってメッツガーの意見が幅を利かせるようになったのだった。


「ヘア・オカジマ、高音と低音に硬化剤たっぷり注入しておいてくれ」


 ……結局そういうことか、と岡島は思う。岡島はできるだけ硬化剤を使用せずに音にパワーを持たせるようにしている。硬化剤はそれ自体で音色を持ち、後々バランスを取りづらくなるのである。そうして岡島がメッツガーの言う通りに修正作業を行っていると、テレサ・リーが入ってきて血相を変えた。


「ちょっと、何やってるの! 硬化剤入れないでってあれほど言ったでしょう!」


 日本人を含めアジアのピアノ業界では整音に硬化剤を使うことにある種の罪悪感を感じる傾向がある。それはまるで食品添加物を入れると健康に悪いとでも言わんばかりの話である。レイモンド・タン社長も硬化剤使用禁止を訴えてはいたが、実際にそれではヨーロッパ向けのものに関してはクレームとなりかねない。それで話し合った結果、東洋向けのものには硬化剤を入れないが、ヨーロッパ向けはできるだけ控える、というところで手を打っていたのである。


「いや、ヨーロッパ向けのものは良いという話だったでしょう」

「それは極々例外的な場合に限るわ。そんなに当たり前みたいに使われては困る!」


 そこメッツガーがやって来て間に入った。ちなみにメッツガーは英語が不得意でテレサ・リーはドイツ語が全くできなかった。だからこの2人が話すときには常に通訳を必要とした。議論は堂々巡り、しかも通訳越しなので時間はかかる。配送業者はすでに待っていて事の成り行きを見守ってイライラしている、そんな奇妙な光景がここ最近では当たり前になってきた。


|| ||| || |||


 そんな頃、ワンの言ったとおり、テクニカルアドバイザーとしてジャック・ウーが香港から派遣されてきた。ウーは日本のヤマカワにいたこともあって、流暢に日本語を話せた。そのことで岡島は安心したが、ウーは岡島に挨拶をした後、部屋を見渡して言った。


「この部屋は汚すぎます。私はクラウトミュラーの品質改善のために派遣されていますが、まずこういった基本的なところから改めていかなければなりません。岡島さん、もっと整理整頓して下さい」


 やりにくいな……岡島は思った。整理整頓は岡島の最も苦手とするところでもあったのだ。

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