腹の底
野原主導による廉価商品“オストシュテルン”の開発は失敗に終わった。イーストスター社のレイモンド・タン社長は既に次のプランに着手しており、オストシュテルンのことなど意にも介さなかった。何故ならタン社長にとって次のプランこそが本番だったからである。タン社長はドイツへ国際電話をかけた。
「你好、華商銀行ハンブルク支店のニーです」
「私だ、タンだ。そちらの用意は出来ているか」
「はい、華僑の優秀な弁護士と公証人をスカウトしておきました。いざという時には彼らが何とかしてくれますよ。そちらの方は如何ですか」
「ああ、うってつけの人物が向こうから擦り寄ってきたよ。これで役者は揃った」
「……では行きますかね」
「うむ」
電話が終わると、タン社長は香港へ飛んだ。そこで“うってつけの人物”に会うためである。空港で待っていた車はタン社長を乗せると尖沙咀の旧倉庫まで走って行った。到着したタン社長はその旧倉庫の扉を押した。ギイイというきしみ音を鳴らしながら扉が開くと、中から人が出てきた。
「タン社長、わざわざお越しいただいてありがとうございます」
「やあジャック、この倉庫は使えそうかね」
「ええ。作業スペースも十分に取れますし、何より作業済みの楽器を大量に保管できます。少し改装すればすぐにでも使えます」
タン社長が“うってつけ”と言ったこの男……ジャック・ウーはイーストスター香港工場の現場監督として採用されていた。タン社長は香港工場の新設にあたり、技術的な指導者を募集していたのまが、それに応募してきた者の一人がジャック・ウーだった。ウーは日本のヤマカワ本社工場をはじめ、ドイツのいくつかのメーカーを渡り歩いてきた優秀な技術者だった。タン社長はリーの経歴を見て即座に採用を決定したのだった。
「ジャック、実は君にはここの現場監督以上にやってもらいたい任務があるんだ」
「任務? 何でしょうか」
「ドイツへ行って、最近ウチが買収したクラウトミュラーのテクニカルアドバイザーをやってもらいたい」
「私がですか? 伝統あるメーカーのベテラン技術者が私ごときの意見に耳を貸すとは思えませんが。現に野原は現地でさんざんだったじゃないですか」
「別に連中が君の意見に耳を貸すかどうかはどうでもいい。とにかくうんと厳しい基準を連中に突きつけるんだ。それで嫌気がさして辞めるかどうかはあいつらの問題だ」
「かしこまりました。然るべく対処いたします」
タン社長が去って行った後、ジャック・ウーは携帯を手にしてある番号にかけた。
「你好、ウーです。やはりタンは掛かってきましたよ」
「……中国語はよそう、誰かに聞かれるとまずいからな。ドイツ語で話してくれ」
「すみません。はっきりとは言っていませんでしたが、タンはあきらかにあのプランを匂わせていました。私がドイツへ行くことになりましたよ」
「うまくいきすぎて怖いくらいだな。ま、レイモンドは普段は偉そうにしているが根は単純でわかりやすい男だ。ジャック、ドイツへ来て困ったことがあったらすぐに連絡してくれ」
「お心遣いありがとうございます。ではよろしくお願いします」
電話を切ると、ジャックはそこから歩いて5分ほどの距離にあるマンションへと向かった。そしてそのある一室の呼鈴を鳴らすと、中から若い女性が出て来た。ウーがこれまで見たことのないほどの美人だった。ウーが彼女を見つめたまま何も言わないので、女性が痺れを切らして言った。
「……どうするの、やめる?」
「いや、入らせて貰おう」
そしてウーは部屋の中に入って行った。ここは一見普通のマンションに見えるが、各部屋の中にいるのは一般の住人ではなく、娼婦である。客はこのように一軒一軒呼鈴を鳴らして娼婦の品定めをすることから、俗にピンポンマンションと呼ばれている。
ウーはベッドの上にどかっと腰掛けると、女をじっと見つめた。
「お客さん?」
「……いい女だな。聖人君子の理性をも崩壊させる色香だ。娼婦にしておくにはもったいない」
「ちょっと、よしてよ……」
女が満更でもない気分で背中のファスナーに手をかけると、ウーはその背後に擦り寄り、ドスの効いた低い声で言った。
「もったいない……長春の親御さんが今のあんたを見たらさぞ嘆くだろうな。香港大学経済学部を首席で卒業し、おまけにMBAの所有者……大した経歴じゃないか。だが、買物中毒が祟って借金がかさみ、その挙句こんなところで売春か……」
ウーがそう言うと女は振り返り、激しい憎悪の眼差しを向けて言った。
「ちょっと、あんた何者? どうして私のこと知ってるのよ。でも生憎私を脅したところで何も出て来やしないわよ」
「心配するな。私はあんたにたかるほど金に困っちゃいない。逆に金ならたんまりやろうという話だ。その代わりにあんたの高いインテリジェンスを売ってくれ」
「……一体何をしたらいいの?」
「もし興味があるなら、明日この場所に来い。そこで詳しいことを話そう」
そう言ってウーは住所を書いたメモと3000香港ドルを置いて出て行った。




