復帰
「技術リーダーの剣持です。よろしく」
岡島が初めてこの男……剣持邦夫に会った時、何だか苦手そうな人だと思った。そして日を追うごとにその予感が当たっていることを思い知るのだった。
ヤマカワデュッセルドルフ支社では鳥井のような本社出向の駐在員は外部のアーティストやディーラーの対応に当たっており、内勤は専ら現地採用の技術者に任されていた。現在その取りまとめをしているのが剣持邦夫であった。
「内勤の仕事は日本から運ばれて来たピアノの状態をチェックし、問題があれば調整することです。ほとんどの場合、工場出向の段階で調整は出来ている筈なので、現実には調律するだけで大丈夫でしょう」
剣持の言う通り、コンテナーから運ばれて来たピアノは完璧とは言えないまでも、調律以外は一般的な納入レベルに仕上がっていた。それで岡島が調律しただけで仕事を終わらせたところ、剣持のチェックが入った。
「ダンパーが不揃いじゃないですか。こんなんじゃ外に出せませんよ。クラウトミュラーの出荷検査ではこの程度でパスするんですか?」
「すみません……」
「だいたいですね……」
謝ってもまたネチネチ言ってくる。確かによく見れば不揃いなところはあるが、ヤマカワの工場出荷レベルはクリアしている。後からわかってきたが、こういうのは上下関係を誇示するための剣持一流のパフォーマンスのようだった。
そのことからも分かるように剣持は上下関係というものに非常にこだわった。下の人間には辛辣な態度を取るが、上の人間にはペコペコ諂った態度を取っていた。時にはそれがあまりにあからさまなので笑えるほどだった。
岡島は剣持から下の人間と見なされていた。その上、ドイツの一流メーカーで働いていたということが剣持のコンプレックスを逆撫でしているらしく、日に日に岡島に辛く当たっていった。
(辛いなぁ……)
岡島は一度鳥井に相談しようとも思ったが、鳥井は出張続きでなかなか会えなかった。もう仕事も辞めてしまいたいと思ったが、辞めてどうするというのだ。自問自答しながら気晴らしに町に出てみた。ヴォルフェンビュッテルと違い、デュッセルドルフでは時折日本語が聞こえてくるのが不思議だった。岡島はそのことに懐かしさを覚えることはなく、むしろ煩わしかった。
そんな時、見覚えのある女性の姿が現れた。ナオミだった。ナオミには一応メールでデュッセルドルフに来ることを知らせてはあったが、大したリアクションはなく会おうなどという話にもならなかった。岡島が声をかけようと思った瞬間、影からドイツ人らしき青年が現れて彼女の手を握った。
(そうか、妻子持ちの男とは別れて違う男性と一緒になったんだな)
岡島はナオミに背を向けて心の中で別れを告げた。
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それから約半年の月日が流れ、フランクフルトで楽器フェアが開催される時期となった。ヨーロッパ中のヤマカワ現地法人の現地社員が総動員で準備に当たっていた。ただ、いくら大人数が動員されたところで一度に同じ場所で調律するのは限度がある。それで順番待ちで暇になることも多々あった。
その暇な時間に岡島は古巣であるクラウトミュラーのブースに行ってみた。するとそこにはスーツ姿のゲオルクがいた。ゲオルクは岡島の姿を見つけると声をかけた。
「おおトシ、来てたのか」
「ゲオルク、いつの間にかクラウトミュラーに戻っていたんだね」
「ああ。今は営業やってるよ。なかなか楽しいよ。トシはどうだい、仕事楽しいかい?」
「いや、それがね……」
岡島はヤマカワでの辛い思いをぶちまけた。しばらく聞いていたゲオルクが岡島の目をじっと見て言った。
「トシ、クラウトミュラーに戻って来ないか?」
「え? 働き口はあるのか?」
「ああ。ジギーを覚えているか? 彼が来年の1月で定年を迎えるんだ。それで彼の後継者を探してるところだったんだよ」
ジギーとは、ジークフリート・シェーンヴァイデの愛称だ。ジークフリートの担当は整音であった。
「つまり、整音の口があるということか!」
「そういうこと。な、悪い話じゃないだろう」
ピアノ工場での整音はこの業界では憧れのポストだ。しかしどれほど憧れたとしても、そこにつけるかどうかは運に頼るしかない。その運が思わぬ形でやって来たのだ。
「うん、凄い話だよ。帰ってじっくり考えさせてもらうよ」
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楽器フェアが終わってしばらく経った頃、岡島の職場にちょっとした変化があった。産休で休んでいたカール・バウハウスが復帰したのである。本来ならバウハウスが技術リーダーに復帰するのが筋であるが、バウハウス本人の希望により剣持がそのままリーダーを続けることになった。元々バウハウスと剣持は仲が良くなかったようだったが、岡島とバウハウスとは何故か馬が合った。
そしてバウハウスは整音技術に長けていた。ある時、ある顧客が力強い音を希望していたのに、どういうわけか大人しい音のピアノがその顧客向けに手配されてしまった。気がついた時には出荷直前で、しかも同機種の在庫が切らしていたため変更はできずパニック状態になった。ところがバウハウスは事もなげに言った。
「問題ないさ。整音でなんとかなるよ」
そう言って僅か1時間でバウハウスは大人しいピアノを力強いものに大化けさせてしまった。
「一体どうやったんですか、余程良い硬化剤でも入れたんですか?」
「いや、今回は硬化剤は使わなかったよ。そもそも僕はあんまり硬化剤を使わないんだ。ペーパーと針をうまく組み合わせればどんな音でも作れるよ」
「凄いですね、是非教えて下さい!」
岡島はバウハウスから今回どのようなテクニックを使ったか詳しく教えてもらった。いいこと教えてもらったと喜んで自分の仕事で試してみたが、バウハウスのやった時のような効果が出なかった。
「形だけ動作を真似ても、必ずしも同じ効果が出るとは限らない。微妙な力加減やスピードで変わってくるんだ。また、個体差もあるね。とりあえず始めのうちは見よう見まねでやってみて、効果が現れるまで続けてみる。もし効果が現れたらそれはマスター出来たということだ」
「なるほど、そうなのですね。頑張ってみます」
そのように岡島はバウハウスから整音のテクニックを手取り足取り教わって行った。それまで辛いばかりと思っていた仕事もだんだん楽しくなってきた。クラウトミュラーに戻りたいという意識も薄れつつあったある日、ゲオルクから電話がかかってきた。
「あの話、まだ返事していないようだが気はあるのか? もしないんだったら早めに言ってくれ。他を探さなくてはならないし」
「ごめん。その気はあるんだがもう少しだけ考えさせてくれないか」
「うーん、今月末までに返事もらえるか? それ以上は待てない」
「わかった」
そうだ、早くクラウトミュラーと正式に契約結ばなければ。しかし、最近はヤマカワでの仕事も楽しくなり、転職や引っ越しの面倒を考えると少し億劫な気持ちも生まれていた。そんな矢先にバウハウスが岡島を部屋に呼んで言った。
「なあ、剣持に代わって岡島君がここのリーダーにならないか?」
「えっ、僕が?」
「僕から見て剣持よりも岡島君のほうが技術力はあると思う。少なくとも整音については間違いなくそう言える。それに君はルートヴィクスブルクを卒業しているから資格的にも適任だと思う」
バウハウスが熱心に説得するのをじっと聞いていたが、やはり彼には言った方が良いと思い、他言無用という断りを入れて話した。
「実は、アウスビルドゥングを受けたクラウトミュラーの整音担当が定年を迎えるのでその後継者にとお誘いを受けているんです。でも特にバウハウスさんが来てからはここでの仕事にもやりがいを感じて、ちょっと迷い始めているんです」
するとバウハウスは顔色を変えて声高に言った。
「それは君、クラウトミュラーに行くべきだよ。そんなチャンス滅多にあるもんじゃない。今すぐにでも向こうに返事を出すべきだ!」
バウハウスに言われて岡島はハッとなった。そうだ、何を迷っているんだ、自分の生涯でまれにみる幸運のチャンスではないか。そう思って岡島は仕事を終えると早速ゲオルクに電話を掛けた。
「ゲオルク、やっと決心がついたよ。僕はクラウトミュラーに復帰する。そして整音をしたいんだ。よろしく頼む」
「トシ……決心おめでとう。ようこそクラウトミュラーへ!」
第2部 終
第三章終了、第四章へ続く。




