景気の谷
岡島のアウスビルドゥングはいよいよ終盤を迎えていた。学校もこの春で最後の第6ブロックを残すのみとなり、そのスクーリング中に学科試験があって、夏に実技試験が行われる。両方の試験に合格すれば晴れて卒業となる。年末から岡島は試験に向けて猛勉強を始めていた。
その頃、少し前から会社では不景気の匂いが立ち込めていた。仕事がなくブラブラする従業員の姿も目立ち始め、ついに会社では時短労働に踏み切った。すなわち労働時間を短くしてその分だけ賃金をカットするというものだ。クラウトミュラーだけでなく、この頃は業界全体が不景気の煽りを受け、不渡りを出したり製造廃止するメーカーの話も聞こえてきた。
そんなある日のこと、ゲオルクが沈痛な面持ちで岡島のところにやってきた。
「トシ、メッツガー工場長が呼んでるよ。話があるって」
「メッツガー工場長が? 何の話だろう」
「……とにかく行って来いよ。その時に話してくれるさ」
どうやらゲオルクはそれが何の話かわかっている様子だ。しかも良くない話だ。嫌な予感を感じながら岡島はメッツガーの部屋を訪ねた。
「お呼びでしょうか」
「ああ、仕事中に呼び出してすまない。ところで君は今年の夏に卒業を控えるが、その後の進路は決まっているのかな?」
……なぜそんなことを今更聞くのだろう、希望は伝えてあった筈なのに。岡島はそう思った。
「既にお伝えしていた通り、卒業後も会社に残って働くことを希望しております」
するとメッツガーは困った顔になって言った。
「そのことなんだがね……知っての通り、我が社の経営状態はあまり芳しくない。ピアノは売れない、経費はかかる、銀行は貸し渋る……」
「はあ……」
「もう削るところは人件費を残すのみとなった。ところが、正従業員の理由のない指名解雇は法的に認められない。すると、アウスビルドゥング卒業生の採用をやめるしか道がないんだ……」
「それはつまり……?」
「君たち3人を卒業後に我が社で採用出来ないということだ……本当に申し訳ない!」
メッツガーは起立して岡島に頭を下げたが、岡島はどう返答したら良いかわからなかった。事態がよく飲み込めなかったのである。とにかく勉強の合間に改めて就職活動する必要があった。勉強だけでも重荷となっていたのに、さらに重い課題が岡島の肩にのしかかって来たのだ。ありとあらゆるメーカーや工房に願書を出したが、ことごとく断られていった。
そんな状況のまま第6ブロックの時期となり、岡島はルートヴィクスブルクの地へ足を踏み入れた。クラスメイトたちの話を聞くと、どこも同じような状況だった。
「トシ、君は日本に帰った方がいいんじゃないか? ドイツは今難しいと思うよ」
そのように言ってくる者もいた。しかしこのまま本帰国するのは何か中途半端な気がしたのだ。どうせ帰るならもっと何かを成し遂げて故郷に錦を飾りたい。
クラスメイトの中には意図的に落第を企てる者もいた。すなわち卒業の時期を後に伸ばして、景気回復の見込める時期に就職しようというものだ。それはある意味賢い選択とも思われたが、岡島はそれを真似する気にはなれなかった。
思えば、岡島たちは逆に卒業を早めることにより、不景気の真っ只中にピンポイントでぶつかってしまったのだ。何という不運だろう。岡島は自分の選択の結果こうなったことは重々承知の上で、自分の運命や期間短縮に誘ったゲオルクを恨む気持ちが拭えなかった。
(ああ、どうしてあの時ゲオルクの誘いを断らなかったのだろう……いや、僕はちゃんと断わったのにゲオルクがしつこく言い寄るものだから……)
そんな人のせいにしている自分に気がつき自己嫌悪に陥ることもあった。そんな気持ちのまま試験を受けたので、かろうじて合格点は取れたものの、普段「2」が取れるところを「3」まで落としていた。悶々とした気持ちを抱きながら岡島はルートヴィクスブルクでの生活に終止符を打った。
ヴォルフェンビュッテルに戻ってしばらく経ったある日、岡島の自宅の電話が鳴った。
「はい、岡島です」
「おう、俺や。鳥井や。デュッセルドルフの……」
「ああ鳥井さん、久しぶり」
「ちょっと話あるんやけどな、お前、もうすぐ卒業やったな。その後の進路は決まっとるんか?」
「いや……クラウトミュラーも結局不景気で採用出来ないと言われて……」
「そら、ちょうどええわ。お前、ウチの会社来えへんか?」
「え? ヤマカワデュッセルドルフ支社に?」
「そうや。実はな、技術リーダーのドイツ人が産休で1年間休みおんねんや。ほんでその欠員を埋めなあかんのやけど、お前のこと思い出したんや」
「その技術リーダーの後釜を僕がやるということ?」
「いや、それは今おる現地採用の日本人にやってもらうことなってんねん。そのサポートをする人間を探してるんや」
「そうか……ありがたい話だけど、しばらく考えさせて貰えるかな」
「おう、ええ返事待っとるで」
電話を切った後、岡島は思った。確かにありがたい話ではあるが、ドイツに来てまでヤマカワと関わりたくないと。それにまだ返事の来ていないメーカーもあり、そこで拾ってもらえるかもしれないという希望が捨てきれずにいた。
(まだ卒業まで少しあるし、返事はギリギリまで伸ばそう……)
ところがそうもいかない事情が起こった。外人局からこのような通達が来たのである。
──あなたの滞在許可はアウスビルドゥングの為という名目なので、期間短縮された場合、その卒業の月までとなります。それ以降は就職など特別な理由がなければ滞在許可の延長は認められません──
それを読んで岡島の顔は青ざめた。逆算すれば今すぐに採用証明を取り付けなければ、滞在許可が切れてしまう。
(仮にもう少し待ってメーカーから良い返事が来たとしても、ビザ申請には間に合わないな……)
一晩悩んで考えた結果、岡島は受話器を取り、鳥井明に電話をかけた。
「もしもし。あの話、受けることにするよ」
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その夏、実技の卒業試験が行われ、岡島たちクラウトミュラーの3人は無事卒業出来た。ベニーは故郷のベルリンで楽器店に就職することが決まり、ゲオルクはしばらく父親の経営する薬局を手伝いながらチャンスを伺うという。
「トシ、良かったな。就職先が見つかって」
ゲオルクがそう言ったが、岡島は良かったという気分ではなかった。でも新しい環境で頑張ればいつかまた天職に巡り会えるだろうと信じることにした。
いよいよ出発の日、岡島はスッカラカンになった自分の部屋を見つめながらこれまでの出来事に思いを巡らせた。そして鍵を閉め、それを大家に手渡すと、岡島は新天地デュッセルドルフに向けて歩き始めた。




