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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
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期間短縮

 岡島がクラウトミュラーでアウスビルドゥングを始めてから早くも一年が過ぎようとしていた。6回あるスクーリングも2回目を既に終了し、当初は大変だった学校の勉強も要領を得て余裕が出てきた。そんな頃、同期の1人であるゲオルクが岡島とベニーを呼び寄せた。


「ちょっと君たちに相談があるんだがな。アウスビルドゥングの卒業を早めないか?」

「早めるって、どうやって?」


 岡島が尋ねると、ゲオルクはあたかも朗報をもたらすかのように言った。


「普通アウスビルドゥングは三年半かかる。つまりこのまま行けば三年後の春に卒業ということになる。だけどある程度良い成績を残していれば、申請すれば再来年の夏に卒業することが可能なんだ」


 岡島は思った。卒業が早まるのは自分にとって必ずしも有利とはいえない。自分はアウスビルドゥングという名目でビザを受けているが、卒業時期を早めることはビザの期限を短くするということでもある。


「ゲオルク、折角だけど僕はその話に乗らないことにするよ。僕にとって卒業を早めるのはあまり魅力的ではない」

「なあトシ、君だってもういい年齢じゃないか。卒業が早ければ時間も節約出来るし、高い給料も早めに貰える。どう考えても得だろう」


 ゲオルクは頭が良く、何でも合理的に割り切って考える傾向があった。だが同時に目先のことに囚われやすいきらいもあり、その意見には必ずしも承服しかねないものが付きまとっていた。


「とにかく、一度考えさせてくれ。お互い人生が掛かっていることだからな」


 その後、結局岡島はゲオルクの提案を飲むことにした。それはベニーもアウスビルドゥングの期間短縮を強く希望しており、岡島だけ抜けるわけにいかなかったことがある。

 そこで岡島とベニー、そしてゲオルクは市内のIHK(手工業会議所)へ出かけてアウスビルドゥング期間短縮(フェアクルツング)を申請した。申請書を受け取った担当官が言った。


「確かに申請書は受理しましたが、まだ期間短縮が決定したわけではありません。次回第3ブロックのスクーリングで2,5以上の成績を残す必要があります。その成績証明書を提出して頂いたところで期間短縮が決定されます」


 2,5以上……岡島としてはギリギリの線だった。ドイツの成績は一般に6段階で、次のようになっている。


 1 ゼーアグート(秀)

 2 グート(優)

 3 ベフリーディゲント(良)

 4 アウスライヒェント(可)

 ──

 5 マンゲルハフト(欠)

 6 ウンゲニューゲント(不可)


 つまり通常、試験では4以上が合格点となるが、次回のスクーリングでは優と良の間を取らなければならないということだ。無論岡島としては、あえて低い成績を取れば期間短縮せずに済むわけであるが、それは岡島のプライドが許さなかった。

 ともあれ、岡島は好成績を残さなければならないというプレッシャーを背負いながら、3度目のスクーリングのためにルートヴィクスブルクにやって来た。寮の自室に落ち着いた頃、岡島の携帯が鳴った。画面を確認したが知らない番号だった。


「もしもし、岡島です」

「おお、岡島か。俺や、調律学校の同期の鳥井や」

「鳥井さん!?」


 鳥井明……岡島とは調律学校の同期生で岡島より2歳年上だった。鳥井は学校を出た後、ヤマカワ本社に入ったのである。


「俺な、ちょっと前にデュッセルドルフ支社に転勤したんや。岡島、お前もドイツに来とったんやなあ、大池部長から聞いたで」

「大池部長から……」

「ほんでお前、いつまでドイツおんねん。俺の任期はあと3年やからもうしばらくこっちおるけどな。折角やからお互いドイツおる間に一回会おうや」

「そうだね、一回会いたいな。僕のアウスビルドゥングが本来三年後の春に卒業なんだけど、もしかしたら早まって再来年の夏になるかもしれない。その後どうするかはまだ決めてないよ」

「ほんでお前今どこの町におるんや」

「普段は北ドイツのヴォルフェンビュッテルっていう町に住んでいるけど、今はスクーリングでシュトゥットガルトの近郊ルートヴィクスブルクにいるよ。あと2カ月ね」

「そうか。ほな、俺がそっちの方よることあったらまた連絡するわ」


 しかし、結局第3ブロックの期間中に鳥井と岡島が会うことはなかった。


|| ||| || |||


 そして第3ブロックも後半に入り、いよいよクラッセンアルバイト、即ちテストの時期に差し掛かった。


(因みにクラッセンアルバイトとは学校の成績を表すためのテストであり、これとは別にプリューフングというものがある。こちらは資格のためのテストで、アウスビルドゥング全期間中2回行われる。すなわち中間試験ツヴィッシェンプリューフング卒業試験アプシュルースプリューフングである。中間試験は第4ブロックで行われ、この成績が悪いと落第となる)


 最初に苦手な文系科目のテストがあったが、こちらが思いの外成績が芳しくなかった。特に計画組織学では5を取ってしまい、これが全体の足を引っ張ることになった。


(まずいな、理系科目で満点に近い点数を取らなければ全体で2,5はキツイかも……)


 学校の成績はペーパーテストの成績だけでなく、普段の授業での発言内容も反映させられる。ドイツ語が自由とは言えない岡島にとって、この仕組みは不利だ。だからペーパーテストで出来るだけ成績を上げておく必要がある。


「トシ、ビール飲みに行かないか」


 ルームメイトのグィドが誘うが、岡島は泣く泣く断る。歩いても寝ても覚めてもひたすら勉強の日々。屑篭には勉強で使った紙がいつも一杯だった。


(ああ、十代の頃こんなに勉強してたら東大入れたかもしれないな……)


 そう思うほど勉強していた。恐らく岡島の生涯でこれほど勉強した時期はなかったであろう。


 そして第3ブロックも終わりに近づき、いよいよ成績証明書を受け取る日がやって来た。


「ヘア・オカジマ」


 先生から名前を呼ばれて岡島は教壇の前に進み、成績証明書を受け取った。そして恐る恐る中身を見ると……


 総合成績 2,2


「やった、クリアだ!」


 岡島はベニーとゲオルクの方を向いて言った。彼らもやはりクリアしていた。


 第3ブロックが終了し、ヴォルフェンビュッテルへ帰った岡島とベニー、そしてゲオルクは早速IHK(手工業会議所)へ行き、成績証明書を提出した。それを受け取ると担当官は言った。


「よく頑張りましたね。それではみなさんの卒業試験は再来年の夏に行われることになりましたので、それまでよく準備しておいて下さい」


 岡島は担当官の言葉を聞きながら安堵の気持ちと努力の成果があらわれた達成感で心が満たされた。だが後になって岡島はもう少し考えて決断すれば良かったと後悔するのであるが、その時の彼にはそのことを知る由もなかった。

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