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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
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極寒の新学期

 シュトゥットガルト行きの電車に乗っている間に雪が少しずつ積もり、終点に着くころにはすっかり雪国へと様変わりしていた。


「うわっ、寒つ」


 インターシティエクスプレスを下車して近郊電車に乗り換える時、岡島はあまりの寒さに震え上がった。気温はマイナス5度。失恋の涙も凍って乾ききってしまうほどの寒さだ。


 ドイツへ戻って新年早々、いよいよ学校が始まる。学生寮へはルートヴィクスブルクより一駅先のアスペルクから歩いて行く。雪が既に深く積もっていて、トランクのキャスターが地面に届かない。それで岡島は仕方なくトランクを雪の上を滑らせながら引っ張った。その後はまるで雪ならしをしたように平らになり、その後を2人のおばあさんが歩いてきた。


「まあ親切だこと。ほほほ」


 岡島はそのおばあさんたちに愛想よく微笑みかけたが、内心ではちくしょうと呟いていた。そして学生寮に着く頃には息切れがして腕もパンパンになっていた。


 岡島は入寮手続きを済ませると、充てがわれた自室へ入って行った。そして一通り落ち着いて携帯を取ってコールしようとした瞬間、


(そうだ、もう誰にも報告しなくてもいいんだっけ……)


 そう思ってまた気持ちがしんみりした。こういう時の寂しさが岡島にはいちばんこたえる。結実子は稀に見るいい女だ。逃した魚は大きいではないが、何があっても絶対手放すべきではなかった。どうしてこうなったんだろう、あの時ああしていれば、こうしていればというタラレバの思考が岡島の頭の中を駆け巡る。


 そんな後ろ向き思考の最中、部屋の扉が開いて40歳くらいの男性が入ってきた。皮のツナギにヘルメット、如何にもバイカーという感じだ。どうやらルームメイトらしい。


「俺はグィド・フランケンシュタインだ。あ、言っとくが俺はモンスターじゃないぞ。ハハハ」


 恐らくよく言われるのだろう。本当はあまり言われたくないのかもしれないが、それを逆手にとって冗談にしているのだろう。


「僕はトシカズ・オカジマ。よろしく」


 そして彼らは握手を交わした。ルームメイトがあまり若すぎないのは岡島にとってありがたかった。うるさくされるのは今の彼にとって辛かったからだ。


|| ||| || |||


 翌朝6時に起きて朝食を取り、7時には学校へ行くバスが出発する。辺りは真っ暗でしかも寒い。学校へ到着すると、クラヴィーアバウの教室は2つあった。1つはアビトゥーア(大学受験資格)所有者のクラス、もう一方は非所有者のクラスであった。

 岡島がアビトゥーアなしの教室に入ろうとすると、背後から同じ会社のベニーが声をかけてきた。


「トシ、君はアビトゥーアクラスの方だろう」

「そうなのかい? 僕は日本の高校を卒業しているけど、こっち(ドイツ)で何に該当するのかわからなくて……」

「だったらアビトゥーアクラスにおいでよ。僕もゲオルクもそっちだし」


 ゲオルク・ローテンホーフは岡島やベニーと同じクラウトミュラーのアウスビルドゥング研修生だ。彼は大学中退なので当然アビトゥーアクラスということになる。

 8時になるとクラス担任のシュタイナーがやって来てオリエンテーションを行った。それが約一時間ほどかかり、その後は早速授業が始まった。科目は数学や音響学などの理系4科目、経済や英語なと文系5科目、その他製図、実技など全部合わせて13科目あった。多くはピアノとは関係ない一般教養だ。外国人である岡島にとって理系科目はさほど問題なかったが、文系科目はサッパリであった。おまけに宿題が、


「経済の教科書20ページ読んでくるように」


 などというとんでもない代物だった。岡島は結局辞書を引きながら5ページ読むのが精一杯だった。それから毎日毎日四六時中勉強ばかり。それでも授業はチンプンカンプン。頭脳はほとんどパンク状態だった。

 しかし岡島にとって幸いだったのは、頭を勉強に使い過ぎて、失恋の悲しみにくれる余裕がなかったことだ。もしこの苦学がなければ岡島は失恋から立ち直れなかったかもしれない。


 そんなある日、勉強している最中に携帯が鳴った。画面を見るとナオミからであった。ちなみに結実子と別れたことはまだナオミには言っていなかった。


「もしもし。寿和さん、今シュトゥットガルトの近くにいるんでしょ? 私、週末そっち行くんだけど、会えないかしら?」

「週末?」


 岡島は週末は勉強にたっぷり時間を使いたかった。しかし考えてみればそれでは煮詰まってしまう。気分転換に出かけてもいいか……と思い直した。


「うん、わかった。週末会おう」

「嬉しい。じゃ、週末ね」


|| ||| || |||


 その週末、岡島は中央駅でナオミと再会した。結実子は坂本と出会ってすっかり変わったが、不倫真っ盛りのナオミは相変わらずという感じだった。岡島にはそれが不思議に思えた。


「ねえ、どこか美味しい店ない?」

「いや、こっちあんまり出てこないんで、よく知らないんだ」


 するとナオミはヘソを曲げ始めた。


「信じられない! 私が来るってわかってるのに何の下調べもしていないの?」


 岡島は女性にプリプリされることがとても久しぶりに思えて懐かしい気持ちになった。取り敢えず店構えのお洒落なスペイン料理のお店に入った。テーブルにつくなりナオミは愚痴って言った。


「もう、そんなことじゃ彼女さん来た時に呆れられちゃうわよ」


 それを聞いて岡島は口調を改めて重々しく言った。


「実はね、彼女とは年末帰国した時に別れたんだ」


「ええーっ!!」


 ナオミの驚く声があまりに大きかったので、店中の注目を浴びてしまった。


「ちょっと、声大きいよ……」

「ごめん……でもどうして? もう結婚しそうな感じだったじゃない」


 岡島は答えるべきか一瞬迷ったが、結局言うことにした。


「実は僕がドイツにいる間に彼女に近づいてくる男がいてね、そいつ妻子持ちなんだけど、しつこく言い寄って来て……その後どこまで行ったのか知らないけど、年末会った時には彼女はすっかり様変わりして、僕への気持ちも冷めていた」

「まあ……そうたったの」


 岡島はパエリアを食べ尽くしてから言った。


「実は僕、知ってるんだ。君のその……男女交際のこと」

「うん、ジングから聞いたんでしょ。彼言ってたわ。私の不倫のこと寿和さんに話したって。でもその後、寿和さんが何も追求しなかったから、あまり私のことに関心ないんだなって思ったの」

「関心ないわけじゃないよ……で、どういういきさつなんだい?」

「彼とは語学コースで同じクラスだったの。何だか話が合って食事やコンサートに誘われるようになって……男としてはあまり興味はなかったけど、一流商社のエリート社員ってことでそういう人と人脈を持つのは悪くないって思ってたの。でもそうしている内にいつの間にか深入りしてしまってたわ」

「その人が結婚しているっていうのはわからなかったの?」

「うすうすそんな気はしていたけど、ある時彼の左薬指に指輪の跡があるのに気がついたの。多分、私と会う時には外しているんだと思った。それで追求したらアッサリ認めたわ。妻子持ちだって。でも『君のことが好きだ。この気持ちに偽りはないから、このまま関係を続けて欲しい』って言うのよ」

「え? ちょっと待って、君はそれでいいって言ったのかい?」

「うん。別に私、他に好きな人もいなかったし、どうせ彼の家族がこっちに来たら終わる関係だと思って」


 岡島はやりきれない気持ちになった。結実子もこんな風に手篭めにされたのかと……。そんな岡島の心中を察したかのようにナオミが言った。


「ねえ、今元カノさんのことと重ね合わせたでしょ。でもね、私がこんなこと言える立場じゃないけど、今の結果を選択したのは寿和さん自身よ」

「僕自身が選択したって?」

「そう。もともと彼女さんかドイツかどちらかしか選べなかった。本当は心の奥底でわかっていたはず。その上で寿和さんはドイツを“選択”したのよ」


 岡島はそれに反論できなかった。言われてみればそんな気がするのだ。


 中央駅で別れ際、ナオミが申し訳なさそうに言った。


「久々に会ったのに偉そうなこと言ってゴメン。本当は私の方もうまくいかなくなってたんだ。それで何だか寿和さんに会いたくなったの」


 岡島はナオミの言葉を聞いてハッとなった。そして自分の内に彼女への好意があることも自覚した。だが、それを今彼女に伝えることはすまいと思いそのまま別れることにした。


「そうか……じゃ、気をつけてね」

「うん、寿和さんも」


 そうしてナオミの乗った電車はデュッセルドルフに向かって走り出した。この時、岡島はまた何かを自分で“選択”したのだと感じた。

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