オーバー
「コロッケ屋さん?」
岡島は電話口で素っ頓狂な声を出した。
「うん、コロッケの美味しい店があるんですって。是非そこでご馳走したいって坂本さんが言うの」
娘の誕生日に弾くために結実子からピアノを習っていた坂本という男は、練習の甲斐あって無事に娘の誕生日で曲を弾きこなし、とても喜ばれたという。それでそのお礼にと、結実子は坂本から食事に誘われたとのことである。
「でも妻子持ちなんだよね、その人。そういう男性と食事っていうのはどうかなあ」
「もちろんフレンチとかいかにもデートみたいな洒落た店なら躊躇するわよ。でも、ごく庶民的なカウンター席のコロッケ屋さんよ。間違ってもデートで行くような所じゃないわ」
岡島は考えた。妻子を持ちながら若い女性を食事に誘うとはどういうつもりだろう。しかし、娘のために一所懸命ピアノを習ったりするくらいだから家族思いじゃないか。それなら結実子に対しても滅多なことはしなきだろう……。
「そうか、その人も何か感謝の気持ちを形にしたいのだろうし……まあ、一度くらいなら行ってきてもいいかもね」
「うん、わかってもらえて嬉しい……」
岡島は、これでいいんだよな、と何度も心の中で自分自身に問いかけた。ところが坂本の結実子へのアプローチはこれで終わらなかった。
「お話ししてたらね、サルの話になって動物園に行こうってことになったのよ」
「一緒に映画に行ったんだけどね、それが子供向けの怪獣映画なのよ。ありえないとか思ったけど、これが案外面白かったのよ」
結実子は最初のうちは坂本からの誘いがあっても岡島の許可を確認していた。しかし徐々に岡島に断ることなく坂本の誘いを受けるようになった。その誘い方にはある共通点があった。コロッケ、動物園、怪獣映画など庶民的、子供っぽい、女性として誘われている感じがしない。それゆえ警戒心も薄れるが行ってみるとなかなか楽しい。案外策士かもしれない。岡島は徐々に坂本という男に猜疑心を抱くようになった。その疑惑が決定的になったのはある日の結実子の報告だった。
「坂本さん、奥さんとうまくいってないんだって。もう別れようと思っていつも離婚届を半分記入してカバンに入れてるの。私も見せてもらったわ」
「ちょっと、それ不倫男の典型的な手口じゃないか。ユミちゃん、もうその男とは関わらない方がいい」
「じゃあ寿和さん、私のこともっと大切にしてよ! 坂本さんは寿和さんに似ていると思ったけど全然違う。もっと気が利くし、ずっと器が大きいわ!」
それから大ゲンカになり、2人はそれぞれ我慢していたことを激しくぶつけ合った。出来ればこんな形でなく、ちゃんと落ち着いて話し合って解決したかった……2人ともそう思ったがもう後には引けなかった。それ以来、結実子は岡島の前で坂本の名前を語ることは一切なくなった。そして、岡島との連絡も少なくなっていった。
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その冬、岡島はクリスマス休暇で久々に日本の地を踏んだ。空港に降りると、畳と白檀の混ざったような匂いが鼻をかすめた。
(これが日本の匂いか。ずっと住んでいるとわからないけど、ちょっと離れただけで感じるものだな)
岡島はその匂いに違和感を感じながら山岡空港行きの飛行機に乗り換えた。そして山岡空港に到着し、ゲートを出ると、結実子が迎えに来ていた。しかし……。
「どうしたの? その髪と爪……」
結実子は髪を茶色く染め、爪にはネイルアートが施されていた。岡島の知っている結実子はそういうことが嫌いだった筈である。
「ちょっとね……そういう気分になって」
そういう気分にさせたのは何か……言わずもがなである。岡島はモヤモヤした思いを払拭させるように結実子を抱き寄せようとした。しかし結実子はスッと後ろに引いた。
「ごめんね、風邪気味で……伝染すといけないから」
岡島は自分たちの関係がどれほど冷え切ってしまったのか、この時はじめて気がついた。
「じゃ、26日にまた会おう」
クリスマスは忙しいと結実子が言ったので、その次の日に会うことになっていた。
「うん、寿和さんもゆっくり休んで時差ボケ治しておいてね」
そうして2人は別々に家路についた。
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26日の午後3時、かつて2人がよく行っていたカフェで岡島と結実子は落ち合った。結実子は開口一番こう言った。
「結局……私、冷めてしまったの」
岡島は何も言えなかった。ただ結実子の次の言葉を待つより他なかった。
「寿和さんが成功してドイツで活躍しているのを見たり聞いたりするのは私もすごく嬉しいの。だけど……」
結実子はそこで言葉を切り、深く息を吸ってから言葉を繋いだ。
「もう……寿和さんといっしょにいたいとは思えなくなったの」
岡島は何となく気づいていたが、具体的な言葉で言われると流石にショックだった。
「ユミちゃんの気持ちはわかった。でも、やり直せないかな。考え直すことは出来ないかな」
「もうたくさん考えたよ……」
結実子の決意は固そうだった。こういう時、岡島は何も出来ないことを経験上知っていた。岡島が黙っていると結実子が独り言のように呟いた。
「寿和さんがピティフェで頑張ったり、ドイツを目指して四苦八苦したり……それを応援していた日々が何だか今では嘘みたい」
その時、岡島の日本での調律のお客さんが店に入って来るのが見えた。そして周りの客たちが何気なく自分たちに注目しているのに気がついた。それで岡島がソワソワし始めると、それを察したように結実子が言った。
「先に行ってくれる? 私も気持ちが落ち着いたらここを出るわ」
結実子に促されるように岡島は店を出た。振り向くと結実子は下を向いたまま動かなかった。それが岡島が結実子を見た最後の姿だった。
クリスマス直後のせいか、街には誕生したてのカップルが溢れていた。彼らはただただ幸せそうに見えた。岡島は別に羨むでもなく、何気なく彼らの姿を眺めていた。




