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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
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遠距離という現実

「今、木工やってるんだけどね、すごく楽しいんだ。師匠のエミールも『君は才能ある』って褒めてくれてね。もしかして本当にこっちの方が向いているんじゃないかな」

「そうかもしれないけど、やっぱりピアノ技術の勉強なんだから目的見失わないようにしないとね」

「うん、ユミちゃんの言う通りだね。それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみなさい……」


 岡島との電話を終えた途端、結実子の心に寂しさがやってきた。岡島はとても楽しそうだった。自分に向いている、やりがいのあることに取り組んでとても充実しているようだった。そのことは結実子にとっても嬉しいことだった。しかし……


(何だかすごく……寂しい)


 私はこんなに寂しい思いをしているのに、寿和さんはとても楽しそうにやってる。少しは私の気持ちに気づいてくれてもいいのに。そう思っても、彼の足を引っ張るようで気が引けてなかなか言い出せなかった。

 そして夜になると枕元で涙を流す、そんな毎日を結実子は過ごしていた。


 そんなある日、結実子は仕事でヤマカワ勝小田店に出かけた。そして出勤早々店員に声をかけられた。


筒宜つつむべ先生、今日新しい生徒さんが入りますのでよろしくお願いします」

「新しい生徒さん? どんな方かしら」

「坂本(はじめ)さんっていう、30代の会社員の男性です」

「会社員の男性か……」


 これまで結実子は男性の生徒を担当することはなかった。それは結実子のレッスン時間は午後6時までだったので、会社帰りのサラリーマンには来にくい時間帯だったためである。


 そしてその坂本肇のレッスン時間となった。結実子はレッスン室のドアを開けて呼びかけた。


「坂本さん、どうぞ」

「あ、はい。よろしくお願いします」


 結実子は坂本肇を見てハッとなった。


(寿和さん……!?)


 坂本は岡島によく似ていた。少なくとも結実子にはそう思えた。それで結実子は取り乱しそうになったが、それを悟られないように仕事に集中した。


「坂本さん、ご希望の曲はありますか?」

「ええと、トトロの歌。『歩こう歩こう』っていうやつ」

「久石譲さんの『さんぽ』ですね。ちなみに坂本さんはピアノのご経験はありますか?」

「いえ、楽器は全く初めてで……」

「わかりました。では、楽譜を探してきますね」


 結実子は楽譜売り場で超初心者用の「さんぽ」の楽譜を探した。ところが探してみると、本当に全くの初心者に向けたものはなかった。一番易しいものでも弾きこなすには時間がかかりそうだ。結実子はレッスン室に戻って坂本に相談してみた。


「坂本さん、いつ頃までに弾けるようになりたいですか?」

「実は来月、娘の誕生日にキーボードを買ってあげようと思っているんですが、その時にサプライズで娘の好きなこの曲を弾こうと思ってるんです」

「そうなのですね。今楽譜売り場を探してみたのですが、どれも少し難しいアレンジばかりでした。それでもし良ければ私が楽譜を作らせていただきますが、それでよろしいでしょうか?」

「それは嬉しいです。よろしくお願いします」


 結実子は出来るだけ簡単なアレンジをして丁寧に楽譜を作成した。だが坂本は本当に鍵盤の経験がないようで、指一本動かすことさえままならなかった。


(これじゃあ1カ月で仕上げるのは難しいわ)


 そこで結実子は週三回レッスンに来ることを勧めてみた。


「お家に楽器がないとなると、やはりレッスンの中で仕上げなくてはなりません。でも週一ではお嬢さんの誕生日に間に合いそうにありません」

「うーん、この時間に来れるのは火曜日だけなので、後は夜にならないと来れないんです。できれば他の曜日も筒宜つつむべ先生に見て欲しいんですけど……」

「わかりました。店長と掛け合ってみます」


 レッスンが終わると、結実子は店長に報告し、他の曜日も臨時でレッスンに入れないか聞いてみた。


「それは構わないけど、筒宜つつむべ先生、その坂本さんキーボードから電子ピアノもしくはピアノへの“買い上がり”お勧め出来ませんか? 娘さんに近い将来習わせようと考えているならその方がいいでしょう」


 結実子は店長から営業的な話を持ちかけられるのが嫌だったが、今回はこちらからの願いもあったので軽く受け流した。


|| ||| || |||


 岡島がアウスビルドゥングを開始してから、はや1カ月が経とうとしていた。採用は2名と聞いていたが、蓋を開けてみると岡島を含めて3人いた。その内の1人はテストの時に仲良くなったベルリン出身のベニー・ニッケルマンだった。

 ベニーは岡島の面倒をよく見た。役所での手続きに同行したり、生活に必要な情報を教えたりした。また週末には町の散策に誘ったりもした。そんなある週末のこと、岡島はベニーと町のカフェで休憩していたが、ふと思い出したように言った。


「わ、まずい。もうこんな時間だ! 日本の彼女に電話しないと!」

「彼女か……ほとんど毎日電話しているんじゃないの。仲良いんだね」

「まあね……仲良いっていうか、一度電話し損ねた日があって、その時彼女ブチ切れたんだよね。それ以来余程のことがない限り電話を欠かさないようにしてるんだけど、ちょっと時々面倒臭くなる」

「それは面倒臭がったらダメだ。君はここで全てが新しく、新鮮な気分で生活しているからいいけど、残された者の気持ちになってみろ。いつもと変わらない環境から君だけがいなくなっているんだ。寂しくてついキツいことを言ってしまいもするさ」

「そうだな。ちょっと電話させてもらうよ」


 そう言って岡島は携帯と国際電話カードを取り出した。これはカードの裏をスクラッチすると番号が出てきて、その番号をダイヤルしてから海外の番号をダイヤルすると、ほとんど国内電話なみの料金で通話できるというものである。


「はい結実子です……寿和さん?」

「うん、今町中を友達と散策して休憩中なんだ」

「そう……実はね、来月まで木曜日と土曜日は夜電話できなくなったの」


 土曜日電話しなくても良くなった……それは岡島にとって有り難かったが、口には出さなかった。


「そうなの、どうして?」

「チケットレッスンの生徒さんがね、1カ月後に娘さんの誕生日に曲を弾いてあげたいっていうんだけど、全く楽器未経験なのよ、無茶でしょ? それで週一だけじゃなくて木曜日と土曜日の夜にも臨時で見てあげることになったのよ」

「娘さんの誕生日にか……なるほどね」

「でさ、その人、寿和さんにそっくりなの」


 それを聞いて岡島は一瞬言葉を詰まらせた。自分が知らない人に似ていると言われることはあまり好きではなかったのだ。結実子はそんな岡島の気配に気づいたのか、その話題はそこまでにし、「寿和さんのお友達に悪いから」と電話を終わらせた。


 この時から岡島は結実子の自分への接し方に少しずつ違和感を感じるようになった。

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