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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
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総領事館

 帰国後、岡島は大阪にあるドイツ連邦共和国総領事館へと出かけた。空中庭園で有名なスカイビルの一室にあり、デートも兼ねて結実子も一緒に来た。


「すみません、労働ビザの申請なんですが……」


 岡島はそう言って、お世辞にも愛想が良いとは言えない担当官に書類を提出した。担当官は書類にさっと目を通して事務的に告げた。


「はい、申請の方は確かに受理しました。後ほどヴォルフェンビュッテル労働局から労働許可が下りた段階でこちらから仮ビザを発行します。それを持って現地入りしていただき、到着次第出来るだけ早く現地の外国人局で正式な滞在許可書を取得する流れとなっています」

「労働許可が下りるまでどれくらいかかりますか?」

「それについてはこちらからは確かなことは申し上げられませんが、多くの場合3ヶ月ほどかかっています」


 3ヶ月。それはアウスビルドゥング開始までギリギリの期間であった。申請が終わると、岡島と結実子は屋上の空中庭園へ登った。


「きゃあ、こんなに高いのに屋根がないのね」


 結実子がちょっと怖がってみせるのを岡島は面白がって眺めていた。


「ドイツってこんなに高い建物ってほとんどないからね。久々に日本に来るとまるで未来の世界に来たような気持ちになるよ」


 さらに言えば、ドイツは空から見ると緑の中に煉瓦色の建物が見えて綺麗なのだが、ここの景色は灰色の建物が雑多にひしめいていてどこか無機質で息苦しい印象を受ける。だが岡島はあえてそのことを結実子の前では口にしなかった。


「そう言えばユミちゃん、勝小田店でチケットレッスンの講師やることになったの?」

「うん。もう何回かやってるよ」

「そうか、大変?」

「そうね。対象が大人だから子供と勝手が違うっていうのもあるけど、店長さんからは楽器の販売促進が目的だと強調されて……でも上手にならないと楽器が欲しいなんて思わないでしょ。上手になるにはある程度シンドイこともしなければいけないけど、あんまりチケットレッスンでキツイことも出来なくて。その辺りのバランスが難しいかな」

「なるほとね……」


 そんな会話を交わしていると、結実子がある一角に注目して言った。


「あれ何だろう」


 そこへ行ってみると、沢山のカラフルな錠前が金網に止められていた。その一つ一つには男女の名前が書かれていた。カップルの願掛けだろう。


「ねえ、私たちもしようよ。寿和さんがドイツへ行ってもずっと一緒にいられるように」

「うん」


 岡島はそう返事したものの、内心ドイツへ行けるかどうか懐疑的になっていた。期日までに労働許可が下りなければ、この話はなかったことになるのである。


 それから3ヶ月あっと言う間に経過し、8月もあと少しで終わるという時期に差し掛かった。ドイツ領事館からは未だ何の連絡も来なかった。


 焦っているのは岡島だけでなく結実子も同様だった。


「向こうの役人さん、忘れてるんじゃないの? ちょっと急かした方がいいんじゃない?」


 結実子はそう提案するが、岡島は向こうの役所の連絡先など知らない。領事館に問い合わせたが「3ヶ月過ぎても労働許可が下りないことは普通です。一応当方からも先方に念を押して置きますが、お待ちいただくよりありません」という素っ気ない返事だった。


 そうしてとうとう出発予定日の前日となった。それでも領事館からの連絡は来なかった。岡島はクラウトミュラーにFAXで連絡してみた。


「明日出発の予定でしたが、労働許可がまだ下りないのです。とりあえず現地入りしてから下りるのを待とうと思うのですが……」


 するとすぐさま返信が来た。


「ビザが下りないままでドイツへ来てはいけません。日本で領事館から連絡が来るのを待って下さい。当社では9月末までなら待てますので、それまで待機していて下さい」


 それを読んだ岡島は飛行機のキャンセルの手続きをして結実子に電話した。


「明日のドイツ行き、キャンセルになった。会社はあと1ヶ月待ってくれるらしい」

「寿和さん……ごめんね。私、何だか嬉しくって今、笑ってるの。もうお別れと思ってたのにあと1ヶ月一緒にいれるんだもの。もうやれることはやったんだからあとは運を天に任せようよ」


 そうして最初の期日が過ぎ、岡島は努めて落ち着いて待とうとした。しかしその残りの期間もあっと言う間に経過し、最終的な期日まであと10日を残すのみとなった。


(いよいよ万事休すか……)


 岡島がそんな諦めの境地に達していた時、突然携帯が鳴った。ヤマカワ本社の大池部長からだった。


「おう、まだ日本にいたのか。とっくにドイツにいるのかと思ったぞ」

「実は本来ならドイツにいる頃なんですけど、ビザがなかなか下りなくて、最終的にあと10日以内に下りなかったらこの話はなくなるんです」

「そうか……仮にもし駄目だった場合の話だけどな。向こうのメーカーというのは2ヶ月ほどの技術研修を受け付けていることが多いんだ。それならビザも不用だろう。今回駄目になったとしても、そうやって顔をつないでおけば、来年、次の機会には有利になるんじゃないか。一度その線で向こうに打診してみたらどうだ?」

「大池部長、いつも的確なアドバイスありがとうございます! それでやってみます」


 早速岡島は大池部長の提案をドイツ語にしてクラウトミュラーにFAXした。向こうはまだ営業時間の筈だが、内容が内容だけに即答はなかった。正直なところ、大池部長のプランが

果たして通るものかどうか見当がつかなかった。しかし、岡島にとっては何もしないでただ待っているより精神衛生上はるかに良かった。


 次の日、クラウトミュラーからの返事を待ったが音沙汰なかった。そして何事もなくその日が過ぎ去った。


 その翌日、岡島が朝寝坊して起きたタイミングで電話のベルが鳴った。


「はい、岡島です」

「ドイツ総領事館です。ヴォルフェンビュッテル労働局から許可が下りました。早速ですが、パスポートを持参して当館までご足労願えますでしょうか」

「は、はい。すぐ行きます!」


 岡島は眠気も吹っ飛び、あわてて着替えると駆け足で大阪へと向かった。そして電車の中から結実子に電話した。


「ユミちゃん、ついにビザが下りたよ!」

「よかったね。もう駄目かと思っていたわ」

「うん、取り敢えずまた後で連絡するね」


 そして仮ビザをパスポートに貼ってもらい、トンボ帰りで自宅に帰ってきた。帰るとクラウトミュラーからもFAXが来ていた。


 ──労働局から許可が下りました。到着の日時が決まりましたらお知らせ下さい──


 あまり時間はないが早く行った方がいい。そう思って岡島は飛行機のチケットの具合を見て、3日後の出発を決めた。


 そしてその3日後──


 羽田空港の国際線ロビーで岡島と結実子は向かいあっていた。


「いよいよ本当に行っちゃうんだね」

「うん」

「ねえ、やっぱりやめるとか、無理?」

「え?」


 結実子は少し涙目になって言った。


「だってさ……もう少しで駄目になりそうだったじゃない。そうなったらとても残念だと思ったけど、心の中で寿和さんとまだ一緒にいられるかもしれないと思ってひそかに期待してたの」

「ユミちゃん……」

「あ、ごめんね。寿和さんを困らせるようなこと言って。本心は寿和さんに精一杯頑張ってきて欲しいの。そして夢が叶うのが嬉しい」


 岡島は何も言わずに結実子を抱きしめた。


(僕だって……このままいられるものならいたいよ)


 そう思う岡島の目から涙が流れた。そして2人は静かに離れて行き、岡島は搭乗口へと向かって行った。

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