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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
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結果通知

 岡島がマンハイムに到着したのは夜の19時だった。今はサマータイムで日本との時差は7時間。さすがこの時間に日本に電話するのは遅すぎるので、一旦寮に戻った。そして翌日結実子に電話した。一部始終を聞いた結実子が言った。


「そうか……実技はこの上なく良かったけど作文がね。こればかりは外国人としてはハンディがあるね」

「そうなんだよな。単純に技術的な可能性を見られているのであれば多分実技に重点を置かれているだろうけど、人となりを見られているとすれば、やはり作文が重視されているだろうな……」

「でも腕が確かなことはアピール出来たんだよね。来年のことを考えたら今回採用されなかったとしても、落とし所としては悪くないんじゃないかしら」

「そうか、そう考えるようにしようか」


 結実子に言われて岡島は少し落ち着いた気待ちになった。


 その日の授業では岡島はいつになく積極的に発言し、生徒たちとも努めて会話するようになった。今回の教訓は、とにかくドイツ語を話せるようにならなければならない、ということだった。これまで机上の勉強以外のこと、特に人と会話するということについては岡島は比較的消極的であった……もっともそれは日本で日本語を話す場合でもそうだったのであるが。


 それでこれまであまり参加してこなかったシュタムティッシュ(会話力向上を目的とした交流会)にも奮って参加し、色々な人と積極的に会話した。

そんな時、同じクラスのユイが岡島の隣に座ってきた。正直なところ、今は日本人と話したくないと岡島は思ったが、ユイもそこはわきまえてドイツ語で話してきた。


「カンストゥー・ウンザー・クラヴィーア・シュティメン?(うちのピアノを調律していただけますか?)」

「え、調律の依頼? あ、日本語で話してくれる?」


 ユイは岡島にそう言われたので、他の生徒に気づかれないように日本語で事情を話した。


 ユイとエリカは岡島たちが宿泊している寮ではなく、グランドピアノのある一般家庭に下宿していた。コースを申し込む時、宿泊は「ピアノの弾けるところ」という希望を出していたので、ゲーテインスティテュートからこの家を紹介されたのである。


「でもね、そのピアノ調律が凄く狂っていて、おまけに鍵盤押したら戻ってこないところがいくつもあるんです。大家さんに言ったら『自分で手配するなら調律しても良い』とのことなので、ちょっと重症で大変ですけど、直してもらえませんか?」


 岡島はユイの依頼に二つ返事でOKした。料金はユイとエリカが折半して払うとのことである。岡島にとってこの臨時収入は有り難かった。

 ユイは重症と言ったが、岡島が実際ピアノを見てみると、さほどのことはなかった。これは岡島が予想した通りであった。鍵盤が動かなくなる“スティック”という症状は、弾き手には重症のように思えるが、技術的には直すのにさほど手間がかからない。それでいて直ればお客さんから感謝されるので、スティックのある仕事は調律師にとっては美味しい仕事とも言える。


「うわあ、すごい、直ってる! さすがですね、寿和さん。これで安心して練習できます!」


 ユイとエリカは何度も岡島に礼を言った。岡島は普段何もなければユイたちのような若い女性からの賞賛に気を良くして浮かれたかもしれない。だが天の思召し次第でどっちへ転ぶかわからないテストの結果を待つ身としては、どうしても賞賛の心地よさに身を委ねる気にはなれなかった。それは岡島にとってある種の願掛けのようなものでもあった。


 テストから10日ほどたったある日のこと、授業中にツィヴィが教室に入ってきて手紙を持ってきた。その中にクラウトミュラーから届いた岡島宛ての手紙があった。


「こ、これ多分結果通知だ」


 岡島が手紙を手にしながらそう言うと、教室の一同の視線がそこに集まった。クラスメイトのモハメドが急き立てて言った。


「早く開けてみろよ」


 そして岡島は封筒を開けて中身を取り出して目を通した。


「何て書いてる?」


「ええと……敬愛する岡島様。先日はテストの為に足を運んでいただき誠にありがとうございます。テストの結果、貴殿を採用することが決定しましたことを喜びを持ってお知らせします。手続きの詳細はまた追ってお知らせします。取り急ぎお知らせまで。クラウトミュラー社 社長クローゼ」


「つまり、合格ということ?」

「おめでとう!」


 教室中に拍手が沸き起こり、授業中にも関わらず祝勝会さながらの騒ぎとなった。男性たちが岡島を担ぎ上げて胴上げすると、その拍手と歓声は一層大きくなり、しばらく鳴り止むことがなかった。


 その日の授業が終わると、岡島は国際電話ボックスに駆け込んで結実子に電話した。


「もしもし、寿和です。実はテストの結果が届いたんだけど……」

「ふふふ。合格したんでしょ。おめでとう!」

「え? どうして知ってるの?」

「声の明るさでわかるよ。最近そんな声出したのことないもの。あ、後ろで父と母がおめでとうって」

「それは嬉しい。ありがとうございますって伝えておいてくれるかな」

「うん……そう言えば、先日ヤマカワ勝小田店の奥本課長さんから連絡があって、その時に寿和さんがドイツで頑張っているってお話したの。そしたらとても喜んでたわよ」

「奥本課長が……へえ、どんな用件だったの?」

「今度ヤマカワ勝小田店でチケット制ピアノレッスンを始めるそうで、私にその講師になってもらえないかって打診してきたの。バイトとして良いかなと思うけど、まだお返事はしてない。もう少し考えようかなと思ってる」

「そうか、奥本課長にもよろしく伝えてね」


 岡島は今迄の苦労が報われ、描いていた夢が今まさに現実になる喜びを噛み締めていた。


 ……だが、本当に絵に描いた餅が現実になるにはあと少し壁を乗り越える必要があったのだ。

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