餌付け
翌月はポーランドの音楽学校から大量の発注があったお陰でクラウトミュラー社はまとまった収益を得ることが出来た。華商銀行からの借金も全額返済した。できれはこのまま勢いに乗りたい、クローゼ社長は強く願った。
だが現実はそんなに甘くなかった。数ヶ月後、クラウトミュラー社はまたもや資金ショートの危機に見舞われたのである。クローゼ社長は再びハンブルクの華商銀行を訪れた。彼は東洋人の習慣を真似て深々と頭を下げて言った。
「どうか、もう一度だけ少し貸していただけないでしょうか」
ニー支店長は無表情に目を細めてクローゼ社長の様子を眺めていた。そして少し間を置いてから返事した。
「いいでしょう。私の裁量で何とかなる範囲です。必要な金額を仰って下さい」
「ありがとうございます。よろしくお願い申し上げます」
不本意ながら、また華商銀行の援助により危機を回避した。ところが事態はこれで収まらず、これ以降も同じようなことが度重なり、その都度華商銀行に頼ってきた。気がつけばクラウトミュラー社は華商銀行によって見事に“餌付け”されていたのである。
そのようなことが1年続いた。初めのうちは中国勢を警戒していたベン・クラウトミュラーも、もはや自分たちが華商銀行の助けなしには生き延びていけないことを自覚せざるを得なかった。
そんなある日のこと、突如華商銀行のニー支店長がクラウトミュラー社を訪れた。アポイントも取っていなかった。受付では研修生の若い女性が対応した。
「社長は本日はカッセルに行っておりまして、直帰する予定ですが……」
「いや、私たちも偶々近くに来たから寄っただけでしてどうぞお気遣いなく。一応、華商銀行のニーが来ているとだけ伝えていただけないでしょうか」
ニー支店長に言われて受付の研修生はクローゼ社長に連絡した。すると彼はカッセルでの仕事をキャンセルして飛んで帰って来た。
ニー支店長の姿を見つけたクローゼ社長は開口一番、待たせたことへの詫びを入れた。無論アポなしで訪問する方に非があるのだが、そんなことはおくびにも出さなかった。そのことが彼らの力関係を物語っていた。
「いや、すみません。わざわざ出張先から戻って頂くなんて恐れ入ります。実はちょっと困ったことが起きまして、直接お話しした方が良いと思って急遽こうしてお邪魔した次第です」
いよいよ来たか、とクローゼ社長は思った。ニー支店長はクローゼ社長の心中を察するかのように間を置いてから続けた。
「実はウチの審査部の方が御社への融資にクレームをつけてきましてね、これ以上の追加融資は出来ないと言うんですよ。頭取の気まぐれには付き合えないとね」
おおよそ予想していた展開ではあるが、華商銀行に依存せざるを得ない状況となった今では破壊的な宣告だった。
「そもそもご厚意でしたので甘える訳にはいかないのは重々承知です。でも今の段階で手を引いてしまわれては困ります。どうにかなりませんか」
「そうですね……方法がまったくない訳ではありませんが」
「方法? どんな方法ですか」
「楽器業界は不景気の真っ只中ですが、中国からインドにかけて東アジアではまだまだ市場が活発です。そこに大きな販売網を持つ企業と手を組んでビジネスを展開するのです。その線で経営計画を立てていただければ、稟議書も通るでしょう」
なるほど、そういうわけか。クローゼ社長はようやくハッキリとカラクリが分かった。他の企業と手を組む……そう言うと聞こえが良いが、要は何処かからM&Aの話を持ちかけられていたのだろう。そしていつの間にか承諾するしかない状況に追い込まれている……。
「ニー支店長はそのような企業に心当たりでもあるんですか」
「そうですね……」
そう言ってニー支店長は顎に手をやってわざとらしく考える仕草をした。「イーストスター社など良いかもしれません」
イーストスター社……クローゼ社長もその名前は知っていた。近頃アジア地域で業績を伸ばしている中国の音楽関連企業だ。もともとは香港の芸能プロダクションで香港俳優を国内外に派遣して稼いでいたが、クラシックのピアニストも抱えるようになり楽器業界にも進出した。豊富な販売網を生かして一気に楽器業界のトップに躍り出た。今は上海に拠点を移している。
「つまりは融資の条件はイーストスターに乗っ取られることですか」
「乗っ取るなんて滅相もない。ただ手を取り合って共に歩んでいきましょうということですよ」
「支店長、腹の探り合いはもうこの辺でいいでしょう。一体先方はどんな話を持ちかけて来ているんですか?」
ニー支店長は一旦咳払いをして言った。
「端的に言えば御社への資本参入です。持分は3分の1ほどを考えているようです」
「3分の1……」
もちろんその程度の資本参入では乗っ取りとは言えない。しかしゆくゆくは筆頭株主、会社のオーナーとなることは当然目論んでいる筈だ。
その時、ガチャとドアの開く音がしたかと思うと、ベン・クラウトミュラーがツカツカと彼らの真ん中に割り込んで来て言った。
「資本参入などもってのほかだ。悪いが引き取ってくれないか」
「ヘア・クラウトミュラー、いくらなんでもその態度は失礼ですよ」
クローゼ社長が咎めるように言うと、ニー支店長は「いいから、いいから」と右手を上げてみせた。
「クラウトミュラーさん、あなたは古き良き欧米ピアノ業界の感覚が抜け切れていないようです。時代は変わっているんです。クローゼ社長はその穴埋めをずっと担ってきたが、あなたにはそのことへの理解がないようですね」
「良い楽器を作れば、あとのものは自ずとやってくる。この真理は今も昔も変わらない」
「そのことには敬意を払っております。でもここは少し風通しを良くするのも悪くないのではありませんか。最初は窮屈に感じるかもしれませんが、後々きっと良かったと思うようになりますよ」
「うむ……」
「ヘア・クラウトミュラー、現実的にはもう選択肢はないと思います。ここは華商銀行さんの提案を受け入れて、会社を立て直しませんか。伝統へのこだわりはそれからでも遅くはないと思いますが」
ベン・クラウトミュラーは苦い顔で沈黙した。それは不本意ながらやむを得ず承諾せざるを得ないことを表しているようであった。ニー支店長はしばらく間をおいてから二人に言った。
「もしよろしければ、今度イーストスター社のレイモンド・タン社長をお連れしましょう。私を挟むより直接お話するのがよろしいかと思います」
そしてその次の週に2人はイーストスター社のレイモンド・タン社長と会う約束をした。




