ヴォルフェンビュッテル
ヴォルフェンビュッテル……その名前は“狼の居場所”を意味するニーダーザクセンの古い方言に由来するという、人口わずか5万人程のごく小さな町。岡島は何もない田舎を想像していて、果たして宿泊するところがあるのだろうかとさえ思った。
しかし電車に揺られて約4時間、ヴォルフェンビュッテルの駅に着いてみると駅の目の前には大型のショッピングモールがあり、そこそこ都会であるなと岡島は思った。またそこから町の中心までは多くの商店が並んでおり、ここに住むにしてもまず生活に不便さを感じることはなさそうであった。
駅付近の適当なホテルで一泊し、スーツに着替えた岡島は朝早くクラウトミュラーに向かうべく、ホテルを出た。会社の近くまでバスが通っているのだが、路線図が分かりづらく、安全の為にタクシーで行くことにした。
タクシーを降りると、目の前に近代的な平屋の工場が広がった。そしてその正面にはKrautmüllerのロゴが掲げられていた。
(ついに来た。いよいよだな)
岡島はここに至るまでの過程を思い巡らした。会社を辞めてドイツへ行こうと決心したこと、語学学校のこと、あらゆるところに出願しては断られ続けてやきもきしていたこと……
すると、工場の入口のドアが開いて中から体格の良い男性が出て来て言った。
「日本からのテスト生ですね。工場長のメッツガーです。どうぞこちらへ」
岡島がメッツガーの後について行くと、控え室に案内された。そこには既に数人のテスト生が来て待機していた。彼らは別段緊張している様子もなく、おそらく互いに初対面であると思われたが、それぞれ雑談を交わしていた。その上みな普段着だったので、スーツを着て緊張している岡島は少し場違いな気分だった。そんな岡島に隣にいた青年が話しかけて来た。
「君、何処から来たの? 中国? ベトナム?」
「いや、僕は日本から来たんだ。名前はトシカズ」
「へえー。あ、僕はベルリンから来たベニーだ。ところでトシカズはどうしてドイツまで来てクラヴィーアバウのアウスビルドゥングをしようと思ったんだい?」
「僕は日本で調律師として働いていたんだけど、こっちのピアノ技術の世界に憧れてね、それで来たんだ」
「そうなんだね」
そんな会話をしていると時間がやって来て6人のテスト生は最初に選定室に案内された。そこでクローゼ社長の挨拶があり、続いてクラウトミュラーのプロモーションビデオを全員で鑑賞した。その後はメッツガー工場長の引率で工場見学があって、その後はいよいよ最初のテストだった。
「最初のテストは木材を真っ直ぐに切断し、完全な平面と直角を作るテストです。テストをするのは木工職人のエミール・ディックマンです」
エミール・ディックマンは紹介されると早速見本を実演してみせた。
「最初にアップゼッツゼーゲというノコギリで切断し、カンナで平面を作る。この時直角定規を当ててきちんと平面が出来ているか確認する。では、最初の人、どうぞ」
すると一番前で説明を聞いていた者がテストを始めた。そして1人ずつテストをし、岡島の番が回ってきた。岡島は幼少の頃から父親に大工仕事を教わっていたのでこういうことは得意であった。
エミールは岡島の作品を見て「ふむ、なかなかいいな」と言った。
次のテストはピアノハンマーを柄に取り付ける作業。この作業においても岡島は好感触だった。
そして次はピアノを弾くテストだった。今回は岡島がトップバッターを名乗り出た。テストの部屋ではピアノ教師をしているという女性が待機していて、テストを受け持っていた。
「ああ、あなたね。今回日本人が1人いるって聞いてたの。私の大親友が日本人でね、どんな人が来るか興味深かったわ」
「それは嬉しいです。弾くテストということですが、どんな曲を弾いたらいいですか?」
「何でもいいわよ。あなたが一番自身のあるものを弾いて」
そう言われて岡島はショパンの幻想即興曲を弾いた。するとピアノ教師は絶賛した。
「素晴らしい! よく弾けることはわかりました。それじゃ、次の人呼んでくれるかしら」
岡島は一礼して部屋を出て控え室に戻った。ピアノの音は控え室まで聞こえてくるらしく、そこにいた全員が岡島の演奏を讃えた。
「すごいじゃないか!」
「ピアノ上手いんだね!」
……等々。
確かに後から弾いたテスト生の演奏を聞くと、岡島ほど弾けるものはいなかった。
(これは何だかいけるんじゃないか?)
岡島がそう思った矢先、メッツガー工場長が入ってきて言った。
「では、最後に作文を書いていただきます。クラヴィーアバウという仕事への思い、また志望動機、今日工場見学して思ったことなど、何でも自由に書いて下さい」
そして1人数枚ずつ用紙が配られた。岡島は作文と聞いて怖気付いた。作文って何を書けばいいんだ……?
用紙が配られるや否や、周りのテスト生たちはカリカリと作文を書き始めた。岡島も観念して思いつくままに書こうとするがペンが進まない。岡島がようやく数行書いたところで1人のテスト生が手を挙げて言った。
「すみません、紙が足りなくなりました。追加でいただけませんか?」
すると次々に「僕にも下さい」と用紙の追加を要求する声が上がった。そうして周りで次々に作文が完成していくなかで岡島は一枚の半分すら埋めることが出来ないでいた。
(これは……落ちたかも)
岡島は肩を落としながら何とか紙の3分の2ほどの文章を完結させ、提出した。
テストが一通り終わったところで昼食が出た。みなテストが終わってホッとしたのか饒舌になっていた。岡島は彼らの話すスピードがあまりに早いのに愕然とした。
(これがドイツ人同士の会話か。なんて早いんだ! ゲーテのB1クラスの人達も早いと思ったけど、まるで比べ物にならない。もしテストに合格して晴れてアウスビルドゥングを始められたとしても、言葉の方を相当鍛え直さないとな……)
昼食後、メッツガー工場長が締めの挨拶をした。
「皆さん、長い時間のテストご苦労様でした。成績はみなとても優秀で、個人的に言えば全員採用したい。しかし残念ながら今年の枠は決まっていて全員を採るわけにはいかないのです。そのことをご理解いただきたい。いずれにせよ、皆さんの今後の活躍に期待したいと思います」
その言葉をもって解散となった。岡島はその場にいた事務員のおばちゃんに確認する意味で質問した。
「先ほどメッツガーさんはどんなことを話していたんですか? 何かしなければいけないこととかあるのですか?」
「別に、特別大切なことは言っていませんでしたよ。岡島さん、あなたの成績は悪くなかったようです。だから特に何かをする必要はありません。後は……ドイツ語をしっかり勉強しておいて下さい」
(ドイツ語か、やはり言われてしまったか……)
そんなことを思いながら岡島はマンハイムへの帰路についた。それにしても受かるのか受からないのか、出来た事と出来なかったことの差があまりにも大きすぎて判断出来なかった。要はどの課題に重点が置かれていたのか、それによって結果が決まるだろうと岡島は帰りの電車の中で1人考えていた。




