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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
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フランクフルトメッセ

 岡島を乗せた電車はゆっくりとフランクフルト中央駅のターミナルへと入線していった。その車窓からは高くそびえ立つフランクフルトメッセのタワーがちらちらと見え隠れした。


(ああ、あそこでこれから僕の人生が決まるんだな……)


 そう思うと一気に緊張感が高まり、嗚咽さえした。フランクフルト中央駅には9時前に到着し、約束の時間までまだ1時間あった。それで駅構内のマクドナルドで時間を潰したが、中々食事が喉に通らなかった。


 一寸先は闇。


 この言葉はまさにこの時のためにあるのだな、と岡島は思った。あっと言う間に時間がやってきたので意を決してメッセへと向かった。入口でしばらく待っていると、川口専務が姿を見せた。知っている顔が現れたことで、岡島は少しだけ落ち着いた。


「おはようございます川口専務、今日はわざわざ面接にお付き合いいただきありがとうございます」

「いやいや、毎年来ているところですから、ほんのついでですよ。岡島さん、あんまり緊張しないで楽器フェアを楽しみに来たくらいのつもりでいて下さい」


 楽器フェアは広大なメッセ会場全体を使っており、ピアノの会場は入口からは遠く、場内シャトルバスに乗って行く。途中でヤマカワの文字が見えた。ヤマカワは一社だけで建物1棟を占拠しており、あらためてあの会社の規模の大きさを痛感した。


 シャトルバスが到着した建物の4階がピアノのフロアとなっていた。各ピアノメーカーはこのフロアにブースを設け、展示していた。そして岡島たちがクラウトミュラーのブースに到着すると、そこには1人の営業社員が立っていた。川口専務は彼に声をかけた。


「クローゼ社長はいるかな? 面会の約束なんですが」

「只今、諸用で席を外しておりますが、間もなく戻ってきます」


 営業社員がそう言うと、川口専務はこくっと頷き、岡島にこそっと耳打ちした。


「岡島さん、待っている間ピアノ弾いていて下さい。それでピアノが弾けることを大いにアピール出来ますから」


 岡島は言われたようにピアノの前に腰掛け、覚えている限りの曲を弾き続けた。会場内はあちこちでピアノの音が鳴り響いていたので、自分の弾いている音があまりよく聞こえなかった。だがそのおかげであまり緊張せずに弾けた。


 そうしているうちに体格のがっしりした大柄な紳士がやってきた。ハインツ・クローゼ社長だった。川口専務は立ち上がり握手を交わした後、岡島を紹介して言った。


「クローゼ社長、こちらが岡島さんです」


 岡島は続いてカタコトのドイツ語で言った。


「イッヒ・フロイエ・ミッヒ・ズィー・ケネンツーレアネン(お会いできて嬉しいです)」


 するとクローゼ社長は大袈裟に驚いて見せた。


「おお、ドイツ語上手ですね!」


 そんなお世辞にすら、岡島は威厳を感じて身ぶるいがした。それからクローゼ社長は岡島の日本での仕事のことや、ドイツでの留学のことなどを尋ねた。その時岡島は、ヤマカワの大池部長のアドバイスの通りピティフェ支部開設のことも話したのだが、語学初心者が事細かに伝えるには少々内容が複雑過ぎた。そのためかクローゼ社長はその内容にさして関心を示しているようには見えなかった。


(切り札、うまく切れなかったな……)


 岡島はそう思って少しだけ気を落としたが、その後のクローゼ社長の一言でそんな思いは吹き飛んだ。


「それでは来週の水曜日にテストがありますのでヴォルフェンビュッテルの工場まで来て下さい」

「え?」


 岡島は耳を疑った。テストって言ったよな、岡島がそう自問していると、川口専務がクローゼ社長に訊いた。


「テストというのは、来年のアウスビルドゥングの為のテストということですか?」

「いやいや、今年の9月から開始するアウスビルドゥング採用試験です」


 それを聞いて岡島と川口専務は互いに顔を見合わせた。そして川口専務が質問を続けた。


「ちなみにそのテストの競争率はどれくらいなのですか?」

「ウチでは毎年2人レアリング(注;アウスビルドゥングを受ける研修生)を採用しています。それに対して今回は岡島さんを含めると6人のテスト生ということになりますので、競争率は3倍です」


 ……競争率3倍。道が開けたかと思えばまたもや高いハードルが待ち構えていた。


「ちなみにテストの内容はどんなものなのですか? どんな準備をしたらいいのですか?」

「テストでは主に適正や素質を判断しますので、特に何かを準備してくる必要はありません。そのままの体一つで来て下さい」


 面接を終えた後、岡島はかすかな達成感と、引き続き負わなければならないプレッシャーの狭間で戦慄を覚えた。


「思わぬ良い話が飛び込んで来ましたね、岡島さん。依然として壁は高いようですが、頑張って下さい」

「ありがとうございます。ここまで来れたのも滝藤楽器さんのおかげです。来週のテストも悔いの残らないよう精を出して励みたいと思います」


 岡島は川口専務と別れた後、フランクフルト中央駅前の国際電話ボックスに入り、日本にいる結実子に電話した。


「もしもし、寿和です」

「あ、寿和さん。面接どうだった?」

「実はね、今年のアウスビルドゥング採用試験が受けられるようになったんだよ!」

「ええ!? 本当に?」

「うん。だけどね、競争率が3倍なんだって……依然高いハードルが待ち構えているんだよ」

「そうか……でも、やれるだけやってみたらいいじゃない。一所懸命テストに取り組んでさ、良い結果が出せればたとえ今年入れなくても来年のために有利になるんじゃない?」

「そうだね、そのつもりで頑張ってみるよ」


 そして1週間はあっという間に過ぎた。テスト前日、岡島は授業を終えるとその足でマンハイム中央駅に向かい、電車に乗って遥かヴォルフェンビュッテルの地へと出発した。

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