七転び八起き
滝藤楽器での感触が良かったことで、岡島は少し有頂天になっていた。筒宜一家と焼肉屋で会食していたが、半ば祝賀会のような気分だった。
結実子の父親、筒宜堅実は岡島にビールを注ぎながら言った。
「おめでとう、岡島君」
「いや、おめでとうだなんてまだ決まったわけではありませんので……」
そう言いつつも岡島は満更でない気分だった。
「もしやっぱりダメでした、なんて話ならもう結実子には二度と会わさん」
「ちょっと、お父さんったら!」
結実子は父親を窘めはしたが、互いに本気でないことは承知の上だ。
「まあしっかりやってきなさい。一人前になって、出来るだけ早く帰って来ないと結実子にもどんな虫がつくかわからんぞ」
「はは、そうですね。結実子さんモテますから……」
「もう……寿和さんまで!」
そんな浮かれ気分で岡島が帰宅すると、郵便受けに1通のエアメールが届いていた。クラウトミュラーからだった。すっかり酔いも醒めて恐る恐る開封してみた。そして手紙の文面に目を落とした。
──岡島様
先日の滝藤楽器での面接において、同社は貴殿に対し高く評価しておりました。しかしながら今年度、我が社のアウスビルドゥングの口は既に一杯であり、貴殿の採用について綿密に検討を重ねましたが、質の高い修行を維持する為には今年度は見合わせようとの結論に至りました。悪しからずご了承下さい──
(そ、そんな……)
結実子の父親に会わせる顔がない。何て言ったらいいのだろう。とりあえず結実子に電話しよう……と思ってやめた。あんな会食の後ではショックが大きいだろう。そんなことを思っていると電話が鳴った。国際電話だ。
「はい、岡島です」
「もしもし、寿和さん? ナオミです。そちらは夜かしら? ごめんね」
突然のナオミからの電話で岡島は驚いた。その後どう?と訊いてきたので近況を話した。
「……そういうことで、今ちょうどお断りの手紙をもらって凹んでいたところなんだ」
「ふうん……なかなか一筋縄ではいかないね。私もこっちの人材派遣会社に登録したけど、箸にも棒にもかからないって感じかな」
「そうか、お互い頑張ろう」
「うん、それじゃね」
ナオミとの電話の後、岡島はヤマカワ本社の大池部長が結果を知りたがっていたことを思い出した。もう遅い時間ではあったが、電話した方がいいと思った。
「夜分遅く恐れ入ります、岡島ですけど……」
「ああ、岡島君か。どうした」
「実は残念なお知らせがありまして……」
「残念?」
岡島は手紙の内容を大池部長に伝えた。大池部長は話を聞き終わると、厳かに言った。
「まず言っておこう。今すべきことは落ち込むことではない。出来るだけ早くその手紙に返信するんだ」
「返信……ですか」
「書くべきことは3つ。まず最初に丁寧な対応ありがとうございましたという謝意。次に今年が駄目でも来年は是非雇って欲しいという念押し。そして近々ドイツへ行くのでその時会ってもらえないか、という要望だ」
「ドイツへ行く予定などありませんが……」
「おいおい、どうせ暇なんだろう。この機会に借金してでもドイツへ行け。わざわざ日本から来たとなれば向こうも会わないわけにはいかないだろう。とにかくまだまだチャンスは終わっていない、喰らいつけ!」
「アドバイスありがとうございます! やってみます!」
岡島は早速大池部長のアドバイスに従って手紙を書き、その手紙を郵送とFAX双方から送信した。
翌日、岡島は結実子に電話した。一部始終を聞いて結実子は言った。
「そうだったの。まあそう易々とは事は進まないでしょうね。父にはうまく伝えておくわ。それにしても、大池部長さん、ありがたいね」
「うん、後でお礼しなきゃな」
その翌日、クラウトミュラーからFAXで返信が来た。同文は並行して郵送されたとの但し書きがついていた。内容はこのようになっていた。
──ご面会希望の件、喜んで承諾したいと思います。4月初旬にフランクフルトにて楽器フェアが開催されますので、そこでお会いしましょう──
4月、フランクフルト……
岡島はその期間に開かれる語学コースを探してみた。すると、マンハイムのゲーテインスティテュートで4月から5月にかけてコースを開催していた。マンハイムは地理的にはフランクフルトとルートヴィクスブルクの中間に位置し、何かと便利な位置にある。
(よし、このコースに決めよう!)
そして岡島はマンハイムのゲーテインスティテュートの語学コースを申し込んだ。その明くる日、滝藤楽器の川口専務から電話がかかってきた。
「岡島さん、フランクフルトの楽器フェアでクラウトミュラーのクローゼ社長とお会いになるそうですね。向こうから連絡がありました。実は私も社用でそちらにまいりますので、もし宜しければ同席させていただきますが、いかがでしょうか」
「それは大変助かります。よろしくお願いします!」
こうして再びドイツへ行くことが決まり事が具体的に運んで行くと、岡島は嬉しさと共に一抹の寂しさを感じた。また数カ月結実子と離ればなれになってしまうからだ。それで出発までの間、岡島は出来るだけ結実子と過ごす時間を取るようにした。映画やコンサートにも一緒に行ったが、特別何をするでもなくただ2人で一緒にいるだけ、ということも多かった。喋ったり、食事をしたり、時には喧嘩したり……。
「こうしてユミちゃんといるとさ、何だかずっとこのままでいたい、もうドイツなんか行きたくないって思ってしまうよ。こんなこと言ったら罰当たりだけどね」
「私もよ、寿和さん……」
こうして2人はしばらく見つめ合った後、そっと唇を重ねた。そして抱き合ったまま、いつまでも離れなかった。まるでそうしないと世界が終わってしまうかのように……。
いよいよ出発の日となった。今回は羽田からフランクフルトへのフライトで、結実子も東京見物も兼ねて羽田まで足を運んできた。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、気をつけてね」
そんな当たり前の挨拶に2人は互いに万感の思いを込めていた。岡島はもう迷わない、ブレることなく結実子への思いを貫こうと心に決めた。
そして岡島を載せたルフトハンザLH717便は、遥かフランクフルトの地を目指して空高く舞い上がった。




