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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
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代理面接

 東京駅に着いた岡島はこれまでにないほど緊張していた。


 代理面接……今までドイツ語での面接を頭の中で描いていたので、日本語での面接は全く想定外で心の準備が出来ていなかった。なまじ言葉が通じるだけに、もし言葉を選び間違えたら命取りにもなりかねない……そう思うと尚更緊張感が増すのであった。


 約束の時間まで大分あったので、岡島は本屋で立ち読みしながら時間をつぶした。岡島は調律師として働いていた頃からこのような時間のつぶし方を好んでいた。書棚を眺めているうちに、「成功する面接」という本のタイトルが目に入ってきた。岡島はついそれを手に取って読んでみたが、そこに羅列されている注意事項を読んでいるうちに余計に緊張してきた。


 こうしているうちに約束の時間が近くなったので、岡島は5分前に到着するように歩調を調整しながら滝藤楽器に向かった。

 滝藤楽器はヤマカワの店とは随分違い、まるで古道具屋のような店構えだった。外国製のリードオルガンやヴァイオリン、そして数台のクラウトミュラーピアノ。どれも値の張るものばかりだ。店内を散策していた初老の男性が岡島の姿を見つけると、近づいてきた。


「いらっしゃいませ……失礼ですが、岡島さんですか?」

「はい、面接に参りました岡島です」

「お待ちしていましたよ。私が社長の馬場です。どうぞこちらへ」


 馬場社長は岡島にソファとお茶を勧め、自分も腰掛けると岡島が用意してきた履歴書に目を通した。


「なるほど……長いことヤマカワさんにいらっしゃったんですね。それが脱サラして語学留学と。随分思い切ったことをされましたね」

「ええ、周りからはせっかく安定した職場だったのにもったいないとよく言われます。でも長年勤めてきて何が自分に向いているか、反対に何が向いていないのか見極めることができました。その結果日本国内ではなく、海外それもドイツに活躍の場を求めるようになった次第です」

「そうですか、そうは思ってもなかなか出来ない決断ですね」


 その時、店にもう1人別の男がやって来た。スーツ姿で岡島より10歳程上の年代に見えた。


「ああ丁度良かった、紹介しましょう。こちらは専務の川口、実際的にクラウトミュラーなど海外のメーカーとのやり取りを担当しています。川口専務、こちらが岡島さんだよ」

「川口です。お話は伺っていました」

「岡島です。よろしくお願いします」


 これ以降、岡島の質疑応答の相手は主に川口専務となった。


「実は私もフライブルクのゲーテにいたことがありましてね、いや懐かしいですよ」

「そうだったんですか。僕は今回が初めての海外で、最初は不安だったんですけど行ってみたら毎日楽しくてつい羽目を外しそうになってしまいました」

「ははは、みんなそうですよ。ところでクラウトミュラーを志望した動機は何だったんですか?」


 本当はクラウトミュラーにも数十社出願していたのだが、岡島はもちろんそんなことはおくびにも出さない。第1志望であったのは事実なのだから。


「実はお付き合いしている人の持っているピアノが古いクラウトミュラーでして、素晴らしい楽器だとかねてから思っていました。それにブレーメンで指揮者の人から話を聞いたんですが、その人はクラウトミュラーが一番だと言っていました。それでここで修行出来たらいいなと思ったのです」

「そうでしたか。もしよかったらそこにあるクラウトミュラー、弾いてみませんか」

「良いんですか? ではお言葉に甘えて……」


 岡島はそれがテストの一環であることを知りつつも、楽器への興味が上回って音を楽しむことが出来た。


(これは……凄いな)


 新品ということもあって、結実子のピアノのような深みはないが、音色が多彩で、育て方次第ではこれから大化けしそうな伸びしろを感じた。そして誤魔化しや小細工のない、真っ直ぐな音作り。これがドイツの楽器なんだな……岡島はそう思った。


「岡島さん、ピアノ弾くのも上手なんですね。よくわかりました。クラウトミュラーには私たちの方からは岡島さんのことを非常に好印象だったとお伝えしておきます。もちろん最終的な判断はあちらでなされるので結果については何とも保証は出来ませんが」

「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします!」


 岡島は良い感触を感じて、意気揚々と帰路についた。滝藤楽器から少し離れたところで岡島は結実子に電話した。


「良かったじゃない、私も嬉しい。うまくいくといいね。ところで、帰りに銀座のマリアージュフレールに寄って来れるかしら? マルコポーロ1缶買って来て欲しいの」

「マリアージュフレールのマルコポーロだね。わかった。時間はあるからちょっと寄ってくるよ」


 岡島は電話を切ると、早速銀座へ向かった。結実子から頼まれた買い物を済ませて店を出ると、背後から声をかけられた。


「あれ? 岡島君じゃないか?」

「……大池部長?」


 岡島が振り向くと、そこにはヤマカワ本社技術部長の大池がいた。岡島を営業に異動させ、また会社を辞めるきっかけとなった張本人でもある。


「久しぶりだな。ドイツ行きの話は進んでいるのか?」

「ええ、こうして今代理面接に行ってきたところです」

「ほう……面白そうな話だな。君さえ良ければそこの喫茶店で話さないか。美味しいコーヒーをご馳走するよ」


 大池部長の勧めるコーヒーは確かに旨かった。岡島はそれを啜りながらこれまでの経緯を話した。


「それはそれは、まさにサクセスストーリーだな。それにしてもあの筒宜つつむべ先生のクラウトミュラーか、不思議な縁だな。私が言うのも何だが買い換えさせなくて良かったな」

「ははは……」


 ふと大池部長が姿勢を直して訊いた。


「ところで、その代理面接で君はピティフェでの活躍の話はしたのかね?」

「いいえ、何か話の流れがそっちに行かなかったので……」


 すると大池部長は手で顔を覆って言った。


「おいおい、どうしてその話しないかな……そこはアピールするところだろう」

「でも、技術的な修行の話ですよ。どうしてそんなアピールが必要なんですか?」

「考えてもみたまえ。そんな競争率の高い会社が、わざわざ遠い日本にいる君のために代理面接を依頼したんだぞ。クラウトミュラーが何を考えてそうしたと思う?」

「いや、よくわかりませんが……」

「君は少し前までクラウトミュラーの名前すら知らなかっただろ? そのようにこの国ではクラウトミュラーはまだまだ知名度が低いんだ。クラウトミュラーとしては日本での販路を広げたい筈だ。もし君を雇えばその突破口となるかもしれない、そんな期待があったんじゃないか」

「そうは言っても、ご存知の通り僕には営業力なんかありませんよ。販売の期待なんかされても後々期待外れということになりかねません」

「入ったら君の好きなようにやればいいさ。だけど、競争率の高い難関を突破するには使えるものは何でも使うべきだ。そういう意味でピティフェは最大の切り札だった。この話がクラウトミュラーに伝わってみろ、向こうはこちらが嫌と言っても飛びついてくるぞ」

「そうなんですね……面接前に大池部長とお話ししておけば良かったな……」

「でもまあ、滝藤楽器で好印象が得られたのなら、うまく伝えてくれるだろう。私も気になるから、結果が出たら連絡くれないか」


 大池部長はそう言って携帯番号の記載された名刺を渡した。そして岡島は大池部長と別れ、帰路についた。

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