遠ざかる風景
そろそろ語学コースが終わろうという頃、ジングがガラにもなく元気がなかった。
「なあ、どうしたんだい。そんなに落ち込んで君らしくないじゃないか」
「……別に落ち込んでなんかないさ」
そう強がるジングであったが、岡島には彼が気落ちする理由がわかっていた。最近、ユナとマリオが一緒にいることが多くなり、ちょっとした噂になっていた。そのこともジングには面白くなかったが、ついに決定的な場面に遭遇してしまったのだ。
それは数日前のこと、岡島とジングが朝早く朝食を取りに部屋を出ると、マリオの部屋の扉がガチャッと開いた。そしてその後そこからユナがコソコソと出てきたのだ。彼女は岡島たちと目が合うと気まずい顔で「おはよう」と言った。ふとジングの方を見ると、今にも倒れんばかりの蒼白な顔になっていたのである。
岡島は、落ち込むジングに「コースが終わった後旅行にでも出ないか」と話を持ちかけた。ちょっとした卒業旅行だ。しかしジングは言った。
「男同士2人きりか? そんなの嫌だよ。誰か女の子呼んでよ。そうだ、サエコとナオミがいい」
「え?」
ナオミの名前が出て岡島はドキッとした。仲間同士の旅行に誘うくらいはなんてことない筈だが、やはりナオミとなると意識してしまう。だが岡島は素っ気ないフリをしてサエコとナオミに旅行の話を持ちかけた。
しかしナオミは都合が合わず、残念そうに言った。
「うわあ、楽しそう! 誘ってくれてありがとう。だけど私コースが終わったらスイスの知人の家に呼ばれているの」
それを聞いて岡島はホッとしたようなガッカリしたような複雑な気持ちになった。サエコもコース終了翌日には日本に帰るとのことで旅行には参加出来なかった。だがジングが女の子と一緒がいいと言うので色々誘った結果、岡島のクラスメイトのソフィアとカリナが来ることになった。ディスコで岡島の頬にキスしたあの2人である。
そしていよいよ最後の授業となった。A2クラスではボイコットしていた生徒たちもみな出席していた。授業が終わると、ドロテアが岡島のところにやってきた。
「これ、なかなかよく書けていたわよ。頑張ってね」
そう言って彼女が手渡したのは、岡島が書いた願書を添削したものだった。
「ドロテア先生、本当にお世話になりました。このご恩は忘れません!」
「Ich drücke dir die Daumen(頑張ってね)」
ドロテアはそう言って親指を立てた。
クラスは解散となり、学校のロビーでは共に学んだ仲間たちとの別れを互いに惜しみ、ハグやキスを交わしていた。岡島はナオミの姿を見つけて彼女のところに歩み寄った。そしてまるで吸い寄せられるようにハグし合った。そして別れ際に彼女が言った。
「将来のこととか色々お話出来て楽しかったです。私、寿和さんと出会えて本当に良かったと思う」
そう言い残してナオミは去って行った。岡島の心には淡い余韻がいつまでも残っていた。
翌朝、岡島とジング、そしてソフィアとカリナはブレーメン中央駅に集合した。カウンターでジャーマンレールパス(外国人向けの乗り放題チケット)を購入し、どこへ行こうかと話し合った。全くの無計画旅行だったのである。当然宿泊先も予約していない。話し合った結果、取り敢えずベルリンへ行こうということで意見が一致した。
ドイツの新幹線であるICEに残って3時間足らずでベルリンに到着した。彼らが下車したベルリン東駅は旧東側にあたり、少し前まではいかにも東側という雰囲気を醸し出していたという。しかし岡島たちが見たのは完全に整備された近代都市の姿だった。それでもベルリンの壁のところに来ると、何とも重々しい空気が漂っていた。
壁の落書きを見ていると、突然ジングが壁のある一点を見つめて立ち止まった。
「どうしたの、ジング?」
ソフィアがそう言ってジングの視線を追うと、そこにはハングル文字で何か書かれていた。
「……そうだよ、僕たちはこのベルリンに続かなくてはならない。民族同士が真っ二つに裂かれているなんて悲劇だよ。国境の壁を取り去って一つになる。それが僕たちの悲願だよ」
ジングが重々しく言うのを岡島たちは真摯な心持ちで聞いた。しかしカリナが意を唱えて言った。
「でも何でもかんでも国境なくして一緒になるってどうかしら? 私は必ずしも賛成しかねない」
「ちょっと、カリナ!」
ソフィアが諌めたが、カリナは語り続けた。
「みんな私のことスペイン人って言うけど……たしかに国籍はそうなんだけど、本当はバスク人なの。バスクは独自の文化や言語、価値観を持っている民族なの。それがいつも“スペイン”を押し付けられ、みんな息が詰まりそうになっている。共に生きよう、ひとつになろう、なんて言葉は美しいけど、結局そうなった時には強者の論理がまかり通るのよ」
岡島は思った。世界には未だこんな風に束縛の中で生きている人たちが現実にいるのだな、と。一方日本は外部の支配を受けているわけではないのだが……なぜこうも閉塞感がこの国を支配しているのだろう。どうしてこうも窮屈さを日々感じながら生きているのだろうと思った。
翌日、一行はドレスデンへ行き、またその翌日はシュトゥットガルトへ行った。シュトゥットガルトで岡島は仲間たちと離れ、単独行動を取った。オスカーヴァルカーシューレで情報を得るためである。ルートヴィクスブルクはシュトゥットガルトから電車で15分の場所にあった。さらに15分程歩くとオスカーヴァルカーシューレに到着した。
「うわ、広いな……」
岡島はもっとこじんまりしたビルを想像していたが、学校の敷地はかなり広かった。情報を得るにはどこで聞けばいいのかわからなかった。そこでキャンパスを歩いていた職員らしき人を捕まえて聞いてみた。
「すみません、事務所はどちらですか?」
「ああ、管理事務所ですか? あそこの入口入って真っ直ぐ行くと突き当たりにありますよ」
「ありがとうございます」
岡島は言われた通りに歩いていき、管理事務所のドアをノックした。
「どうぞ、お入り下さい」
「すみません、ここで勉強したいと思っているんですがお尋ねしたいことがございまして」
「何でしょう。因みにここでは入学願書は受付けていませんよ」
「はい。そのことは既にお聞きしています。実は修行先の情報をこちらで頂けるということで参りました」
「そうですか。では……はい、ありました。こちらがドイツ国内の修行先リストです。もちろんこのリストに上がっているところ全てが今募集しているとは限りませんが、チャレンジしてみて下さい」
「ありがとうございます。修行先が見つかったらいつ学校への願書を出すのですか?」
「その必要はありません。修行先のほうが後は手続きをしてくれます」
「因みに、学費は国が負担しているとの事ですが、僕のような外国人がここで学んでも良いのでしょうか?」
「それは全然気にする必要はありません。現に多くの外国人がここで学んでいます。あとはドイツ語をしっかり学んでおいて下さい」
岡島は貰ったリストに目を通してみた。ざっと100軒はある。そのうち製造工場だけでも10軒は軽く超えていた。問題はこの内どれくらいが実際に募集しているかだ。まあ、とにかく当たってみるしかない。
その翌日は岡島は帰りの飛行機が飛ぶ日であった。残りのメンバーはもう少し残ってこれからケルンに行くという。岡島は彼らと固い握手を交わし、互いに抱き合って別れを告げた。
岡島の乗った飛行機はぐんぐんスピードを上げ、陸を離れるとあっという間に空高く昇っていった。岡島は窓から小さくなって遠ざかる行く風景を見ながら心の中で誓った。
「必ずまた戻ってくるからな……」




