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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
32/59

ボイコット事件

 それから数日経ってスタインウェイ社から返事が来た。その内容は以下のようなものであった。


──敬愛する岡島様


 この度は我が社に多大な関心を寄せていただきありがとうございます。

 お問い合わせの件ですが、当社は目下のところ働き口は一杯で残念ながら貴殿を採用することは出来ません。

 なお、アウスビルドゥングのことに関しては、ルートヴィクスブルクのオスカーヴァルカーシューレという職業学校にてお問い合わせ下さい──


(やっぱりな……ダメでもともとだもんな)


 わかっていたとは言え、岡島は肩を落とした。しかしもう一度じっくり文面を眺めていると、下の方に書いてあるワードが気になった。


 アウスビルドゥング

 オスカーヴァルカーシューレ


 何だ? これは。アウスビルドゥングを辞書で調べると「職業訓練 養成 修行」と書いている。


(つまりは、オスカーヴァルカーシューレというのはピアノ技術を学ぶ学校なのか?)


 岡島はインターネットで検索してみようと思い、日曜日の朝、ブレーメン大学ウニヴァジテートのコンピュータールームへ出かけようとして身支度を整えた。すると朝食を済ませてきたジングが岡島に声をかけた。


「なあ、これから一緒に教会に行ってくれないか?」

「教会?」

「うちの両親は熱心なクリスチャンなんだけど、僕がドイツに来てから一度も教会に行っていないって言ったら酷く怒られて……でも1人で行くのは心細いし」

「君なら誰彼となく喋るから、僕がいなくても大丈夫だろう。心細いなんてガラにもない」

「そんなこと言わないで頼むよ、一緒に来てくれよ」


 ジングに言われて岡島は教会も悪くないな、と思った。断りの返事で凹んでいた気持ちと、最近結実子以外の女性に目移りして浮き足立つ気持ちを引き締めるのに丁度良い気がした。


 荘厳な教会の椅子に座りパイプオルガンの音に耳をすませていると、心が洗われているような気がした。説教は……と言うよりどの話が説教なのかさえさっぱりわからなかったが、岡島が感動したのは聖歌隊の合唱だった。教会堂の構造のためか、まるで天から響いてきているように聞こえた。そしてその指揮が素晴らしかった。その手が何かを指す時、まるで天の窓が開いていくようだった。


 礼拝の後、別室でコーヒーが用意されていた。ジングは持ち前の社交性で彼らの和の中に入っていった。


(だから僕がいなくても大丈夫だと言ったのに……)


 逆に取り残された岡島は取り敢えず座るところを探した。すると運よくさっきの指揮者の隣が開いていたのでそこに座った。岡島は先ほどの感動を指揮者に伝えた。


「先ほどの合唱、とても感動しました! ありがとうございます」

「あなたは、音楽が好きなのですか」

「はい。僕はピアノの調律師なのですが、ドイツで修行したいと思ってここまで来たのです」

「それは素晴らしい。どこか修行先は決まっているのですか?」

「いいえ……実はつい先だってスタインウェイに申し込んだんですが断られてしまいました」

「スタインウェイですか……修行をするにはちょっと大き過ぎるかもしれませんね。もう少し小規模な工場の方が学ぶことは多いと思いますよ」

「そうなんですね。どこかおすすめはありますか?」

「ええ、私が一番好きなピアノはクラウトミュラーです。あそこは伝統的で工場の規模もさほど大き過ぎない。学ぶ場所としては最適だと思います」


 クラウトミュラー……結実子の家に代々伝わるピアノ。その名前をまた聞くなんて思いもよらなかった。もう少しその話を聞きたかったが、指揮者は教会の牧師に呼ばれて行ってしまった。


 月曜日になって学校に行ってみると、岡島のA2クラスでは異変が起こっていた。

 それまで教鞭を取っていたユリア・クレマーが突如他の学校に移ることになり、代わりにドロテア・ケラーマンという高齢の女性が受け持つことになったのだ。ユリアの評判が良かったこともあるが、ドロテアは愛想が良いとは言えず、たちまち生徒たちから不評を買う羽目になった。

 さらに悪いことには授業が接続法第二式という、ドイツ語文法の中で一二を争う難解な箇所に差し掛かっていたのだ。生徒たちはそのわかりにくさをドロテアの教え方のせいにした。


 数日後、岡島が学校に来てみると、教室にはインドネシア人のアリフ、中国人のヤーイーだけが来ていて、他の生徒の姿が見えなかった。彼らはみなドロテアの授業をボイコットしたのである。ドロテアが教室に入ってくると、別に慌てるでもなく開口一番にこう言った。


「あらまあ、これじゃ授業にならないわね。ちょっと待っててね、お茶淹れてくるわ」


 そう言ってドロテアは一旦教室から出て、ティーポットとクッキーを載せた盆を持って戻ってきた。


「さあ、いただきましょ」


 ドロテアは3人にクッキーを勧めながら、どうしてドイツへ来たのか、とひとりひとりに訊いていった。そして最後が岡島の話す番だった。


「僕はドイツでピアノ技術の修行をしたいという夢があるんです。先日スタインウェイに申し込んだんですが、断られて……でもその手紙の中にアウスビルドゥングのことが書いてあって、どうやらそれが自分の進む道かもしれないと感じています。でも具体的にどうしたらわからなくて……」


 するとドロテアが直ちに反応して言った。


「その手紙、今持っているかしら?」


 岡島は頷いてカバンの中から取り出した手紙をドロテアに渡した。ドロテアはそれを注意深く読んだ。そして顔を上げて言った。


「この学校の裏にピアノハウス・テンメという楽器屋があるのをご存知かしら? 私、そこの主人良く知ってるから、これからお話聞きに行きましょ。もう今日の授業はこれでおしまい、帰ってもいいわよ」


 ドロテアはアリフとヤーイーを帰して身支度を整えると、岡島を連れてピアノハウス・テンメへと行った。その店の主人はドロテアの姿を見つけると愛想良く迎えた。


「よお、ドロ、久しぶりじゃないか。今日は若いもん連れてどうしたんだい?」

「こちらは今私が受け持っている生徒なんだけど、ピアノのアウスビルドゥングをしたいそうなの。ちょっと話聞かせてもらえるかな」

「オッケー、じゃ、こちらへ来てください」


 こうして3人は簡単な応接スペースに座り、店長のラルフ・テンメはドロテアの話を聞いた後、岡島が持っていたスタインウェイからの手紙を読んだ。


「なるほどね。岡島さん、この国でピアノ技術者を目指すには国家の定めたアウスビルドゥングを受ける必要があるんです。学校で一気にまとめて学ぶ日本やアメリカと違って、こちらでは数ヶ月職場で、次の数ヶ月は学校で、と交互に繰り返し学んで行くのです。それを三年半続けた後に試験に合格すると晴れてクラヴィーアバウワーもなれるわけですよ」

「それを希望する場合、どこで申し込めばいいんですか?」

「まず徒弟として雇ってくれるところを探します。ピアノ工場や修理工房ですね。それが見つからなければまず事は進みません」

「ピアノ工場……先日、クラウトミュラーがいいという話を聞いたんですけど、どう思われますか?」


 すると、テンメ店長は高笑いして言った。


「確かにクラウトミュラーはアウスビルドゥング先としてベストです。でもそれだけに人気も高く競争率が高い。そうでなくても製造工場はどこも競争率が高くて、余程のことがなければ入れません」


 岡島は一瞬ハードルの高さに怯む思いを抱いたが、気を取直して質問を続けた。


「そのアウスビルドゥング先を探すにはどうしたらいいですか?」

手工業会議所(IHK)のサイトにたまに募集情報が出ています。でもそれは稀ですね。ルートヴィクスブルクのオスカーヴァルカーシューレに問い合わせればリストをくれるでしょう」

「ちなみにルートヴィクスブルクってここから近いんですか?」

「シュトゥットガルトの近郊ですからね、まあかなり遠いです」


 シュトゥットガルト……日本で言えば東京から広島くらいで、確かに近いとは言えない。しかしもう行くしかないと岡島は心に決めた。

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