遊学生活
岡島と同じクラスの日本人はサエコと言った。留学生仲間の日本人は互いに姓も漢字も知らない場合が多い。サエコの場合もそうであるし、彼女にとっても岡島は“トシカズ”であった。
サエコは大学の先輩であるというナオミと仲良くしていた。ナオミはB1クラスで、美人とは言い難かったが愛想が良く、屈託のないその笑顔は人を惹きつけるものがあった。
岡島は学食で成り行き上、サエコやナオミと一緒になることが多かった。ナオミはドイツで職を得たいという夢を持っていて、そのことで意気投合し、次第に岡島は(この子、いいな)と密かに思うようになった。
ある日、ジングと一緒にブレーメン音楽大学へ学生コンサートを聞きに行った時、ジングは岡島に言った。
「トシカズ、ナオミのこと好きだろ」
岡島はそう言われてギクッとし、慌てるように反駁した。
「ば、馬鹿なこと言うなよ。僕にはちゃんと彼女がいるんだぞ」
岡島はジングに幾度ともなく結実子の写真を見せていたので、そのことは承知している筈である。
「そうだよな、どう見てもナオミより君の彼女の方がいい女だもんな……なのにどうして君はナオミのことが好きなんだ?」
ジングがあくまで岡島がナオミを好いているという前提で話してくるので、話の矛先をジングに向けた。
「そう言う君はどうなんだ? ユナのことはどう思っているんだ?」
「ユナ……? 彼女は僕にとって누나(姉)みたいな存在だよ……」
ジングが心なしか寂しそうに言うのを聞いて、岡島は先日のパーティのことを思い出した。そのパーティの時イタリア人のミレーナがユナに冷やかし半分にこう言ったのである。
「ねえ、ユナとジングって凄くいい感じじゃない?」
するとユナはムキになって声を荒げた。
「あり得ないわ! 韓国じゃ年下の男性とくっつくことは殆どないのよ。たまに例外はあるけど、私は年下の彼氏なんて絶対嫌よ!」
岡島が話半分に聞いていると、それを察知したのか、ユナが岡島を睨んで言った。
「ちょっとトシカズ、冗談だと思ってるでしょ! 本当なのよ、ちゃんとわかって!」
その迫力に気圧されて岡島はまるで謝罪でもするかのように言った。
「わ、わかったよ。ちゃんと納得したから……」
後からわかったのだが、ミレーナにはユナとジングにくっついて欲しい事情があった。と言うのはミレーナはC1クラスのマリオというイタリア人のことが好きだったのだが、マリオはユナのことを狙っていたのである。それで邪魔者に消えて欲しかったのだ。
(しかし、あの時ユナはどうして僕に突っかかってきたのだろう)
そんな岡島の思いに気づいたのか、ジングがこんなことを言った。
「ユナと言えばさ、彼女、トシカズに気があったみたいだぞ。僕が『トシカズには美人の彼女がいる』って言ったら、すっげえ落ち込んでたよ。いいよなあ、モテる男は」
(え、モテる? 僕が……?)
岡島は生まれてこのかた、自分が異性にモテるなんて考えたことすらなかった。結実子みたいな美人と交際していることも殆どあり得ない奇跡のようなものだった。
岡島の“自分はモテるんじゃないか”疑惑が濃厚になったのは、数日後に学校の主催するディスコパーティーに参加した時だった。
岡島は日本でもクラブなどという場所に行ったことがない。なぜ金を払ってまで踊りに行くのか理解出来なかったのだ。そんな岡島が初めて足を入れたディスコというところは想像以上に殺風景だった。ドリンクを提供するカウンターとほんの数台のテーブルを除けば、本当に何もない。これで入場料が取れるなんてボッタクリだ、と岡島は思った。
岡島は見ていて欧米人は踊るのが上手いと思った。特にラテン系の人たちは上手かった。岡島も見よう見まねで踊ってみたが、カルロスというベネズエラ人から日本語で「ヘ・タ・ク・ソ!」と言われ、頭に来て踊るのをやめてしまった。そうしてテーブルでビールを飲んでいるとナオミとサエコが寄って来て言った。
「ねえ、ソフィアとカリナがトシカズさんと一緒に写真撮りたいって言ってるんだけど、こっち来てくれる?」
ソフィアはギリシャ人、カリナはスペイン人で、彼女たちは岡島と同じA2のクラスメイトだった。岡島は誘われるままにナオミたちについて行った。すると、そこには3つパイプ椅子が並べられて、右端にソフィア、左端にカリナが座っていた。そしてサエコが「真ん中に座って」と言ったので岡島は言われる通りにした。
3人並んで座ると、サエコがカメラを向けた。そして言った。
「はい、チーズ!」
するとその瞬間、ソフィアとカリナは素早く岡島の方を向き、岡島の頬にキスをした。すると一同が岡島たちの方を向いて一斉に拍手や口笛で囃し立てた。
しばらくしてほとぼりが冷めた頃、ナオミがやって来て言った。
「ごめんね、騙したみたいで。実はガールズトークで彼女たちが『日本人の男ってキスしないの?』って聞くから、『そんなことないよ。だけど欧米人みたいに矢鱈とはしないかな』って答えたの。そしたら『トシカズにキスしたらどうなるか試してみたい』って言い出して、私たちでセッティングしたのよ」
無論岡島は悪い気はしなかった。もしかして自分本当にモテるのかな……と思った。だが、ナオミが他の女性に僕にキスさせる事を何とも思っていないのか……と思ったら少し寂しい気がした。
ともあれ、色々な国の女の子にチヤホヤされて岡島は気分よくなっていた。それは同時に結実子との関係をギクシャクさせることにも繋がった。
滞在1カ月になる頃から、結実子は修行先探しはどうなったかとしきりに言うようになった。
「寿和さん、毎日楽しむのはいいけど、少し目標を見失っていないかしら。これじゃ、留学じゃなくて“遊学”だわ」
そのようなことを言われ続け、岡島は結実子との会話が少し疎ましいと感じはじめた。それを結実子は寂しく思い、そのことがまた言葉をきつくさせたので、完全に悪循環だった。
そして、とうとう結実子はこう切り出した。
「今日ね、父から『岡島君はちゃんと仕事探ししているのか』って聞かれて『うん、今度の週末スタインウェイに面接に行くみたい』って言っちゃった。だから、取り敢えずスタインウェイに行くだけでも行って欲しい。別にダメでもいいから」
岡島はいやとは言えず、早速土曜日に1人でハンブルクへと出かけた。ブレーメン中央駅からハンブルク中央駅までは電車で1時間ほどの距離にある。さらにそこからSバーンという通勤電車で15分ほどのディープスタイヒという駅から歩いくとスタインウェイ本社にたどり着く。
「うわ、立派な建物だな……」
スタインウェイ工場の煉瓦色の壮観な佇まいは、ピアノ業界の王者としての貫禄を感じさせた。だが、土曜日ということで入口は閉鎖されていた。入口の横に守衛室があったので、そこにいた門番に尋ねてみた。
「あの、すみません」
「はい? 何のご用で?」
門番は面倒くさそうに応対した。
「実はここで働かせていただきたいと思ってるんですが、どなたか担当者とお話し出来ませんか?」
岡島がそう言うと、門番はため息ひとつついて言った。
「今日は休みだから、会社の人間は誰も来ちゃいないよ。いや、いたとしてもアポなしじゃ会ってもらえない。まず履歴書添えて手紙を書くんだな」
そう言って門番はガサゴソとメモを書いて岡島に渡した。
「これがここの住所と担当者の名前だ。駄目元でやれるだけやってみな。幸運を祈る」
「ありがとうございます」
ブレーメンへ帰った岡島は早速手紙を書いて投函した。




