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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第三章 修行時代〜渡独編
30/59

語学学校

 岡島が目を覚ますと、時計は午前4時を指していた。ホテルの朝食の時間まであと2時間以上ある。何もすることがないのでとりあえずテレビをつけてみた。


(うわっ全部ドイツ語だ!)


 そんな当たり前のことに岡島は感動する。日本ではドイツ語の音声を聞く機会が少ない。英語なら色々と教材が揃っているが、他の言語は教材探しでも苦労するものだ。そういうわけで夢中でドイツ語のテレビ放送を見ているとあっという間に朝食の時間がやってきた。


 ホテルからレーズム駅まで2kmほどあり、手ぶらであれば歩けないこともないが、重いトランクを引きずりながらこの距離を歩くのはやはり無理がある。それでホテルのフロントでタクシーを呼んでもらい、それに乗っていくことにした。


「レーズム駅までお願いします」


 ……と言ったつもりだったのだが、明らかにタクシーは別の方向に向かっていた。そしてアウトバーンに乗り出したので、もしかして中央駅に向かっているのか? と岡島は思った。


「あの……もしかして中央駅向かってます?」

「ええ、あなたそう言ったでしょ」


 発音が悪くてちゃんと通じていなかったのか、わざと聞き間違ったふりして距離の稼げる中央駅に向かったのかわからないが、中央駅までだと料金がずっと高くなってしまう。しかしもう大分走り出してしまったので、今更「レーズム駅へ行きなおしてくれ」とは言いづらいし、面倒くさかった。どうせなら、とゲーテインスティテュートまで走ってもらうことにした。


 そうしてタクシーが目的地に到着した。目の前には古い建物があり、入口のところに“ゲーテインスティテュート”と書かれた小さな看板があった。入口の前には体格のがっしりとした、いかつい顔つきのアラブ系の男がまるで番兵のように立っていた。


(もしかしてこの学校の警備員かな?)


 そう思って岡島は恐る恐る訊ねてみた。

「すみません、今日からここで勉強しに来たんですけど、受付はどこですか?」


 すると男はムスッとした表情のまま入口の奥を指差した。色々と細かく指が動いていたので、どうやら道順をジェスチャーで説明しているようだった。覚えきれないので取り敢えず礼だけ言って岡島は中に入った。受付は彼のジェスチャーほど複雑な場所にはなく、すぐにわかる場所にあった。受付にはカールをした金髪のおばちゃんがいた。


「ようこそいらっしゃいました。岡島さんですね……レベルはどれくらいにしますか?」

「日本でA2のクラスを取っていたので、できればB1あたりでお願いしたいのですが……」

「わかりました。それではテストをしましょう。それによって適切なクラス分けをさせていただきます」


 金髪カールのおばちゃんは問題用紙と解答用紙を岡島に渡し、部屋の隅にある机をさしてそこで問題を解くように指示した。岡島は早速問題に取り組んだが、B1のテストというだけあってかなり難しかった。解答用紙を取り敢えず全て埋めると岡島はそれを金髪カールのおばちゃんに渡した。


「ご苦労様です。結果を鑑みてクラス分けします。明日の朝、ここでお知らせします」


 その日はテストの結果はわからなかったが多分B1は無理だろうと岡島は思った。別に無理して難しいコースを取る必要はなかったので結果にはさほどこだわらなかった。宿泊する学生寮ヴォーンハイムは学校のすぐ側というわけではなく、路面電車シュトラーセンバーンに乗って通学しなければならない距離にあった。翌日、市内交通の一カ月券を購入するということで、この日はツィヴィ(注;兵役の代わりに就く社会奉仕者。2011年に制度廃止)が車で学生寮ヴォーンハイムまで送り届けた。

 寮の部屋は2人部屋で、岡島が着いた時にはもうすでにルームメイトが入室していた。東洋人の男性で日本人かと思ったが、相手はいきなり韓国語で話しかけてきた。


혹시(ホクシ) 너는(ノヌン) 한국분(ハングップン) 이야(イヤ)?(君、もしかして韓国人?)」


 だいたいの察しはついたが、正確には何を言っているのかわからず、岡島はとりあえず自分が韓国人でないことをアピールした。


「あ、いや、僕は日本人だよ。岡島寿和といいます」

「日本人かあ。僕はキム・ジング。よろしく」


 ジングはそう言いながら椅子から立ち上がって岡島停めてます握手を交わした。岡島より頭一つ分高い長身で、茶髪のロン毛だった。本人曰くドイツ語はほとんど話せず、英語もあまり上手とは言えない。それでもかなり饒舌で、岡島が荷物の整理をしている間もひたすら話しかけてきた。


 翌日、起きてみると朝食の時間となっていた。ジングはまだグッスリ眠っている。岡島は起こしてやるべきか迷ったが、結局放っておくことにした。しかし、岡島が朝食を済ませて部屋に戻ると、ジングがそのことで文句を言った。


「何で起こしてくれなかったんだよ!」

「知らないよ、そんなもん自己責任だろ。取り敢えず学校行く時間だからパンだけでももらっていけば?」


 ジングはパンをもらってそれを齧りながら学校へ向かったが、その道中、何で起こしてくれなかった、と岡島に文句を言いつづけた。面倒くさいな、と思った時、後ろから女性の声がした。


당신은(タンシヌン) 정말(チョンマル) 아이(アイ) 같다(カッタ)(あんたって、ホント子供みたいだね)」


 振り向くと、声の主はすらっとした東洋人の女性で、なかなかの美人だった。彼女は岡島の存在に気付き、声をかけてきた。


「私はハン・ユナ、韓国人よ。あなたは?」

「僕は岡島寿和、日本人だよ。ジングとは同じ部屋なんだ」


 するとユナは目を丸くして言った。


「え〜! ジングと同じ部屋? 大変だったでしょう。困ったことがあったら私に言ってね」

「いやいや、結構楽しませてもらってるよ。ところで、ジングとは前から知り合いだったの?」

「同じ大学だったの。学年も学科も違うから当時は殆ど交流なかったけど、ジングの噂は度々耳にしていたわ。あのね、彼を見てこれが韓国人だとか思わないでね。この人は特別だから」


 岡島とユナが話していると、まだドイツ語の理解出来ないジングが「君たち、一体なに喋ってるんだよ、どうせ僕の悪口だろう」とブツブツ言った。


 学校に着いてクラス分けを見てみると、案の定岡島はA2のクラスになっていた。ユナも同じA2クラスだったが、全く初心者のジングはA1クラスに入った。そのことでもまたジングは不服そうに呟いた。


「なんで僕だけ仲間ハズレなんだ……」


 ユナは既に呆れて知らんぷりしていた。これまで見た感じでは、どうやらジングはユナに気があるようだったが、ユナの方は全く相手にしていないようだった。


 A2クラスは全部で12人の生徒がいた。日本人が岡島と大学生の女の子の2人、韓国人はハン・ユナが1人、その他は中国人、スペイン人、ブラジル人、ギリシャ人、チュニジア人、レバノン人、インドネシア人、ロシア人、トルコ人が各1人ずついた。驚いたのは昨日入口の前に立っていた番兵のような男が、実は同じクラスの生徒だったことだ。レバノン人で名前をオサマ・ハラウィーと言った。岡島はオサマのほうが絶対年上だと思っていたが、実は岡島より5歳も若かった。


 その日はほとんどオリエンテーションだけで授業らしい授業はしなかった。市内交通の営業所へ行って一カ月券(モナツカルテ)を買い、その後クラス全員でブレーメン専門大学ホーホシューレ学食メンザへ行き、そこで昼食を取った。

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