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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
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いつかのバレンタインデー

 これは岡島寿和がピアノ調律師になる前のお話。

 岡島寿和は高校を卒業すると、ピアノの調律を勉強するために静岡県の浜松市に住んだ。一応学生の身分であるが、岡島が学んでいた学校は楽器メーカー・ヤマカワ株式会社の直属の施設であり、ほとんど社員教育と呼んでいいほどの厳しい研修が施されていた。

 朝8時から夕方6時までみっちりとシゴかれ、一日が終わる頃になると生徒たちはヘトヘトになっていた。まるでサラリーマンよろしく、憂さ晴らしに町に繰り出して酒を飲みに出かける者たちもいた。しかし、岡島は酒には強くなかった上、あまり仲間とつるむのも好きではなかったので彼らには加わらなかった。


 そんな岡島のささやかな楽しみはクリエート浜松というメディアセンターに通うことだった。そこには壁で仕切られた席がいくつもあり、そこに座ってCDやビデオを鑑賞するようになっていた。 岡島は疲れた時にはよくそこでクラシックのCDを聴いてゆったりとした時間を過ごしていた。


 ある日、いつものように岡島が席についてCDを鑑賞していると、ふと背後に人の気配を感じた。


 ふりむくとそこには制服を着た高校生の女の子がいた。 ショートカットでどちらかと言えばまじめそうな感じの子だった。 しばらくして彼女はすこし恥ずかしそうに言った。


「あの……これ……もらってください。」


 そういって差し出されたのは、きれいに包装された小さな箱だった。 岡島が受け取ると、彼女はそそくさと去っていった。


 なんだろう。中を開けてみると、中身はマーブルチョコだった。


(そう言えば今日はバレンタインデーだっけ……)


 それにしても何の変哲もない普通のマーブルチョコだ。 何かメッセージが添えられているわけでもない。どうしあそこでこれを受け取ることになったのだろう……


 岡島は色々考えたけど、よくわからなかった。


 それ以降、岡島は何度かその場所に行ってみたが、2度と彼女を見かけることはなかった。


 しばらくするとそのことは忘れてしまったが、岡島はそれから20年の間、バレンタインの日になるとふと思い出すのであった。


(やはり今考えても不思議な思い出だな……)

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