表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第二章 修行時代〜日本編
27/59

旅立ちの前

 料理が運ばれてくるまでの間、掘り炬燵式の座敷部屋には何とも重苦しい空気が漂っていた。それを払拭するかのように結実子の母親が訊いてきた。


「岡島さん、会社をお辞めになってからの生活はどうですか?」


 ほんの世間話のつもりなのだろうが、岡島にしてみれば、答えようによっては命取りになりかねない危険な話題だった。岡島は慎重に言葉を選びながら受け答えた。


「ドイツ語と格闘する毎日です。なかなか難しくて、仕事をしていた頃とはまた違った苦労ですね」


 これで何とか乗り切ったかと思いきや、結実子の父親である筒宜堅実つつむべたてみが突っ込んできた。


「しかしあなたのようなお年頃で学生気分とは、気楽で結構なことです」


 その言葉は岡島の心に突き刺さり、結実子と母親は「ちょっと、お父さん……」と小声で諌めた。結局のところ余計に場の空気が重たくなってしまった。


 その雰囲気を打ち破るかのように店員がやってきた。


「お待たせしました。こちらモツ鍋でございます」


 店員がテーブルコンロの上に鍋を置くと、母親が言った。


「わあ、美味しそう。さ、みんな食べましょう」


 モツ鍋のおかげで少し和やかな雰囲気となり、岡島はホッとした。


 結実子の父親に会いたいと岡島は度々モーションをかけていたのだが、堅実は仕事が忙しくてなかなか会える時間が取れなかった。数ヶ月経ってようやくこの会合が実現した次第である。


 ブレーメンのゲーテインスティテュートから返事が来て授業料の払い込みも済ませ、正式にドイツへ渡ることが決まった。そしてドイツ行きが1か月後というタイミングで岡島はようやく結実子の父親に会えたのだった。しかし堅実は岡島に対して終始厳しい態度で臨んでおり、岡島はやりにくさをひしひしと感じていた。


「岡島君は……ドイツで具体的に何をやりたいんですか?」


 堅実は鍋を突きながら訊いてきた。


「……正直言って、まだドイツで何が出来るのかわかりません」

「わからない?」

「ええ。ネットで調べても特にそういうのを募集しているというような情報もありませんし。ただ僕はヤマカワで働いてきて、得意なことも苦手なこともやってみて自分に何が向いているのか見極めることが出来たと自負しています」

「ほう、それで君は何に向いていると?」

「作ったり修理したり……自分で手を動かすことによって何かが作られていく……そのことに喜びを感じるんです。考えてみれば僕は幼少の頃からずっとそうでした。だからドイツへ渡ることによって自分のそういった素質を切磋琢磨して行きたい……来月から2か月間、それが実現できる場所を探して来たいと思います」

「そうですか……普通はそうは思ってもなかなか前進できない。その一歩を踏み出す勇気と決断はとても尊いものだと思います。その気持ちをずっと大切に持ち続けていなさい」

「ありがとうございます」


 やっと出た褒め言葉に岡島はホッと一息ついた。しかし堅実はその気持ちに釘を刺すように言葉を足した。


「君は物作りが得意だと自分で言ったね。私が色々な人間を見てきて思うのは君のようなタイプは物をじっくり見て判断したり解決の糸口を見つけるのに長けている。だが反面人から何かを学ぶのが苦手な場合が多い。違いますか?」

「……おっしゃる通りです。自分で考えて行動するのは得意ですが、人の意見や指摘を取り入れて行動するというのはかなり苦手です」

「だがそこに留まっていては、いくら物作りが得意でも良い職人にはなれない。だからもし君が仕事を極めたいと思うなら、人から学ぶことを覚えなさい。

 特にヨーロッパへ行くなら尚更大切です。日本の職人は目で仕事を盗むと言いますが、向こうでは師匠にうるさいくらいに質問をして、言葉を通じて仕事を覚えていくと聞いています。

 だから海外に出て言葉が通じないからと引きこもっていると決して成功しませんよ。積極的に人にぶつかっていきなさい」

「ありがとうございます。肝に銘じておきます」


 約2時間ほどの会合であったが、岡島にはそれが何十時間にも感じられ、家に帰った時にはグッタリとなった。机の上に置いてあった、ゲーテインスティテュートからの案内状を読み直してみた。


 ──ゲーテインスティテュート・ブレーメン校までの行き方


 ブレーメン中央駅南口を降りて、そこから路面電車シュトラーセンバーン2号線に乗り、二つめの停留所「アム・ドッベン」で降りて徒歩5分──


 読んでいて岡島は心配になった。たったこれだけの情報で本当に辿り着けるのだろうか。そもそも路面電車シュトラーセンバーンの切符はどこでどうやって買うのだ? もしわからなくて誰かに聞きたくても日本語が通じない。どうするんだよ。っていうか、日本語が通じない世界ってどんな感じなんだ? テレビで海外の様子を何度も見ているけど、現実にそんな場所があるのか、まったく実感がない。


 岡島は徐々に恐怖に襲われてきた。たかだか2か月外国語の勉強をしに行くだけなのに、生まれて初めて日本の国境を出るというのは相当な恐怖であった。


 気持ちを落ち着けようとテレビをつけてみた。するとアグネス・チャンが何かの講演会でスピーチしているところが映し出されていた。


 ──私は最初、日本へ渡ることがとても怖かったのです。何があるのか全くわからない、友達もいない、言葉も通じない国……そんなところへ行ったら私はどうなってしまうのだろう。出発するまでの間、私はそんなことばかり考えて不安で不安でたまりませんでした──


 それを見て岡島は思った。日本に渡る前の不安に怯えるアグネス・チャン……まるで今の自分と同じじゃないか。あんなに世界を渡り歩いて活躍している人でさえ、初めて海外に出る時はこんなに怯えるものなのか……そう思うと少し気が楽になった。


 その時、携帯が鳴った。結実子からだった。


「寿和さん、今日は父と会ってくれてありがとう」

「こちらこそありがとう。何だかんだ楽しかったよ」

「何か父が色々失礼なこと言ってごめんね。悪気はないんだけどあの人、口が悪くて……でも、今日寿和さんと実際に会ってみてすごく印象良かったみたいだよ」

「本当に? よかった」

「頑張るよう伝えて、だって」

「うん。ありがとうございます、とお父さんに伝えて」


 結実子との電話を終えると岡島は肩の荷が下りた気がして、そのまま深い眠りに落ちていった。

 第二章終了、第三章へ続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=956274328&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ