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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第二章 修行時代〜日本編
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失業申請

 ヤマカワにいた頃は、どんなに辛くても一生ここから抜け出せないのではないかと、心のどこかで思い込んでいた。しかし、こうしていざ退職してみるとこんなにもアッサリと抜け出せるものなんだ……岡島はそう思った。


 勤め人の時は考えられないほど朝寝坊した後、岡島はハローワークへと出かけ、失業申請の手続きを行なった。すぐに終わるかと思いきや、講習会に参加させられ、ビデオを見せられた。その内容の主な強調点は失業手当受給中は働いて収入を得てはならない、ということだった。もし収入を得れば必ず申告すること、その分は失業手当から差し引かれ、もし申告せずに後で発覚した場合、不正受給として処罰される……ということだった。


 岡島の場合、自己都合退職という扱いになるので、申請後3カ月は失業手当の支給はなく、4カ月目から6か月目までの3カ月間に支給されることになる。それまでは退職金が給料3カ月分あるので、取り敢えず半年間は何とか生活はできる。出来ればこの期間内に進路を決めておきたいと岡島は思った。


 岡島がハローワークを出ると、携帯が鳴った。筒宜つつむべ結実子からだった。


「もしもし、どうしたの?」

「あのね、お父さんに寿和さんがドイツに行くから会社辞めたって言ったの。そうしたら『ウチの娘をどうするつもりなんだ! そんなヤツの顔は見たくもない!』って何だか怒っちゃって……」

「ええ……まずいな、それは」

「まあ、ちょっとヘソ曲げてるだけだから思うんだけどね」

「こうなる前に早く挨拶したほうがよかったかな……今さらだけど、お父様にお会いしたいと伝えてくれるかな?」

「大丈夫なの?」

「うん。そりゃ、緊張はするだろうけど……今後のために会っておいたほうがいいと思う」

「わかった。お父さんに話してみる」


 結実子の父親……筒宜堅実つつむべたてみは一級建築士で建築事務所を営んでいる。結実子の話によると、根は優しいのだが言葉遣いに関しては辛辣で若干嫌味なところもあると言う。彼と接して傷ついた人間は数知れないとのことであった。


(これはまた課題が増えたな……)


 失業して暇になるかと思いきや、結構色々と忙しい。岡島はこれからドイツ語学校の授業があって、この日初参加となる。その学校ではドイツのゲーテインスティテュートのプログラムに因んでA1、A2、B1、B2、C1という5つのコースがあった。A1がいちばん易しく、C1が上級コースであった。岡島は独学で少し勉強していたのでA2クラスから参加することになった。教室に入ると、7人の生徒がすでに着席していた。


「今日から一緒に学ばせていただく岡島寿和と申します。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」


 生徒たちの年齢はまちまちで、大学生風の青年から初老のおばあさんまで幅広かった。授業開始時間になると、ドイツ人男性の先生が教室に入ってきた。彼は岡島の顔を見ると、上手な日本語で話しかけた。


「はじめまして。このクラスを受け持つミヒャエル・メッツガーです。よろしく」

「よ、よろしくお願いします」


 こうして互いに自己紹介したが、このクラスで日本語を使えるのはこれが最後だった。それ以降、ずっとドイツ語である。A2はまだ初級の筈なのに、みんな流暢にペラペラ話していて岡島は呆気にとられた。そして生徒の一人が何かジョークを言ったらしく、一同はどっと笑いだした。しかし岡島は全く理解できず、取り残された気分だった。それで岡島はすっかり凹んでしまい、授業に全くついていけなかった。授業が終わった後、メッツガー先生が日本語で声をかけてきた。


「どうでしたか、初めての授業は」

「いやあ、自分で勉強したつもりだったんですけど、全然ついていけませんでした……情けないです」

「はじめはみんなそうですよ。何が一番難しかったですか?」

「文法的なことはそんなに難しくはありませんでした。でも、誰かがドイツ語で話していても全然聞き取れないんです」

「たしかに、日本人がドイツ語を勉強する際、一番難しいのがヒアリングだと皆さんおっしゃいます。岡島さんはこのクラスの生徒さんを見て『あんなに話せていいな』と思われたかもしれませんが、彼らも実際にドイツへ行ってみれば今の岡島さんと同じ気持ちになるでしょう」

「そうなんですか……何か良い勉強方法はありませんか?」

「テキストにCDがついていたと思うんですが、それを聞きながら聞き取れたところを書き取っていく。これをディクタートと言いますが、この練習方法を続けていたらかなりのヒアリング力がつく筈です」

「なるほど、やってみます」

「あと、毎回授業を録音して後で聞いてみて下さい。そうすると授業の理解度は倍以上になりますよ」


 岡島はメッツガー先生のアドバイス通り、ディクタートの練習をはじめた。そして次の授業から携帯のボイスメモで録音し、後で復習した。そんなことをしばらく続けていると授業中に生徒たちが話している内容なら理解できるようになった。それだけでなく、初めはあんなに話せてすごいと思っていた人たちも案外間違ったりしていることに気づくようにもなった。


 そんな岡島の様子に関心を示したのか、ある日、授業が終わるとメッツガー先生がやってきて岡島に訊ねた。


「岡島さん、ずいぶん熱心に勉強しておられますが、何か特別な目的があるのですか?」

「はい、僕はピアノ調律師なんですがドイツで修行したいと思っています。とは言っても別に就職のアテがあるというわけじゃないんですが……でもそれを探すためにドイツ語が出来るようになりたいと思っています」

「それはとても興味深いですね。でも……それだったら今日本にいるのはもったいないと思います。一度ドイツへ渡って語学留学してみてはいかがでしょうか」

「語学留学!?」


 それは海外へ行ったことのない岡島にとって突拍子のないアイディアに思われた。


「例えばここではA2を終了するのに半年以上かかりますが、現地のゲーテインスティテュートであれば2か月で終わります。それだけではなく毎日ドイツ語を話す環境に身を置くだけで飛躍的に言葉が上達します。そしてその滞在期間中に修行先を探すことが出来るんじゃないですか?」


 確かにそうだ、岡島はそう思ったが未知の世界に足を踏み入れるのはやはり勇気がいる。


「こちらはドイツのゲーテインスティテュートのパンフレットです。添付の申込書に記入して、この学校の事務所に提出すればあとはやってくれますよ」


 岡島はそのパンフレットを受け取って目を通した。ゲーテインスティテュートはドイツ国内のあらゆる町に点在しており、それぞれが異なる期間にコースを提供していた。岡島の目はその中でブレーメン校に止まった。スタインウェイやクラウトミュラーの本拠地からも近く、次に参加できるコースがちょうど失業手当の受給が終わる頃に始まる。


(よし、ここで決まりだな)


 そう思って早速岡島は申込書に必要事項を記入していった。

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