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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第二章 修行時代〜日本編
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祭りの後

 ピティフェ予選会が一段落した頃、ヤマカワ本社から奥本課長に連絡があった。


 ──来週金曜日に大池技術部長がそちらを訪問するので、予定を開けておくように。そして岡島寿和も話し合いに同席させること──


 何を話すのか内容は知らされなかった。しかし声の調子であまり良い話ではないことが伺えた。


 そしてその金曜日、大池技術部長が仁科という部下を連れて勝小田店にやって来た。


「大池です。どうぞよろしく」


 大池は背が高く、向き合っていると自然に見下ろされるような格好となる。そればかりか態度も大きく、岡島には常に厳しい態度で臨んでいるように思われた。


「岡島君、営業に移ってそろそろ一年近く経過するが、仕事の方はどうだい」

「……この一年はレスナー開拓などの販売の下地作りに徹して来ました。近い将来には生徒さんのピアノ購入紹介の話が出てくると思います」

「近い将来、ね。その紹介貰えそうなレスナーさんはどれくらい開拓出来てるんだ」

「……必ず僕だけに紹介下さるような先生は4人ほどでしょうか」


 その内1人は恋人関係にあるが、無論そんなことは口にしない。


「4人……ちょっと少なすぎやしないか。単純計算すると3カ月に1人開拓したことになるな。奥本課長さん、こんなペースで営業は務まるんですかね」

「もちろんペースとしてはゆっくりですが……岡島はこの一年、ピティフェの支部設立に従事してきました。先日予選会も行われて参加者も会員も増え、成果が上がっているのです」

「ピティフェみたいな外郭団体の支部を立ち上げたところで、会社に何の益があるというのだ。そもそも売り上げを伸ばすためのピティフェだろう。それで販売が疎かになっているんじゃ本末転倒だ」


 岡島は思った。この大池という男はただ叱りに来ただけだ。何をアピールしたところで、難癖つけられるのがオチだろう。


「ともかくだ、岡島君。今から1カ月以内に本社を納得させるだけの販売実績を出したまえ。少なくともグランド一台だ。それだけでも何とかしろ、いいな」


 こうして大池は岡島を厳しく責め立て、数時間後に本社に帰って行った。そして月曜日までに10台分のPP(見込み)リストを作って本社に提出するよう求められた。その日の晩、結実子とのディナーだったが、岡島はグッタリと疲れてしまっていた。


「寿和さん、今日は何だか疲れてるみたいね」

「うん、実は本社から凄く厳しい人が来てね……」


 岡島は今日あったことを一部始終結実子に話した。


「ピティフェもあんなに頑張ってたのに、それが評価されないなんて酷いね」

「本社としてはピアノが売れない技術者は徹底的に吊るし上げようって魂胆なのだろう。そうやって見せしめにすれば他の技術者の気が引き締まるってことでね」

「やっぱり……会社向いてないんじゃない?」

「そうだね。色々考えてみるよ」


 週が明けて月曜日、本社の大池部長が岡島に電話して来た。PPリストを一読した上でのコメントだった。


「リストアップが致命的に少ないな。だが時間もないだろうから、上がっているところに集中して確実に販売に持っていけ。ところで、この筒宜つつむべさんって100年前のクラウトミュラー使ってるじゃないか。ヤマカワのピアノを持っていないレスナーからはヤマカワのピアノは売れないぞ。この機会だからヤマカワに買い換えて貰え。いいか、筒宜つつむべさんの買い換えに集中しろ」


 電話を終えて岡島は嫌な気分になった。結実子のクラウトミュラーは祖母から伝わってきた貴重なピアノで、何物にも代え難い。あの音は新しい量産ピアノなどで出るものではない。それを買い換えろだなんて、例え仕事でも言いたくない。


 しかし、それ以降大池は事あるごとに連絡を寄越して「筒宜つつむべさんどうだ」とプッシュしてきた。まだ何もアクション起こしていないと言うとこっ酷く叱られた。そんなことが続いて流石に岡島も嫌になってきて、


「わかりました、話だけでもしてみます」


 と言った。


 話だけならいい。とりあえず選ぶのは向こうなのだから、と岡島は自分に言い聞かせた。そして岡島は結実子の家に行った。


「今日はどうしたの?」

「うん……仕事のことでお話が」


 そう言って岡島は家に上がった。


「ちょっとピアノ弾かせてもらってもいい?」

「ええ、どうぞ……」


 そして岡島は心ゆくまでピアノを弾いた。やっぱりいい、このピアノは。そして思った。絶対に買い換えさせてはいけない。たとえそれで会社をクビになったとしても。


「……ありがとう、相変わらずいいピアノだね」

「うん、それでお仕事の話って何だったの?」

「いや……もういいんだ。今日はこれでお暇するよ」


 結実子は不可思議な表情をしながら、足早に立ち去る岡島を見送った。


 それから約ひと月経って、再び本社から大池部長がやって来た。


「さあ、岡島君。あれから約束の1カ月が経った。当然成果は出たんだろうね?」


 大池部長の問いに岡島は目を合わせずに答えた。


「いいえ。結局一台も売れておりません」


 岡島の開き直った態度に大池部長は少し不意打ちを喰らったように言った。


「売れなかったって……だが、商談は進んでいるんだろう? 別にそれでもいい。今回は大目に見てやるから、今後頑張ってくれたまえ」

「別に大目に見て頂く必要はありません。筒宜つつむべさんのピアノを買い換えさせるつもりは全くありませんから」

「ちょっと待て、それでは本社からやる気なしと見做されるがそれでいいのか」

「ええ……おかげで決心がつきました。会社を辞めようと思います」

「ヤマカワを辞めるだと? このご時世、辞めて得することなど何もないぞ。一体辞めて何をしようと言うのだ」

「前から考えていたんですが、ドイツへ行って修行したいと思うんです」

「ドイツ!?」


 あまりに突拍子もない返答に大池部長は目を丸くした。


「ドイツって、何か就職のアテでもあるのか」

「いいえ。全くどこから手を付けたら良いのかすらわからない状態です。コネもありません」

「……とにかく、今の君は少し頭を冷やす必要がある。奥本課長にも相談して、1週間考えなさい。それで決心がついたらまた連絡欲しい」


 そう言い残して大池部長は本社に帰って行った。そして岡島はその後すぐに奥本課長に話した。


「……ということで、会社を辞める決心をしました。今迄お世話になりました」

「岡島さん、本社の人間がどう評価しようと、僕はこの一年岡島さんが良い仕事をして来たと思っていますよ。畑も良く耕されて、これから芽が出て実るんですよ。今辞めてしまったら本当にもったいない……」

「奥本課長、ありがとうございます。お言葉とても嬉しく思います。でもいずれにせよ死ぬ気で努力をしなければこの状況を抜け出せないと思うんです。でもどうせなら、その頑張りを夢の実現に使いたいんです」

「そうですか……ともかく、大池さんの言うようにひとまず頭を冷やして考え直してみませんか」

「わかりました。でも決心は変わらないと思います」


 それから結実子にも、会社を辞めてドイツへ行く決心をしたと伝えた。しかし彼女は複雑な面持ちだった。


「うん、それが最善だと思う。でも、現実に話が進むと戸惑うな……」

「どうして? 志があるならやってみるべきだって言ってくれたのは君じゃないか。おかげで決心出来たんだよ」

「そうだけど……実は最近寿和さんのこと、父に話したの。そうしたら、『その人はお前の将来に責任を持てるのか、ちゃんと将来設計は出来ているのか』って聞くから『大丈夫よ』って答えたところなの。だからこのタイミングでドイツ行きの決心のこと、父に言いにくいな……って」

「確かに……今度お父様にお会いするよ。その時僕から話そう」

「本当に? 大丈夫」

「うん。いずれ近いうちにきちんと挨拶しなきゃと思ってた」


 それから約ひと月経っていよいよ会社を去る日が近づいた。そんなある日、大池部長がひょっこりとあらわれた。そして、近くの喫茶店で岡島と話した。


「……実はな、私もロンドンに駐在でいたことがあるんだ」

「そうだったんですか」

「その時思ったのはな、海外に出ると懸命にやろうとぼーっとしようとあっという間に時間が経ってしまう。ある海外駐在者がな、向こうの人間に陰口を叩かれていたんだよ。『あいつはエンプティーだ』とな。まったく無駄に時間を使ってしまったら人生がもったいない。どうせ海を渡るなら実のある滞在にするんだな。そうだ、これを渡したいと思って持ってきたんだ」


 大池部長は鞄から一束の資料を出した。開けてみると、それはピアノ技術用語の日本語、英語、ドイツ語の対照表だった。その他にもピアノ技術に関するドイツ語の記事がいくつか添付されていた。


「これは……」

「ヤマカワ本社の工場長がマイスターの資格を持っていてな、これを持っていた。君がドイツへ行くというのでコピーさせてもらったよ。役に立つと思うから持っていてくれたまえ」

「大池部長……ありがとうございます!」


 岡島は大池部長の好意に胸が熱くなった。

 そして数日後、岡島は正式にヤマカワ勝小田店を去った。

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