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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第二章 修行時代〜日本編
24/59

予選会

「鬼平先生が妨害しているって……どういうことですか?」


 岡島の問いに村岡はこのように答えた。


「まず、山岡支部の会員にはこのように通達したそうです。『勝小田地区予選にエントリーした者は山岡地区予選には通らないよう働きかける』と」

「ええ? 支部の管理者が審査に口出し出来るんですか?」

「審査会議には支部の責任者も出席する決まりになっています。本来は公正な審査のためにそうするんですが……山岡支部では鬼平先生が強引に説き伏せて受からせたり、逆に落としたりなんてことが実際ありました。それを知っていると、とても逆らう気にはなれないでしょう」

「汚い手を……」

「予選会に落とされるだけならまだしも、一旦鬼平先生に睨まれたら何をされることか……みんなそう考えて、つい無難な選択をしてしまうんです」


 そんなことは重々承知で反旗を翻し、自分たちの味方になってくれた……こんな先生を本当に大切にしなければならない、と岡島は思った。


 ともあれ状況がわかった以上、早急に対策を講じなければならない。岡島は早速本部の八木部長に連絡した。


「そうですか……それは困ったことになりましたね。こちらから注意勧告することはもちろん可能ですが、水面下で行われならあまり意味をなさないでしょう。こうなったら地元以外の参加者を集めることに集中しましょう」

「具体的に何か案はありますか?」

「そうですね……新設の予選会が通りやすいというのは確かに魅力です。それでも距離はネックになりますね。参加者は1秒でも多くの時間を練習に費やしたい。でも長旅をするとどうしても練習時間が犠牲になります」

「では、遠方の参加者には練習室を提供するというのはどうでしょう。ウチの音楽教室を予選会期間中開放すれば何とかなりそうです」

「なるほど、大型楽器店の強みですね。でもそんなことが可能ですか?」

「何とか上に掛け合ってみます」


 八木部長との会話の後、岡島は奥本課長と一緒に音楽普及部の鈴木部長に交渉した。


「その期間教室は閉めることになる……しかも楽器移動のコストもかかる。そんな諸々の費用をピアノ営業が被るというなら構わんがね、結構デカイ金額になるぞ」

「背に腹はかえられません。よろしくお願いします」


 こうして予選会期間中、ヤマカワ勝小田店の音楽教室はピティフェ・コンペティション参加者に開放されることになった。ピティフェ会報でも1ページを割いてそのことをアピールする広告を載せた。その甲斐あって全国から多くの参加者が押し寄せ、赤字は何とか免れた。


 そしてさらに月日が流れ、ついに予選会当日となった。午前中まではほぼ順調で何も問題ないと思われた。

 ところが、午後になって参加者の年齢層が高くなってくると、予定より全体的に時間が押すようになってきた。小学校高学年以上の課題曲は長いので、予選の段階では審査員が途中でベルを鳴らして演奏を中断させるのが習わしである。しかし、余程審査員の気を引く演奏が多かったのか、なかなかベルを鳴らさないケースが出てきた。ひどい場合には最後まで弾かせる時もあった。


 休憩中に奥本課長は審査員にもう少し早く進めるようにと願った。すると審査員長が反論して言った。


「この課題曲はね、中間部まで聞かないと弾き手が楽曲を真に理解しているかわからないんですよ」

「でも、本部から聞いている割当時間に応じてこちらもスケジュール立てているんです。それに従って頂かないと困るのです」

「それはあくまで目安の時間でしょう。運営さんもある程度臨機応変に対処して下さいよ」


 岡島はカチンと来てそれが顔に出た。奥本課長はそんな岡島を抑えて穏便に頷いた。ミーティングルームを出てから、奥本課長は岡島に言い聞かせた。


「先生たちはね、一応は反論してくるんですよ。だけどそれにいちいち腹を立ててはいけません。とりあえず最初にこちらの要望を伝えておけば、ああは言ってもちゃんとやってくれるものですよ」

「そうですかね……」


 その後は奥本課長の言った通り、審査員たちは進行を早くすることに努めてくれた。しかし、それでも終了予定時刻を1時間もオーバーしてしまった。岡島はホールの舞台主任からの小言を食う羽目になった。


 2日目はさらに大変だった。本番中に騒ぎ出す子供がいて、スタッフは手を焼いた。その親までもが子供を放置してお喋りをしていた。


「恐れ入りますが、お静かに聴いて頂けないでしょうか。演奏の妨げになります」

「なんですって? 私たちがうるさい? あんたの声の方が余程うるさくて演奏の妨げじゃないのよ!」


 その客はわざと声を上げてそんなことを言ったので、ホール中の注目を集めてしまった。さらに悪いことに、その時弾いていた子供が予選で落ちてしまった。その子供の両親と先生はスタッフルームにまで乗り込んできて猛烈に抗議した。


「あなたたちがきちんと会場管理していないからウチの子落ちちゃったじゃない、どうしてくれるのよ!」


 奥本課長はしばらく彼らの陳情に耳を傾けた後、審査員長を呼んで採点の基準となったポイントを細かく説明させ、しぶしぶ乍らも納得させた。

また前日同様、進行の遅れが目立ってきた。それで舞台主任が文句を言ってきた。


「また進行が遅れているじゃないですか、いい加減にしてくださいよ。今日は舞台の後片付けもありますから、昨日みたいに遅れると我々は深夜まで仕事しなければならないんですよ!」


 岡島が舞台主任から叱られている光景を見たスタッフたちはまるでそれに乗じるように岡島に不満をぶつけはじめた。スタッフたちもかなりストレスがたまってきたのである。岡島自身にも極度な疲れが見えはじめた。しかしスタッフの八つ当たりは容赦がなかった。それを見ていた筒宜つつむべ結実子はたまりかねて皆に言った。


「ちょっとみなさん、岡島さん1人に責任を擦り付けるなんてひどいじゃないですか! これは私たちみんなの問題ですよ。一人一人が積極的に解決しようとしないでどうするんですか!」


 結実子の言葉に驚いたスタッフたちは岡島に当たるのをやめた。そして正会員の村岡が進行を早めるためのアイデアを提案した。


「参加者が各々椅子の高さや補助ペダルのセッティングをしていると時間をとられてしまいます。私たちが舞台袖であらかじめ本人の希望を聞いて、スタッフが素早く調整するようにしましょう」


 ピティフェの方針としては、椅子の高さや補助ペダルのセッティングは参加者本人かその関係者がすることになっている。落選した時に調整が悪かったなどのクレームが出るのを避けるためである。しかし、ここまで時間が押してくるとそう悠長なことも言っていられない。村岡や結実子をはじめ、指導者会員たちは自発的にこの仕事に当たることにした。もともと彼らは山岡支部で鍛えられている。手際がよかった。そして村岡のアイディアが功を奏してみるみる進行が早まっていった。


「……いい感じですね。さすが鬼平先生に鍛えられただけありますね」


 奥本課長がそう言うと、岡島もそれに同調した。


「ええ。おかげで助かりましたよ」


 そして予定時間より10分遅れたものの、無事予選会の全てのプログラムが終了した。本来、主催者は遠路はるばるやってきた審査員たちを接待する習わしになっているのだが、岡島はそれを奥本課長や店長に任せることにした。そして岡島は結実子と2人きりで打ち上げをした。


「乾杯!」

「お疲れ様でした、寿和さん」

「結実子さんのおかげだよ。もし君が助けてくれなかったら予選会はガタガタだったよ」

「ううん、寿和さん本当によく頑張った。この前は営業向きじゃないなんて言ったけど、立派にお努め果たしたと思う。やっぱり営業マンのままでもいいのかも」


 そういって結実子は下をペロッと出した。


「ちょっと結実子さん……」


 その頃、ヤマカワ本社では全国で営業に転属された調律技術者の業績が吟味されていた。大池技術部長は1人の調査書を取り上げ、それに目を通す眉をひそめて厳しい顔つきになった。


「なんだこいつは……営業に行ってからほとんど売り上げがないじゃないか」

「ああ、こいつですか、全然駄目ですね……」

「脅してでも発破かける必要があるな……勝小田店の岡島寿和!」


 岡島は本社でそのような会話がなされているとはつゆ知らず、結実子と至福の時を味わっていた。

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