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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第二章 修行時代〜日本編
23/59

 岡島はこれまで見たことのない程古いグランドピアノの前に座っていた。


「クラウトミュラー……100年は前のものだろうか」

「うん、おばあちゃんから代々伝わって来たものなの」


 今日は筒宜つつむべ結実子のピアノの調律をするために訪問していた。今迄何度かこの家を訪ねてきたが、こうして真っ正面からピアノに向き合うのは初めてだった。

 岡島がこうして結実子のピアノを調律するようになったのは、無論恋人関係になったからというのもあるが、従来このピアノを調律してきた技師者が定年退職したので岡島が担当する運びとなったのだ。


「スタインウェイやベーゼンドルファーとも違う、どこまでも真っ直ぐで器の大きい音だ。それでいてどこか素朴、これがドイツのピアノなんだな……」

「うん。これを寿和さんが調律したらどんな音になるのかしら。楽しみにしてるね」


 それから2時間弱、岡島はピアノと向き合った。100年前に造られたとは思えないほど矍鑠かくしゃくとして立派な音を響かせながら、ピアノは多くの弾き手の歴史を岡島に語り伝えていた。


(これが楽器なのか……まるで生き物じゃないか)


 出来上がると、結実子はまるで重箱の隅を突くように細かく吟味した。そこには恋人同士だからという馴れ合いの入り込む余地は微塵もなかった。


「すごく丁寧に仕事してくれてるんだけど……このあたりのキンキンするの、何とかならないかしら」


 結実子が指摘したのは、中音から高音にかけての間に混在する金属的なノイズであった。


「ここか……これを直すのは調律ではなく整音という作業になるんだけど、今の僕の腕では難しいかな」

「そうなの?」

「もちろん、整音の基本技術……ハンマーに針を刺したりペーパーで研磨したりという形式的な技術は習ってはいる。だけど、それを用いて音をコントロールするとなると、熟練と経験が必要になってくるんだ。今このピアノを何とかしようと思えば出来ないことはないけど、中途半端な音になりそうな気がしてならないんだよ」

「そうか……じゃ、ここは寿和さんが精進した頃にお願いするわ。実は、前の調律師も同じようなことを仰ってたの。でも結局彼は自分に納得のいく整音技術を習得する前に定年を迎えてしまった……難しいのね、整音て」

「そうだね……」


 岡島は結実子の語ることに相槌を打ちながら、少し前に抱いていた夢を思い巡らした。このままここにいても整音を、いや、総合的にピアノの音を作れる技術を身につけるのは不可能だと、ヤマカワに入社してしばらく経った頃の岡島は痛感していた。でも日本国内でそんな修行の出来る職場を探すのは難しい。いっそ海外に出ようか、そう思って英語とドイツ語を勉強したりもした。


 そんな岡島の回想を察してか、結実子がふとこんなことを言い出した。


「失礼かもしれないけど、寿和さんて営業向きじゃないと思う。まあ営業に回されたおかげで私たち出会えたんだけどね。もし夢があるなら、会社を辞めてでもとことん追求した方がいいんじゃないかしら」

「……そうだね。実は前から海外で修行したいって夢はあったんだ」

「海外? へぇー、どこの国?」

「ピアノの伝統というとイタリアやドイツ、オーストリアかな。特にドイツはいい。伝統ある老舗メーカーや修理工房が至る所にあるって話だ」


 岡島はそう言って目の前のクラウトミュラー製ピアノを撫でた。これはまさにその伝統の結晶だった。


「寿和さんがそう思ったきっかけって何かあったの?」

「僕はただピアノを整えるだけの技術者ではなく、もっとクリエイティブに音が作れるようになりたい、そう思っていた。ただそうなるための環境がなくて悩んでいたんだ。そんな時、落合信彦の『アメリカよ!あめりかよ!』という本に出会ってね。それを読んで『そうだ、海外だ!』って思い立ったのがきっかけだった」

「ふうん、どんな本だったの?」

「作者が貧しい境遇から這い上がってアメリカ留学を目指し、現地で活躍するまでのドキュメンタリーでね。日本でどれほど頑張っても自分の境遇ではチャンスがない、海外を目指そうとするところに共感を感じたんだ。またその英語の勉強の仕方が凄いんだよ。英語の辞書や聖書を丸暗記したり、映画を見て聞き取れるところを書き取ったり……真似してみたけど、すぐに頓挫したよ。でもあの本はもう何度もボロボロになるまで読んだ」

「寿和さんもそんなに夢中になることがあるのね。何だか、津波が襲ってきても走らない人って印象があったけど」


 結実子はそう言ってクスクス笑い出した。岡島は頬を膨らませながら言い返した。


「僕だって津波に追われたら全速力で逃げるさ」

「ふふふ、そうなの? だけど、話を聞いているとまだ気持ちが燻っているみたいね。まだ夢オチで終わらせるのは勿体ないんじゃない? 志のある内はやってみた方が良くないかしら……」

「うん、君の言う通りだ。だけど、今はピティフェや会社のこともキチンとやっておきたいんだ」

「そう……」


 翌日、ピティフェ勝小田連絡所に登録されている正会員、指導者会員を集めてコンペティション予選説明会が執り行われた。当然、指導者会員である結実子も出席していた。


「ピティフェ本部の話では、新支部の主催する予選会は通過しやすいという認識が広まっているそうです。それで、私共の主催する予選会には多数の参加者が見込まれるとのことです。運営にはヤマカワ勝小田店の社員が総出で当たりますが、ピティフェに関してはみな初めてです。それで、経験のある先生方数名にもボランティアとして加わって頂けると助かるのですが、どなたかお手伝い頂けないでしょうか」


 岡島が問いかけると、数名の挙手があった。その中には結実子や、山岡支部から移籍してきた正会員の村岡公子もいた。


「ありがとうございます。只今手を挙げて頂いた方には後日改めて詳細をお知らせします。その他、ご質問はありますか?」


 すると1人の会員が質問の手を上げた。


「予選会の会場はどこですか?」

「アンダンテ勝小田を2日間押さえてあります。大きさや設備を考えてそれが最適であると判断しました」


 “アンダンテ勝小田”の名前が出て一同は湧いた。アンダンテ勝小田は地元のピアノ教師たちには好評だったのである。

 あの遊園地でのダブルデート以来、高橋一馬は必死で上司に掛け合ってくれた。おかげで予選会当日、山村楽器の技術者の立会いはなくてもOKということになった。そればかりか、ホール側にも話をつけて『ヤマカワ勝小田店の技術者を我々は信用しているので立会いは不要』と納得させてくれたのだった。


 その晩、岡島は改めて礼を兼ねて高橋一馬を食事に誘った。


「高橋、君のおかげでピティフェの方はうまく行きそうだ。ありがとう」

「礼を言うのはこっちの方さ。由衣ってホントいい女だよな……お前、結実子さんとはうまくいってんのか」

「ああ。君らにすっぽかされたおかげでな」

「今だから言えるけどな、あれ、由衣のアイディアだったんだよ。『私たちは抜けて2人だけにさせてあげましょう』ってな」

「……まあ、そんなところだと思ったよ。結果的には良かったけどな」

「ところでお前、ピティフェ山岡支部から大分会員引き抜いたらしいな。鬼平のおばちゃん、相当怒っているらしいぞ」

「マジすか?」

「ああ。気をつけた方がいいぞ」


 それから月日が流れて、予選参加者の募集が始まった。本部の八木部長が話したように、新設の予選会には多数の応募が集まった。


「奥本課長、これならまず損益の面では問題ないですね」


 岡島がそう言うと、奥本課長は怪訝な面持ちで言った。


「そうだと良いんですが……地元からの参加者があまりないですね」


 そう言われてみると、北海道から沖縄まで様々な場所から申し込みがあるのに、地元の参加者は勝小田連絡所の会員の生徒を除いて皆無と言って良かった。言うまでなく予選会は地元の参加者が多数を占める。もしこのまま地元から参加者が出なければ赤字の可能性もある。


「いったいどうなってるんですかね……」


 すると、正会員の村岡が血相を変えてヤマカワ勝小田店にやって来た。そしてレジの従業員に言った。


「すみません、奥本さんか岡島さんとお話ししたいんです」


 そこで奥本課長と岡島は店頭に出てきた。すると村岡が慌てた口調で言った。


「大変です。鬼平先生が地元の先生たちに『勝小田地区予選に参加したらタダじゃおかない』とひそかに言って回っているそうです!」

「なんですって!?」


 奥本課長と岡島は村岡を別室に招いて詳細を聞くことにした。

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