絶景
筒宜結実子と高橋一馬がフライングカーペットから降りて来るのとほぼ同時に、小坂由衣がドリンクを抱えて戻ってきた。彼女が重たそうにしているのを見て一馬が言った。
「おい岡島、そういう時お前が買いに行ってやれよ、気が利かないなぁ」
事の成り行きを知らない一馬は若干攻め口調であった。だが、岡島にとってそれはどうでも良いことで、由衣の機嫌だけが気になっていた。
「一馬さん、私なら大丈夫ですよ。学生の頃、タッチ強くするためにダンベルとかやってましたから」
「そうなんですか? かよわく見えて案外たくましいんだ」
一馬が感心したように言うと、また2人は仲良く話始めた。結実子はそれを微笑ましく見守り、岡島は由衣がさほど機嫌を損ねていない様子にホッとした。
4人は夕方には遊園地を出て、近くのファミリーレストランで少し早めのディナーを摂った。一馬と由衣はすっかり意気投合している。これでホールの調律のことも気兼ねなく頼めると岡島は思った。
一馬は相変わらず饒舌だったが、なぜか心霊スポットの話を始め出したので結実子は眉をひそめた。この手の話題は苦手のようである。しかし由衣は身を乗り出して一馬の話に耳を傾けた。
「高岡の山の上に廃業した一軒茶屋があるんだけど、そこかなりヤバイらしいよ」
「へえ、どんな風にヤバイの?」
「あるカップルが高岡の山をドライブしてたんだけど、その一軒茶屋を見つけてそこで休憩しようとしたんだ。そして店内に入ると、青白い顔したおばちゃんが出てきて『ここはお前たちのような者が来るところではない。早く帰れ!』って言われて慌てて店を出たんだって。それで車に戻って店の方を振り返ると、さっき煌々とついていた筈の店の灯が消えて真っ暗になっていたそうだ。その男が後で知ったのは、店にいた青白いおばちゃんは10年前に亡くなったその店の店主で、友引の日になると店を開いて山中で亡くなった死者の霊を招いてお茶を出す……ということらしい」
それを聞いて岡島は水をさすように言った。
「なんか都市伝説としては微妙だな。それでそのおばちゃん見たら呪われるとか、そんなオチはあるのか?」
「いや、そういう話は聞かないな」
そのやりとりを見て由衣が目を輝かせて言った。
「友引って来週末じゃない。ねえ、みんなで行ってみない? どうせ見ても呪われないんでしょ?」
その提案に一馬は俄然乗り気であったが、結実子は眉をひそめて首を横に振った。しかし一馬が半ば強引に話をまとめたので、結局次週末に高岡の山へ4人で向かうことになった。
そして翌週末、約束の時間である夜8時より少し早めに岡島は待ち合わせ場所に行った。岡島がついた時にはまだ誰もいなかったが、程なくして結実子が現れた。
「こんばんは、岡島さん」
「こんばんは……まだ他に誰も来ていないみたいです」
ちなみに一馬と由衣はその日のうちに打ち解けてタメ口で話していたが、岡島と結実子は相変わらず敬語のままであった。しかも遊びに来ているのに、つい仕事の話をしてしまう。そうしているうちに時間は8時半になろうとしていたが、まだ他の2人はやって来なかった。
「まだ来ませんね」
「そうですね、電話してみましょうか」
結実子はそう言って携帯を取り出し、由衣に電話をかけた。
「あ、もしもし。筒宜ですけど……えっ? そうなの……それは大変ね、お大事に……」
結実子が俯きかげんで通話終了ボタンを押した。
「どうかしたんですか? 由衣さん」
「何だか急に体調が悪くなって、来れなくなったそうです……」
「それは残念だね。高橋のやつ、ガッカリするだろうな」
すると岡島の携帯に高橋一馬から電話がかかってきた。
「ごめん、俺、急な仕事が入ってさ。ちょっと行けなくなったから、お前たちで楽しんで行ってきてくれ」
岡島は電話を切って言った。
「高橋も来れなくなったみたいです……」
「そうですか……どうしましょう、岡島さん」
「まあ折角だから僕たちだけで行きますか……」
「ええ」
岡島は車の停めてある所まで行くと、助手席のドアを開けて結実子を乗せた。ひょんなことから2人きりでドライブすることになり、岡島は胸の高鳴りを感じた。もちろん結実子と2人きりになることは初めてではなく、これまでに幾度もあった。しかしそれはあくまで仕事上の付き合いであって、それ以上発展することはなかったのだ。
岡島は予め調べてあった目的地の住所をカーナビに入力し、高岡の山に向かって車を走らせた。カーステレオでピアノ音楽を流すと、結実子が反応して言った。
「このバラ1、ホロヴィッツのアンヒストリックリターンですよね。カーネギーホールの」
「流石です。よくわかりましたね」
「スタジオ録音と違ってミスタッチもありますから……」
「そうですね。ミスタッチってそれこそ同じようには二度と弾けないから、録音としては楽譜通り正確に弾くよりむしろ貴重かもしれませんね」
「ふふふ。岡島さん、面白いことおっしゃいますね……」
結実子は口に手をあてて小さく笑った。(なんかいい感じだぞ)と岡島は思い、ますます胸を膨らませた。その時、結実子がふと言いにくそうな調子で言った。
「あの……もう心霊スポットって近いですか?」
「いえ、まだもう少しかかりますよ」
「ここまで来てこんなこと言うの申し訳ないんですけど、一馬さんと由衣ちゃんがいないから、あえて私たちだけで心霊スポットに行く必要はないんかな、と思ったりしたんですけど……」
そうだ、そもそも結実子さんは心霊スポットには乗り気ではなかったんだ……と岡島は思い、別の提案をした。
「それじゃ、心霊じゃなくて夜景スポットに行きませんか? さほど離れていないところにあるんですけど、すごくきれいですよ」
「はい、そっちのほうがいいです」
そう言う結実子の方を向くと、彼女はニッコリと微笑み返しをした。
(かわいい……)
岡島の心臓は早鐘を打って飛び出さんばかりになった。
やがて車は夜景スポットに近い駐車場へと入っていった。車を降りると何組かのカップルが仲良さげに歩いていた。岡島と結実子はその中でどこか初々しさとぎこちなさを醸し出していた。
「カップルたくさん来てますね……」
「そうですね」
岡島はどさくさに紛れて手をつなごうかと思ったが、勇気が出てこなかった。そしていよいよ夜景スポットの高台に出た。
「わぁ……きれい……!」
結実子は目の前に広がる絶景に目を燦々と輝かせていた。岡島はそんな彼女を黙って見つめていた。彼女は少し冷えたのか、両手のひらを口に当てて息をかけていた。
「結実子さん、寒いですか?」
「ええ、少し」
そう言って下ろした手を岡島はぎゅっと握りしめた。結実子は驚いて目を丸くした。
「びっくりさせてごめんなさい。でも……」
岡島は一旦深く息を吸い込んだ。そして思い切って言った。
「結実子さん、僕はあなたのことが好きです!」
その言葉の後、2人の時間がしばらく止まったように互いに感じた。
「僕と付き合って下さい!」
やっと言えた。岡島はそう思ったが、しばらく返事がなかったのでちょっと心配になった。結実子は俯いていた顔を上げて恥ずかしそうに答えた。
「嬉しいです。岡島さん、本当に嬉しいです……こんな私でよかったら……」
結実子はそれ以上何も言えなかった。岡島は自問自答した。これってOKなんだよねと。そしてそれを確認するように問うた。
「キス……してもいいですか?」
結実子は何も言わずに頷いた。岡島は不器用な仕草で彼女に顔を近づけ、そっと唇を重ねた。その瞬間、彼女が少しだけ震えているのが伝わってきた。




