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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第一章 東方の星
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投資

 ドイツの小都市・ヴォルフェンビュッテルにあるクラウトミュラー社は、1850年に創業されたピアノメーカーである。ピアノ音楽の黄金期である19世紀から20世紀初頭にかけては名器中の名器として音楽家から高い評価を受け、業績も安定していた。


 ドイツ国内にはそのような老舗ピアノメーカーが多数存在していたが、ピアノ産業は徐々に斜陽化して21世紀に入ると倒産や生産中止に追い込まれる老舗ピアノメーカーが相次いだ。

 それは世の中全体の不景気の煽り、またアジア系の安価なピアノの台頭、そしてピアノを習っても電子ピアノで間に合わせるのが普通になってしまったことなどが原因している。


 そのような中でもクラウトミュラーは比較的堅実に業績を安定させていた。だが、さして上昇していたわけでもない。そのことが、メインバンクのヒルデスハイム銀行から目をつけられることになった。


「設備投資?」


 クラウトミュラー社の社長、ハインツ・クローゼは銀行の突拍子もない提案に目を丸くした。


「ええ、今がその時です」


 ヒルデスハイム銀行の外交員、ハイナー・ブルクドルフはクローゼ社長の目をじっと見つめながら答えた。


「しかし、我々も何とか黒字経営を維持しているが、ギリギリの綱渡り状態だ。とても設備投資などできる体力はない」


「クローゼさん、私どもはそれを先細り経営だと見なしているんです。これと言った大きな投資のないことが銀行としては将来性に不安を感じさせるんです」


「そんな無茶な……理屈はそうでも現実的な収入源がなければ投資などあり得ない」


「私どもの調査では、御社の製品はアメリカで評価が高い。アメリカは今サブプライムローン景気で湧いています。彼らは家を買った後、次々に高級品を買い付けているんですよ。これに乗じない手はありません。設備投資して増産体制をとって、アメリカに販売促進チームを派遣すべきです」


「しかし……サブプライムローンなんて所詮アブク銭じゃないか。あんなものアテにしていたら、痛い目に会うのは目に見えている」


「アブク銭だろうと何だろうとそれをキッカケに大儲けできるかどうか、それが経営者の器量の問われるところです。それともクローゼさんはチャンスをみすみす逃す単なる守銭奴で一生終えるつもりですか?」


 ブルクドルフの口車に乗せられてクローゼ社長は設備投資に乗り出した。またMBA所持者3人を営業スタッフとして雇い入れ、販売促進チームとしてアメリカに派遣した。

 その戦略が功を奏し、アメリカからのピアノ発注が相次ぐようになった。まずは好調な滑り出しであった。


 ところが間も無くサブプライムローンは頭打ちとなり、さらにリーマン・ブラザーズ倒産がキッカケとなってアメリカ経済は大恐慌となった。当然アメリカからのピアノ発注は途絶え、クラウトミュラー社には多額の借金を背負うことになった。経費削減、人員削除、工場施設の一部貸し出し、設備の売却などを繰り返して何とかしのいでいた。


 それから何年も経ってようやく経営に落ち着きが見え始めた頃、ヒルデスハイム銀行のブルクドルフがクラウトミュラー社のクローゼ社長の元を訪れてきた。


「融資出来ない? どういうことだ!」


 クローゼは思わず声を荒げた。ブルクドルフは深々と頭を下げながら答えた。


「我が社での借金を全額返済して頂かなければ、次の融資は出来ないという上層部のお達しでして……」


「そもそもウチが背負っている負債はあんたの入れ知恵のせいで出来たものだろう。少しは責任を感じたらどうだ」


 ブルクドルフは俯いて黙ったままクローゼの怒りを受け流した。クローゼにしても、助言者に経営失敗の責任をなすりつけることなど出来ないことは重々承知の上だ。ただ、怒りのやり場がなかったのである。


 次の日からクローゼと会社のオーナーであるベン・クラウトミュラーは金策に奔走した。しかしピアノ業界そのものが厳しい状況にあり、クラウトミュラー社に助けの手を伸べるような銀行は皆無であった。

 このままでは従業員への賃金支払いも出来ない。クローゼは支払いの分割案、時短労働クルツアルバイトの急遽導入を経営委員会ベトリープスラートに掛け合ってみたが、猛反対にあった。そればかりか、投資失敗について痛烈に批判を浴びせられる始末であった。クローゼは疲労が蓄積して胃潰瘍になった。


「ストレスですね……クローゼさん、少し休まれた方がいいですよ。頑張っても健康を害しては元も子もない」


 医師はクローゼにそうアドバイスしたが、聞き入れられるとも思っていなかった。


「なかなかそうもいかなくてね……。何しろ従業員たちの生活がかかっているから」

「まぁ、出来るところで息抜きをして下さい。お大事に」


 クローゼが病院を出ると、携帯電話に着信があった。


「ハロー」

「……クラウトミュラー社のクローゼ社長さんですか?」

「はい、そうですが」


 相手は訛りの強いドイツ語だった。クローゼはその声に心当たりがなかった。


「クローゼさん、お金にお困りだそうですね。お気の毒です」

「からかっているのか? 誰だか知らんが冷やかしなら切るぞ」

「まぁお待ちなさい。あなたに朗報があるんですよ」

「朗報?」


 電話の相手は少し間を置いて言った。


「申し遅れましたが、私は華商ホワシャン銀行のニーと申します。当行は御社に融資させていただきたいと思っているのです」

「融資?」


 クローゼは思わず大声で聞き返した。胡散くさい相手ではあるが、今の状況では願っても無い話である。


「ええ。もし興味がありましたら当行のハンブルク支店までご足労願えませんか?」

「わかりました。今から車でそちらに向かいます。詳しいお話はその時聞きましょう」

「ええ、お待ちしています」


 そうしてクローゼは電話を切り、ハンブルクに向かって車を走らせた。

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