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鋼琴一帯  作者: 谷川流慕
第一章 東方の星
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蜥蜴

 ビルト紙の記事を要約すると、このようなものであった。


 ──投資の失敗により経営難に陥った老舗ピアノメーカー・クラウトミュラー社は中国・イーストスター社の資本注入を受け入れることになり、実質的に買収された。イーストスター社は中国産ピアノにドイツ産の上塗りをした新商品の企画を打ち出したが、従業員たちから猛反対に逢い、双方は激しくぶつかり合っている──


 そしてどこから嗅ぎつけたのか、倉庫作業員ウーヴェ・ブッシュがボイコットの報復措置としてプライバシーを家族にバラされたことなども面白おかしく書かれていた。


 中国のメディアは「経済日報」誌でビルト紙の記事を取り上げたのを皮切りに、大々的にこのスキャンダルを報じた。そのためイーストスター社は中国メディアを相手に釈明会見を開かざるを得なかった。

 イーストスター社のレイモンド・タン社長はその会見上でこのように発言した。


「オストシュテルンという商品の企画は野原という日本人社員が勝手にやったことです。我々経営陣はそのことを一切知りませんでした。即刻この商品の開発を中止し、野原は懲戒免職にしたいと思います」


 タン社長はそう言うと、役員ともども起立して記者たちの前で深々と頭を下げた。

 会見での発言通り、オストシュテルンの開発・テスト販売は中止となり、ピアノは中国に送り返された。野原は懲戒免職となり、2度とクラウトミュラー社の敷居をまたぐことはなかった。


 岡島が仕事を終えて帰ろうとした時、携帯が鳴った。野原からだった。


「もしもし、何のご用ですか」

「先生、時間があったら一緒にイケアに行って貰えないかな。ドイツを去る前にもう一度あそこのコーヒーを飲んでおきたいんだ」


 岡島は断る理由もなく、承諾してイケアに向かった。到着して席に座るなり野原は言った。


「結局私は蜥蜴とかげの尻尾だったというわけさ。まあ心の何処かでそれは分かっていたんだが……それが気の焦りとなってああいう失敗をしでかしたんだな」


 岡島は敢えて何も答えずにコーヒーを啜った。一体この人は何のためにこんなことやってきて、こんな目に会っているのだろう……そう思っていると野原が顔を近づけてきて言った。


「先生、一帯一路って言葉知っているかい?」

「一帯一路ですか……たしか、習近平総書記が提唱したという経済圏構想のことですよね」

「そうだ。シルクロードをモデルとして、中国を中心に経済を回す考えだな。ピアノ業界でもその流れに乗りつつある。言わば綱琴一帯だ」

「綱琴一帯……」

「ピアノ演奏の方では既に中国人は世界のトップに立っている。ランランやユンディ・リーのようにな。ピアノメーカーもそれに追いつけ追い越せという感じだ。タン社長にしても、ワン氏にしても結局根底にある考えはそこさ。一見全然違うように見えるがね」

「確かに、タン社長とワン氏は全然違う人種であるように見えます」

「彼らは自分の綱琴一帯を実現するために私や先生のような人間を利用しようとし、持ち上げてくるだろう。その慣れの果てが……今の私と言うことさ。よく肝に銘じておくがいい」


 野原がコーヒーを飲み干したところで岡島は聞いてみた。


「これから……どうするんです?」

「実は、こうなることを見越してニュージーランドの楽器店に働き口を見つけていたんだ。オストシュテルンが軌道に乗ったらどっちみちそこへ行こうと思っていたのさ」

「……したたかなんですね」

「ああ、そうでもなければタンみたいな奴とは渡り合えんさ。私は奴とはこれで縁を切るが、先生はまだまだ付き合っていくことになるな。いいか、絶対に気を許すなよ。こちらの手のひらを見せず、奴の真っ黒な腹の底に何があるのか常に探っておけ。そうすれば喰われることはない」

「はい……」


 岡島は少し頼りなげに返事し、会合はお開きとなった。その翌日、野原は荷物を纏めてニュージーランドに向けて飛び立った。


 ビルト紙にオストシュテルンの記事が載って以来、クラウトミュラー家ではピアノ工場を手放す話が持ち上がっていた。ベンの長男ヤンは個人事業を営んでおり、クラウトミュラー債券を手放して資金に充てたいと申し出た。それをきっかけに一族中のクラウトミュラー債券所有者はこぞって売却を検討しはじめたのだ。


「もう先祖の顔を立てるとか、そんな時代ではないでしょう」

「あんなにマスコミに叩かれて、一族の誇りどころかもはや恥ですわ」

「我々が所有したところで何のメリットもない。売却すべきです」


 そのような意見に押されてベン・クラウトミュラーはピアノ工場をイーストスター社に売り渡す決断をした。クローゼ社長からその報告を受けた時、レイモンド・タン社長は目を鈍色に光らせ、ゆっくりと口角を上げた。と、その時タン社長の手元の電話が鳴った。


「……私だ」

「華商銀行ハンブルク支店のニーです。この度は晴れてクラウトミュラー社CEOに成られたとのことで、おめでとうございます」

「ああ。ニー支店長、君の言う通りだったな。おかげで上手く行ったよ。礼を言うぞ」

「どういたしまして。これから如何なさいますか?」

「取り敢えず新体制を整えて取り組むつもりだ。準備が出来次第、私も挨拶がてらドイツへ行こうと思う」

「そうですか、お目にかかれるのを楽しみにしております。またお役に立てることがございましたら、何なりとお申し付け下さいませ」

「ああ、頼んだぞ」


 電話を切ってタン社長は狡猾そうにほくそ笑んで独りごちた。


(これからが正念場だ。せいぜい役に立ってもらうぞ……)

 第一章終了、第二章に続く。

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